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芥川龍之介作『長崎』を称えるだけ

作者:

――

 菱形の凧。サント・モンタニの空に揚つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。

 路ばたに商ふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火照るけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕。

 丸山の廓の見返り柳。

 運河には石の眼鏡橋。橋には往来の麦稈帽子。――忽ち泳いで来る家鴨の一むれ。白白と日に照つた家鴨の一むれ。

 南京寺の石段の蜥蜴。

 中華民国の旗。煙を揚げる英吉利の船。『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂の禿げそめた斎藤茂吉。ロティ。沈南蘋。永井荷風。

 最後に『日本の聖母の寺』その内陣のおん母マリア。穂麦に交じつた矢車の花。光のない真昼の蝋燭の火。窓の外には遠いサント・モンタニ。

 山の空にはやはり菱形の凧。北原白秋の歌つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。

――


 まるまると引用。青空文庫は偉大です。

 上記は芥川龍之介の『長崎』という作品です。


 初めてこの作品を読んだとき僕は愕然としました。18歳で、高校の授業中に電子辞書で小説を読んでいたときのことです。読み進むごとに、全身に鳥肌がたっていったことを今でも鮮明に覚えています。

 一文ごとに鮮明に浮かび上がる、長崎の街の風景。凧が揚がる空。そよ風。道を行く人々の影。屋台の商人が呼びかける声。川のせせらぎ。夏の日差し。文章と共に出来上がっていく頭の中の長崎。「芥川、貴様なんてものを書いたんだ」と思いました。


 『長崎』の最大の特徴は、全て体言止めであることです。

 体言止めのメリットは余計な言葉が削れて文章のリズムが良くなることですが、この作品にはそれが顕著にあらわれています。 

 例えば一行目です。


「菱形の凧。サント・モンタニの空に揚つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。」


 文章を一部変えてみます。


「菱形の凧が飛んでいる。サント・モンタニの空に凧が揚がっている。うらうらと幾つも凧が漂っている。」


 比べて見て、どうでしょうか。明らかに、前者のほうが引き締まっていて、凧にピントがよく合っています。

 二行目、三行目と続けて見ても同じことでしょう。この作品には余計な文字がありません。体言止めによって洗練されています。体言止めのデメリットとして、「文章が軽くなる」とか「単調になる」とか言われることがありますが、正しく使えばより文章全体が引き締まるということがよく分かります。


 続いて、僕が好きなのは、この作品の「目線」です。

 空に揚がった凧を見上げているところから始まります。作者は凧を見て「おー揚がってる揚がってる」といったような、楽し気な感情を持っているような気がしませんか。この時点で、長崎の風景を楽しんでいることが分かります。

 つづいて、夏蜜柑やバナナ、敷石などが出てきます。目線が空からちょっと下がって、地面に近づき、さらに果物の匂い、夏特有の暑さが文章から感じられてきます。そこにすかさず「町一ぱいに飛ぶつばめ」があらわれ、目線に俯瞰的な印象を与えてくれ、さらに「見返り柳」が文章に立体感をあらわします。この時点で、作者の視点は見事に読者と共有されてしまいました。空から地面へ、そしてまた空へ、最後には身近なものへ。長崎を本当に歩いているような気分になってしまう。

 続いて運河があらわれると、そこには麦藁帽子の少女(多分少女でしょう。まさかオッサンではあるまい)、そして家鴨の群れが泳ぐさまが描かれています。川の流れを見つめていると、麦藁帽子の少女の足音が聞こえてきます。家鴨の群れが、がーがーと鳴きながら泳いでいます。時の流れが、音と共に。

 そしてここは長崎ということを思い出させるのが、「中華民国の船」からの文章。長崎とは、貿易の都市です。芥川は明治大正の人間ですが、やはりそのころも長崎と言えば貿易だったはずです。外国とのかかわりで言えば他の都市とは比べ物にならないでしょう。イギリスの船を見て、芥川は斎藤茂吉の詩を思い出します。また、ロティ、沈南蘋、永井荷風などの長崎に縁ある作家たちを連想します。思考の流れの表現です。

 そして、キリスト教。長崎は日本最古のキリシタンの街です。教会の風景。矢車の花の明るい色。教会の中は、蝋燭の明かりが満ちています。窓から外を見ると、サント・モンタニが見える。(サント・モンタニとは、おそらくモンタナのことなのではないか、と思います。長崎っぽい外国風な表現? なんか素敵ですよね) 最後に、空にはやっぱり凧が飛んでいました。うらうらと、漂うように、凧が飛んでいます。

 これでこの物語は終了です。短い文章の中に凝縮された、当時の長崎の街並み。風景、匂い、気温、風、音。文章が五感に働きかけてくるのが、あまりにも衝撃でした。


 文章を書く上で最も重要なことは、「伝える」ことです。そのためだけに、小説家は大いに頭を悩ませ、工夫し、自分の思いを文章にします。そういう意味で『長崎』は神がかっています。平易かつ明快なリズムの良い文章のなかに、伝えるべきこと全てが詰まっています。文章のひとつの極致です。

 難しい表現も、複雑な心理も、全く必要ないと言わんばかりの、そこにある長崎という街の描写。まるで絵画のようであり、音楽のようでもあり、映像のようでもある。僕はこの作品が数十年前に書かれていたことが、理解できても信じられません。ネットはおろか、写真のような資料を集めることも今と比べてずっと困難だった時代に、ここまで細緻な表現ができたこと。芥川龍之介という才能に、嫉妬すらできない。自分との歴然とした才能の差に、みじめにすらなりました。

 文章を研究すると、必ず「人間」というテーマが出てきます。文章を書くのは人間、つまり作者であって、作者を通さずに文章が出来上がることはあり得ません。良い文章には人間味があります。それは即ち、作者の思いが読者に伝わっている、ということです。

 ところが、『長崎』という小説には、文章の中にそのまま人間が歩いているのです。人間味どころではありません。人間です。ひとりの人間の長崎の旅を、読者はまるっと追体験してしまいます。なんて技術、なんて感性。僕の語彙では褒めきれない。

 

 サント・モンタニの空。柳の影で家鴨たちの鳴き声を聞きながら、蒸し暑い夏に天を仰ぐと、凧が飛んでいる。そんな風景が、読むたびに思い起こされる『長崎』――最高です。

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[一言]  素晴らしいレビューだった。
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