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「それから。ピアスをしていたことがあるかと、聞かれたよ」
その言葉に弾かれたように綺里は立ち上がって――直美に腕を掴れて階段を駆け上れなかった。
「直兄!」
「どうするつもりだい、綺里君」
「母さんの術の補強を!だって、思い出したら輝也が!」
静かな問いに叫び返して、しかし直美の顔を見てすぐに勢いを失い、綺里は叱られたように項垂れた。
「何で、今さら…」
「輝也君の心を守るための一時的に術だから。記憶が戻る時は邪魔をしてはいけないと言ってたね。必要だから思い出すんだって」
泣きそうな声でこぼしてしまった綺里に直美がかけたのは、何度も聞いた母親の言葉だ。
覚えているね?と問われて頷いた。
部屋をそっと覗くと、体の左側を下に、横を向いて眠る輝也がいた。
両手は隠すように耳に添えられている。普段は髪で隠れている左耳には回りと少し色の違う小さな凹みのようなものがあるのを綺里は知っている。
カーテンが開いたままで、欠けはじめの低く大きな月が見えていた。
「綺里君、今日、街で何か気づくことはなかったかい?」
同じように静かに輝也を見つめていた直美が部屋の静ひつを破らないようにささやいた。
「…いつもより警察が目に付いたけど、市長の件だと思う。学校は市役所も近いし」
「僕も昼に出たときに気になった。あと、物騒な空気の男も何人か紛れ込んでるみたいだった」
「関係があると思う?」
「さすがに輝也君を狙っているとは思えないけど、タイミングが気になる。綺里君も気をつけないといけないよ」
「わかってる。直兄も」
「ああ」
頷きあって、綺里は静かに扉を閉じた。
その時が来なければいいと思っていたけれど、もし来たならば、支えるのが兄弟の役目だった。
ふっと目覚めて身体を起こすと、自分のベッドだった。
制服はハンガーにかけられている。ソファで寝てしまったのを部屋に運んでもらった上に着替えまでしてもらったことに気づいて輝也は顔が熱くなった。
夕飯も食べずにぐっすりと眠ったので頭はすっきりしている。夢も見なかった。
「直美兄さんのおかげだな」
ハーブティーを思い出したら空腹を感じて立ち上がる。
忍び足でキッチンへ向かい、とりあえずの食べ物を求めて冷蔵庫をあけると、『輝也の』と綺里の字で書かれた付箋がついたボックスがあって、おにぎりが入っていた。
くすぐったい気持ちになりながら手を合わせる。
「いただきます。綺里」
手早くジャージに着替えて家を出れば、日は昇っている時間だが曇り空で薄暗かった。
「今日は雨かな」
空を見ながら軽いストレッチをして走り出す。
近くにある飛行場の横の道はまっすぐに伸びていて無心で走れた。時間的なものもあるが民家が少ない地域で、歩いている人影は一つもない。
身体に風をまとって、輝也は飛ぶように走った。
記憶の最初は、輝也は怪我だらけで葉山家に寝かされていて、体中が痛かった。
しかし、痛みは耐えることができても、独りだということが怖くて愕然としていた。言葉や常識といった記憶はあったけれど、自分の顔以外の人間は一人も浮かばない。喪失感に震えた。これからはここにいればいいと言われても、居場所が無くなったとばかり考えていたように思う。
母が――葉山志信が傍にいてくれて、輝也の涙をぬぐってくれたのを覚えている。ひんやりと柔らかな女性の手は優しさの形のようだった。
起きられるようになってからは、それまでも顔を見せては世話を焼いてくれた兄2人――主に綺里に引っ張りまわされて、葉山家のことを始め、近所のことなど、ここで生きていくためのことを覚えるのに必死で落ち込む暇のない日々だった。いつしかそれが当たり前の日と思えるようになって、輝也は葉山輝也になった。
それが5年前のこと。たった5年だが、輝也の全てだ。大切で暖かな全て。
去年母を亡くして、もう兄二人しかいない。
二度と居場所を失いたくなくて、普通ではないこの力のことを話せなかったし、記憶を取り戻すのも恐れていたかもしれない。今を変えてしまいそうなものが怖かった。
でも、恐れる必要はないのかもしれない。
輝也以上に兄たちは輝也を知ってくれている。
記憶が戻っても何も変わらないと、兄たちを信じられる。
むしろ怖かったのは自分が変わることだったが、今こう思う自分と、そう思わせてくれる家族を信じるなら、きっと恐れることはない。
スピードを徐々に緩めて立ち止まり、息をつく。飛行場を半周ほどして駅の近くまで来ていた。ゆるく風を動かすと薄らと汗が浮かんだ肌に心地よかった。
不安はある。それでも輝也は家への道を走り出した。
家に帰るとリビングから楽しそうな話し声が聞こえた。
どんな顔をすればいいのかわからなくて「ただいま」と小さな声になりながら入る。
と、顔面に柔らかいものがぶつかった。
「ぶっ!え、なに?!」
ずり落ちるものを受け止めてみるとフェイスタオルで。
投げつけたのだろう綺里が笑ってこちらを見ている。直美は『世界の家庭料理』を膝に広げていて。
「お帰り輝也。昨日も風呂に入ってないんだから、ご飯の前にシャワーな」
「おはよう。輝也君、ブラジル料理ってどう思う?夕食にどうかな?」
「直兄、作るの俺だからね!つか、ブラックビーンズって近くに売ってるわけ?」
にぎやかな兄たちに吹き出してしまう。かなわないなと思って、それが嬉しい。
「笑ってないで、速くしないと先に食べるぞ」
「さっぱりしておいで。待ってるから」
「直美兄さん、綺里を止めといてね!綺里、僕はボルシチが食べてみたい!」
ボルシチって、ビーツとかブラックビーンズ以上にさぁ!と嘆く声と笑い声を聞きながら、輝也も笑ってお風呂場に飛び込んだ。
朝食後、自然と改まった空気になって輝也に注意が集まる。
綺里が入れなおしたコーヒーの香りが漂う中、輝也は話した。
昨日の夢、陸上部をやめた理由、能力、そして転校生。
話し終わると、しんと部屋が静まった。
話を飲み込むような、深く考えるような短い時間の後、直美が立ち上がって部屋を出て行く。すぐに戻ってきた手には小さな箱があった。
無言で目の前に置かれて、直美を見つめ返す。
「これは?」
「開けてごらん」
促されて輝也は箱を手にとった。予感に指が震える。
ふたを開けて中を見て、ああ…と無意識に声が漏れた。
そこには片方だけのムーンストーンのピアスがあった。
「…これ、僕が?」
「ああ」
「2人は、僕の過去を知ってるの?」
「知っていることはある。輝也君が望むなら話せることも。このピアスもそうだよ」
「なら、何で…」
今まで教えてくれなかったの?口にはしなくても眉間に皺が寄った。
それを見て黙ってコーヒーを口にしていた綺里が口を開いた。
「記憶は感情も込みだろ。それは俺たちにはわからないことだから教えれないし。輝也が思い出さないと、ピアスを渡されていても何の意味も持たなかっただろ」
「それは、そうかもしれないけど」
逆にピアスから思い出すこともあったかもしれないと輝也は思った。
そういう考えは兄たちにはお見通しらしい。
「記憶が必要で、輝也君が思い出したいと思ったら、思い出せるようになってるんだよ」
「思い出せるように、なってる?」
「母さんの言葉だ。輝也が記憶をなくすきっかけになった事故のことは詳しく知っていたのは母さんだけだけど、そこでショックなことがあって、輝也の心が記憶を封じ込めたんだって言ってた。でも、それでも輝也の心は不安定で…突発的に思い出して混乱することがないように、一時的な術をかけたって」
「一時的な、術?」
「そういうことができる人だったんだよ。輝也君の風と同じように」
今はもういなくなってしまった人を見る目をして直美は優しく微笑んだ。
記憶のこと以上に知らなかったことの登場に輝也は呆然とするしかなかった。
何をどれだけ、どの時点で出していくのかってことは今回とても悩みながら書きました。
自分はほぼ全部のことをわかっているので、初めて読む人がどう感じるのかわからないし、色々バレバレなのかなぁとか。
むぅ、お話書くの難しいですね。




