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学校から離れるにつれて歩く足が速くなった。
走りたいけれど、走らない。電車の椅子に座って、輝也は息を吐いた。
走ることは好きだ。
高校でも陸上部で5000メートルをしたいと考えていた。あの時までは。
中学最後の勝負。大野と思い切り走って、楽しくて、もっと速くなりたいと思った。
ラストスパートで大野が前に出て、このままでは負けると思って、負けたくないと思った。
――もっと速く走れるはずなのに
確信めいた考えが頭に浮かんで、そこからは自分でも何が起きているかわからなかった。
背中に羽が生えたように後ろから風を感じた。足が軽くて前にぐんと伸びた。輝也の前だけ道を作るように空気が避けたようだった。
軽々と経験したことのないスピードが出て、気づけば大野を抜いてゴールしていた。
ゴールして、これは駄目だと思った。
普通に走って出したスピードじゃないという直感があった。そして、これを人前でしてはいけないと。
何かわからないけれど、やってはいけないことをやってしまったという気持ちが渦巻いて倒れそうだった。
心配してくれる大野を振り切って逃げることしかできなかった。
地元駅で地下鉄を降りると、出口からの強い風が輝也に吹き付けた。
目を伏せて階段を上がると、風が輝也の周りだけ優しく和らいで流れていった。
今では自分の力を理解していた。
輝也の望みに応じて風が動く。風に乗るように走れるのだ。
このことはとても言えない。人に知られてはいけない。
それでも輝也は走ることが好きだった。風を使って走ることが。
「だから人のいない時間に隠れて走ってたのにな」
見られてすぐおかしいと思われるようなスピードや走り方はしてないけれど、警戒が足りなかっただろうか。
鬱々としながら家に帰ると電気が消えていて誰もいない。
綺里は弓道部、直美は大学だろう。一人の家はいつものことなのに少し寂しかった。
「なに落ち込んでるんだーって突っ込まれなくて良かった、かな」
自分の強がりに笑いながらソファに腰を下ろすと、ずっしりと疲れを感じた。
「今日は朝からメンタル攻撃の連続…」
厄日かなと呟きながら、輝也は知らず知らずのうちに目を閉じた。
またあの夢を見ている。
ソファで一休みのつもりが寝てしまったのかと考えて、こんな風に意識があるのは初めてだと気づく。明晰夢というやつだろうか。
「一日に二回もこの夢を見るのは初めてかもしれない」
二回目ともなると一味違ってくるものなのだろうか。現在の、高校一年の姿で輝夜は月を見上げた。
夢の月はいつも満月だ。
「きれいだな」
聞きなれた声が隣から聞こえて振り向くと、いつも通り微笑む少年がいる。
輝也の鳩尾ぐらいの位置に頭があって、黒い髪に旋毛が見えた。やはりと言うか、その顔は影がかかって見えない。
思い切って覗き込めば顔を見れるだろうか。
躊躇する間に少年は口を開いた。
「凄い血だ」
「血?」
いつもと違う言葉に思わず聞き返してしまう。
月は冴え冴えと青白い光を空から放ち、2人を照らすだけで、赤くも、落ちて来もしない。
少年が輝也の手を取った。
触れられたことに驚き、されるがままになって、ふと、その自分の手を見て息を呑んだ。
「っ!!」
両手は真っ赤だった。
ぬらぬらと光るそれは、血だ。赤いのは輝也の両手だった。
「なっ…これっ、なにっ…」
息が喉に詰まって声を発するのが苦しい。ガタガタと体が震えるのに足は硬直していて重く、そこに縫い付けられたようだ。
ただただ自分の手に目が釘付けになっていると、小さな手がそれを隠すように上から重ねられた。白い手に血がつくのを気にする様子もない柔らかな動きに輝也はハッと顔を上げた。
少年はまっすぐに高校生の輝也を見返していて、思いがけず正面から向き合う。
が、その顔は、霧がかかったようにぼやけて表情を見ることができない。
かわりに見つけたのは少年の左耳に輝く石で。
見覚えのある青白いそれは。
「っ、霜月…サクヤ…!」
今日、学校で、転校生の耳に見たものだ。
呆然と目を見開く輝也に少年は優しく微笑んだ。
「また一緒に見ような。次も、その次も、一緒に…」
「…」
唇が震えて何も言えず、乾いた目に涙がにじんで頬をつたっても体の機能が消えたように動けない。
少年が笑顔を浮かべたまま輝也の左頬に手をそえて、顔の向きを変えさせる。
抗うこともできずその先を見て、「ひっ」と喉が引きつった。
そこらじゅうに血を流した人間が倒れていた。力なく、光を映さない目がこちらを見ている。
むせ返るような血の匂いが輝也に叩き付けられた。
毎日暑いですね。
誰かの一瞬のお楽しみになれていたらいいなと思いつつ更新!