最後の選択編2
「聖女、私だ」
声の主はジェレマイアだ。一つ前の世界で起こったことと同じように、一月姿を見せなかったジェレマイアが訪れる。
「どうぞ……」
カチャカチャと鍵が開く音がし、軽装のジェレマイアが姿を見せる。
「喜べ、聖女! 我が軍は負けて、王都は包囲されている……ははっ、もうすぐ兄上があなたを助けにくるはずだ」
夢でみた過去とまったく同じように、憔悴しきった顔。椅子に腰をかけているクラリッサの近くまで、ゆっくりとした足取りで歩み寄る。そして、彼女の反応をじっと観察して、大きくため息をつく。
「……そうか、あなたはそれすら知っていたのか」
前回のクラリッサは国王軍が敗れたことに驚き、マティアスが助けに来るという知らせに、内心で喜んだ。今回の彼女はそれとは違う表情をしているのだろう。だからジェレマイアの言葉が変わった。
ここからがまだ一度も到達したことのない世界だ。
「今代の導きの聖女は、この国をどこに連れていくのだ?」
クラリッサが座っているのは、格子窓の近くにある椅子。ジェレマイアはその近くに簡素な椅子を運び、腰を下ろす。
「どこへも……どこへも行けません。私は時に囚われて、どこへも行けない」
ほとんど同じ高さになった視線。クラリッサは冷たいアイスブルーの瞳をしっかりと見据えて、そう告げる。表情の乏しい彼の本心を少しでも読み取るために。
「どういう意味だ?」
「私がみたのは、陛下が私を殺める夢です。……今の陛下も、それを望んでいますか?」
クラリッサの言葉に、ジェレマイアは目を見開く。
「そうか、未来の私はあなたを道連れにするのか……。想像以上の外道だな……。私は、あなたを手にかけるのか……そうか」
一つ前のジェレマイアの行動は、衝動的なものかもしれない。けれど、心のどこかに以前からそうしたい気持ちがあったのだろう。だから目の前のジェレマイアにも、クラリッサを殺めて、誰のものにもさせないという気持ちが、確かにあるのだ。
彼はクラリッサの問いかけで、はじめてその歪んだ感情に気がついた。そんな表情だった。
「陛下にすべてをお話します。それで、最後に選ぶのは、たぶん私ではなくて、あなたです」
彼に嘘をついてはいけない。誰よりも神に嫌われ、誰よりも思い通りにならない生を歩んでいるのが彼だ。
だから、せめてもう一度、真実を告げよう。孤独な王に彼女ができることは、それだけだ。
***
クラリッサは神から聞いた話、暗闇に包まれた神の世界でみた話をそのままジェレマイアに告げる。
話を聞き終えた彼は立ち上がり、クラリッサのところまで歩み寄る。
「国王陛下……」
一つ前の彼とは違う。落ち着いた様子で話を聞き終えたジェレマイアは、右手をゆっくりと彼女のほうへ差し出す。
「数え切れないほどやり直しをしている……か。以前の私はこうして、あなたを私のものにしたのだな? いや、兄上のものにならないように、殺めただけで、私のものではないのか……」
座っているクラリッサの首に手がかかる。ただ添えられているだけで、まだ締めつけられてはいない。
クラリッサはごくりとつばを飲み込んだ。前回は剣で、今回はその手で。ここから先、神の力は及ばない。誰も結末を知らないのだ。真実を知ったジェレマイアがどう行動するのか、予想できる者はいない。
「教えて欲しい。かつての私はあなたをこの腕のなかに抱きしめたことがあったのか? あなたに触れても、嫌悪されず、微笑んでもらえる……兄上のことではなく、私を見てくれる。そんなあなたもいたのだろうか?」
クラリッサは答えに迷った。夢の中で見た光景には、クラリッサが王妃となる光景もあった。そのやり直しの中の彼女が、どうやって終わったのかはわからない。もしかしたら、最奥の宮にいたころに懸念していたように、王妃となったあとに殺されたのかもしれない。その前にジェレマイアが親ディストラ派を排除して、妃となった彼女を守ったかもしれない。
今のクラリッサには、マティアスを忘れて別の人間を愛することなど想像ができない。けれど九八一回もの過去があって、ただの一度もジェレマイアを愛さなかったとも思えない。
「……あった、かもしれません。私が王妃となって、陛下の隣に立つ姿はみました。でも、感情まではわかりません」
「随分と正直だな。王妃となったあなたもいた。それを知ったら、私がまた時を戻すとは思わないのか? 何度やり直しても、私を愛することなどありえない……そう言わなければ、私がまたやり直しを強要するとは思わないのか?」
「でも、あなたは私に嘘をつかれるのが嫌いって、いつも言っているから……だから……」
「愚かだな」
首に左手が絡みつく。両手で力を込められたらクラリッサは抗えない。
「……ジェレマイア」
クラリッサははじめて、彼の名前を口にする。一つ前の彼が、そう願ったからだ。聖女として、婚約者として、一緒に過ごした三年という歳月の中で、彼女は一度も彼の名を口にしたことがなかった。さらに彼が他者から名前で呼ばれているところを、一度も見たことがない。当時の王妃ですら「王太子」と呼んでいた。
「あなたは、最初から王になるために生まれて、ほかの生き方はできないって……本当にそうなの? そうしたら、私なんて聖女になるために生まれてきたんじゃない。孤児で、野良犬で、聖女で、今は貴族で……いろんな私がいて……今からでも人は違う存在になれるよ、きっと!」
クラリッサは立場も、身分も、名前すら変わった。誰かが名前を呼べば、王ではない彼も存在できる。彼女はそうなればいいと思ってジェレマイアの名を呼んだ。
「兄上にひれ伏して命乞いをしろと? 私にそれができると思うか?」
「だって、あなたは悪くなかった! 悪いこともしたけれど、どうしようもないことばかりだった。そうでしょう? ジェレマイア!」
もう一度クラリッサは、はっきりと名前を呼ぶ。ジェレマイアの望みのうち、彼女が叶えられるのがこれしかなかった。
「違う生き方もあるよ。……これからは覇王の力も聖女の力もない。理不尽なことはもう起きない、だから、……っ? やめ……!」
クラリッサの細い首に指が絡みつき、力が込められる。喉がつぶれるほどの圧迫感で声が出ない。
また間違えてしまったのだろうか。また死ななければならない。そしてまた、たくさんの人を傷つけて、自身も傷つく。苦しくて、怖くて、クラリッサの瞳から涙がこぼれる。
「さらばだ、……クラリッサ。今度こそ、よい夢を」
視界がチカチカとして、意識がもうろうとする。クラリッサが意識を失う寸前に見たのは、ジェレマイアの涙だった。彼が泣いているのを見るのはこれで二度目だ。
心の中で、ごめんなさいと口にして彼女は意識を手放した。




