幸せの選択編2
リンデン宮の中に限って、クラリッサは自由に過ごしていた。時々グレンダに会いに行くほかは、本を読むことくらいしかやることがない。
クラリッサが刺繍をしたいと申し出ても、女官からやんわりと拒否された。針を飲み込んで自殺をするかもしれないと警戒しているのだ。
王宮に来て、一つわかったことがある。ジェレマイアは側近の何人かに、聖女の予知夢についてうち明けていた。クラリッサも薄々気がついていたが、聖女の能力は他者に知られたらいけないものではないのだ。
第三の道を選んだ場合にネオロノークが罰を与えるかどうか。これについてはまだわからない。夢の中であったネオロノークはそのことをはぐらかしていた。
神はクラリッサに未来をみせる。けれどクラリッサに幸福を与えるために予知夢を見せているのではないということだけは、はっきりしていた。
「聖女」
「勝手に入ってくるな、ばーか!」
日当たりのよい場所に置かれた長いすに座り、クッションに埋もれるようにしながら本を広げていたクラリッサ。彼女は呼びかけた人物が誰なのかわかっていても顔すら上げない。それどころか開口一番悪態をつく。野良犬だったときでさえ、ここまでではなかったと自身で思うほど、クラリッサは荒れていた。ほとんどわざとやっているのだ。
「聖女様! 不敬な振る舞いはおやめください」
ジェレマイアを守る近衛騎士の一人がクラリッサをたしなめる。
「じゃあ、罰すればいいでしょう? 私は高貴な御方が暮らす王宮なんかに住まわせていただけるような人間ではありません。いつでも出ていきましょう」
クラリッサの態度によって、マティアスがこれ以上立場を悪くすることはないと知って、彼女はとにかくジェレマイアを拒絶している。
嫌われて殺されるのならまだいい。今のジェレマイアは希望を叶えるためには手段を選ばない。とにかく彼とかかわるのが怖かった。
「それが目的でわざとやっているのに、叶えてやるなんて親切すぎるな。そなたもいちいち反応するな、無意味などころか聖女の思うつぼだ」
罵られてもジェレマイアは楽しそうに笑って、護衛の騎士をたしなめる。クラリッサはその笑顔を不気味だと感じた。
「……で、なんの用ですか?」
「様子を見に来た。私の聖女に、私がいつ会いに来ようが問題あるまい?」
「あるに決まってるじゃない。心配しなくても、監視があるから国王陛下が思ってるようなことにはならない。……顔を見るだけで不愉快だから出てってよ」
以前はクラリッサが悪態をつくと、困ったり怒ったり、多少の反応はあったのだ。それが今はただ口の端をつり上げるだけ。相手を不快にさせたくて汚い言葉を使っているのに、まったく届かない。それが彼女をさらにいらだたせる。
「その髪で、その口調。……あとは白い服でも贈ろうか?」
そうすれば、出会った頃のクラリッサに近づく。やり直せる。そう言われているような気がして、彼女は戦慄する。
「わ、私は、ウェイバリー公爵夫人です。格好だけ昔に戻っても、どうにもならない! そもそも私は……」
「……そもそも、なんだ? 聖女になる前から兄上の恋人で、私の入り込む余地など最初からなかった、か?」
ジェレマイアは見透かすような態度で、秘密にしていた真実を言い当てる。
「な、なに言って……?」
驚くクラリッサの問いには答えず、彼は長いすに一歩近づく。
「答え合わせをしたい。私の予想がどこまで合っていたか」
長いすの上のクラリッサの腕をつかみ、そのまま仰向けに押し倒す。細く力のないクラリッサの両手首を乱暴にまとめて、片手で動きを封じる。
「なにするのっ!? 嫌、やめて!」
クラリッサは全力で抵抗した。けれど頭の上で長いすに縫い付けられるように押さえられている両腕はびくともしない。自由に動くはずの右足だけでなんどもジェレマイアを蹴る。のしかかるように距離を詰められるとそれすら無意味だ。
「聖女はよく、胸元に手をあてているだろう? なにを隠している? ほとんど身一つでここへ来たあなたが、肌身離さず持っているものはなんだ?」
クラリッサが好んで着ている立ち襟の露出の少ないドレス。その胸元のボタンにジェレマイアの指が触れる。
「や、ふざけんなっ! こんなの、王のやることじゃない!」
「ほかの者にさせないだけ、まだ潔いだろう?」
片手だけを使って、ほぼ力ずくで上から三つのボタンが外される。そのうちの一つがはじけ飛んで、大理石の床に音を立てて転がる。
クラリッサの首筋があらわになり、ジェレマイアは鈍く光る金属の鎖をたぐり寄せる。
「鍵か……? 聖女の荷物をあらためよ」
黙ってみていた近衛騎士に、ジェレマイアが命じる。近衛騎士は無言のまま机の引き出しやチェストの中身を引っ張り出す。
「やめて!」
「陛下、こちらでは?」
クラリッサが服以外に持ってきたものは、ほんのわずかだ。ほぼ空っぽの引き出しに唯一しまわれていた日記帳は、すぐに見つかる。
「日記か」
「やめて、それはおじいさまから貰ったものなの!」
「中身を確認したら返すから心配するな」
「なにが心配するな、だよ! 他人の日記読んでいいなんて、あんた誰に教わったの? 一国の王様がそんなんで恥ずかしくないの? 返せっ!」
「私を教育した者たちがどういう者たちか、聖女は知っているだろう? あなたは、あの者たちになにをされた? 忘れたわけではあるまい」
ジェレマイアを教育した者たちとは、先の王妃と親ディストラ派と呼ばれていたかつての主流派のことだ。最奥の宮にいた頃、彼らの指示で女官たちや友人としてやってきた令嬢から嫌がらせを受けた。悪い噂を流す一方で、政治的に利用し、クラリッサの名前を使って政敵を追い落とすための神託を出させた。
「お願い、やめて。陛下はあのとき……私の幸せを願ってくれたのに……。今の陛下は別人みたい、お願いだからやめてよ」
「私があなたを兄上にゆだね、選んだのはこの国の王であることだ。私はそうせねばならないと思って、欲しかったものを切り捨てた! ……王でいることは私に課せられた義務で、存在の意味そのもの。それを人ならざる力で否定される気持ちなど、あなたにはわかるまい」
クラリッサの首にかけられたままの鎖を無理やり引きちぎる。繊細な細い鎖は、彼女の首筋に赤い線を残してすぐにちぎれる。
クラリッサを見つめるアイスブルーの瞳からは、ためらいの色は見て取れない。
「覚えておくといい。王は私で、今後も王であり続けるのは私だ。……そのために必要なら、あなたを傷つけることも厭わない」
近衛騎士とジェレマイア。二人の男性から鍵と日記帳を取り返すことなど不可能だ。腕が自由になり、ジェレマイアの重みを感じなくなっても、彼女はもう抵抗できない。自由になった手で顔を覆って、止めどなく流れる涙を拭い続けるだけだ。
あの日記帳にはクラリッサの知っている限りの事実が記されている。ジェレマイアは知りたいことの答えを得るのかもしれない。彼女自身もいつか誰かに――――マティアスに見せるかもしれないと思って書き記したものだった。けれど日記帳には予知夢のことだけではなく、クラリッサの想いも同時に記されているのだ。それを勝手に暴かれる。怒りよりも、恥ずかしく、ただ胸がはり裂けるほど悲しい。
昔とは違い、それがジェレマイアの疑いようのない意志なのだ。彼の行動が、クラリッサにはただ悲しかった。




