戦火の気配編3
王宮から帰宅したクラリッサは、待ち構えていたヘンリットにたっぷりとお説教を食らう。
会いたいと告げた手紙の返事と一緒に、迎えの馬車が来るとは予想していなかったのだ。乗り込む前にロイが部下を遣ってヘンリットへ状況を伝えたが、事後報告のような状況だった。
ヘンリットは護衛対象である彼女が王宮で危険な目に遭うとは思っていなかった。だが、水面下で対立するマティアスとジェレマイアの関係を知っているので、怒りを通り越して呆れているといった様子だ。
王宮に行った理由やジェレマイアと話した内容について、クラリッサは皆に詳しく説明していない。彼女がマティアスにすら言えずにいることがあると皆が知っていて、あえて聞かずにいてくれているようだった。
それにも期限がある。ジェレマイアに話さなければならなかったように、マティアスやほかの者にもいずれは知られる。そうしたらきっと今のままではいられない。なにかが終わっていく気配を彼女は感じていた。
それからしばらく、クラリッサは毎晩いやな夢をみてよく眠れない日が続いていた。予知夢のときと違い、夢の内容を鮮明に覚えているわけではない。予知夢ではないけれど、近い将来に起こりそうなこと――――クラリッサが今までしてきたことをマティアスに知られ、軽蔑される。そういう夢をみていた。
眠りの浅い日々が続いていたせいか、クラリッサは少しの物音で目を覚ます。夜中でも護衛の軍人や夜勤の使用人は起きている。もう一度眠ろうと布団をもぞもぞと引き上げたところで、扉のほうから小さく光が差し込む。
夜中でも廊下の明かりは数を少なくしてつけられているが、こんな時間に使用人が無断で入ってくることはない。
音を立てないように少しずつ開かれていく扉。クラリッサは警戒して寝たふりをしたまま薄目で観察する。
まず見えたのは黒い手、そして黒い服を着た人影。逆光で顔まではわからないが、背の高さから男だとわかる。一人で寝ている公爵夫人の寝室に、屋敷の住人が黙って入ってくるなどありえない。
(うそ、暗殺者……?)
最後に決定的なものがクラリッサの目に映る。男が手に持っていたのは抜き身の長剣だった。真っ黒な影、金属の剣だけが鈍く光る。
(ナイフ……、ナイフがあればっ!)
彼女は自覚のないまま夢に頼っていた。マティアスのことしか夢にみないと気がついていたのに、予知されたこと以外で、おそろしい事件など起こらないような気でいた。マティアスを守るために存在しているクラリッサは、予知夢をみるために死なない――――神が殺させない、そんな気でいたのかもしれない。
だから一度ナイフの所持を認めてもらえなかったくらいで、簡単にあきらめてしまった。ナイフが必要な事態になるのなら、夢でそう示されるはずだと油断していたのだ。
一歩、黒い服の男が近づいてくる。これ以上近づかれたら確実に殺される。
「だ、誰か! 誰か来て!」
大きなベッドの上を這うように逃げながら、大声で叫ぶ。布団がまとわりついて、焦っているクラリッサはうまく逃げられない。もともと足が悪く、走れないのだから状況は絶望的だった。
布団と一緒に寝台から落ち、横向きで倒れる。次の瞬間ザクッという嫌な音と一緒に剣が目の前に突き刺さる。
敵は狙いを外してしまったのだ。それなのに、クラリッサの目の前にある剣はなぜか真っ赤に染まっていた。
「奥様! 奥様! ……な、なんだこれは!」
「どうした!?」
クラリッサの悲鳴を聞いた護衛の軍人がバタバタと音を立てて駆けつける。
「ちっ……」
暗殺者は床に刺さった剣を抜き、窓を乱暴に開け放ち逃走する。
(え……? なんで?)
「奥様! 奥様ご無事ですか!?」
軍服を着た護衛が倒れているクラリッサを抱き起こす。クラリッサに怪我はない。けれど、暗殺者の剣は最初から血で濡れていた。
「……私は大丈夫です。それより、剣に血がついていたの、もしかしたら……、その」
暗殺者が侵入したときに、屋敷の住人が切られたかもしれない。
「申しわけありません。奥様のお部屋をお守りしていた者が一人……」
怪我をしたのだとしたら、怪我をしたのだとはっきり言うはずだ。だから、怪我では済まなかったという意味だ。
「そんな……」
クラリッサを守ることが彼らの任務だ。だとしても、名誉の死だなどと彼女は思いたくない。
「クラリッサ様!」
眠っていたはずのアーシェラが、騒ぎを聞きつけて主のもとへ駆け寄る。いつもきっちりと結ばれている髪がおろされていて、寝間着の上に上着を羽織っただけの状態だ。クラリッサを心配して急いで来たのだろう。
「アーシェ、どうしよう……どうしよう……私」
親しい人物が来たことで、クラリッサはついに涙が我慢できなくなる。今まで多くの刺客、そしてマッケオン伯爵の死を選び、間近で見てきたが、心はまだ麻痺していなかった。
「御髪が……」
アーシェラに指摘されて、はじめて自身の髪に触れてみる。聖女になってから伸ばし続けてきた髪の一部が肩の辺りでばっさりと切られていた。そして、座り込んでいる床に真っ赤な髪が散乱している。
「……なんで、なんで私が髪で……ただ守ろうとしてくれた人が命なの? なんで逆じゃないの!? こんなの嫌、嫌だよ……っ、うっ」
クラリッサは子供のように泣きじゃくる。アーシェラとあとから駆けつけたロイに慰められながら、やがて朝を迎えるまでずっと泣いていた。
一部だけ短くなってしまった髪はもうどうにもならず、アーシェラの手で短く切り揃えられた。肩の付近で切り揃えられた髪は、ちょうど聖女になったばかりの頃と同じくらい。アーシェラは短くなってしまった髪を見て、自分のことのように瞳にたくさんの涙をため込んで憤る。
髪を切ったことで少しだけ気持ちを切りかえることができたクラリッサは、疑問に思ったことをロイに告げる。
「ロイ……、あのね。暗殺者は少し変だったの。護衛の方は声も出せずに殺されてしまったんでしょう? それなのに、足が悪くてたいして動けない私を殺し損ねた。素人じゃないはずなのになんで?」
軍人が守っている屋敷に侵入できたこと、そしてクラリッサの寝室まで誰にも気づかれずにやって来て、扉の付近にいたはずの護衛が声を上げる暇もなく殺されたこと。これらの事実を考えると暗殺者は相当の手練れだったはず。それなのに、ほとんど動けないクラリッサの暗殺には失敗した。
あのとき、床に倒れたクラリッサにもう一度剣を振り下ろしてから逃げることもできたはずなのだ。
「暗殺者については、ヘンリット師団長に報告し、専門の者が調べることになると思う。なにかわかれば奥様にも教えます。しばらくは僕がそばにいるようにしますから、なるべく体を休めて。いいですね?」
「うん」
けれど暗殺者についての報告を聞く前に、事態は急変する。
公爵邸に十人以上の近衛騎士が現れ、聖女の保護を主張したのだ。




