宴と狂乱編6
一月後。昇進したマティアスが、北へ旅立つ日がやってきた。
同じ時期に、軍部のなかで大規模な再編成が行われた。クラリッサの親しい人物のなかでは、ブリュノがマティアスと一緒に北部へ。副師団長ヘンリットが昇進し聖女護衛の責任者となり、ロイは護衛として残ることになった。
公爵邸の玄関ホールでこれから旅立つマティアスとブリュノを、皆で送り出す。クラリッサや使用人、そして護衛のロイ、さらに新しく責任者となったヘンリットも見送る側に立っている。
「クラリッサのことは知らない人間には任せられない。ヘンリット卿に引き継いでもらえて、よかったよ」
「奥方様のことはお任せください。閣下の不在中、私が責任を持ってお守りいたします」
ヘンリットはマティアスが未熟な若者だった時から、部下というより指導役として彼を支えてきた人物だ。
「ええ、よろしく頼みます。あなたにはずいぶんと厳しくいろいろと教えてもらって……本当に感謝しているよ」
「もう四年近くも前ですな。あの頃の閣下は、なにも知らない小僧で。身分が高いというだけで、最初から私の上官ですからね。とんでもなく腹が立ったものですよ」
ヘンリットは口ひげに隠れているくちびるをつり上げる。出会った頃を思い出して笑っているようにも、涙を我慢しているようにも見える。
「そうだったの? でも、あなたはわりと真面目に、私に仕事を教えてくれたでしょう?」
「それは閣下の美徳ですよ。威厳はないが、他者にへりくだることもない。……閣下の“お願い”はなんとなく聞いてしまいたくなるんですよ。まったく迷惑な話です」
ヘンリットの話は、クラリッサにもよくわかる。はじめて会ったときから、マティアスは身分の高い人間で、野良犬と対等だったわけではない。彼は彼のままで、野良犬だった少年たちと付き合っていた。マティアスには人を引きつける魅力があるのだろう。
ヘンリットとの別れの挨拶を済ませたマティアスがクラリッサの方に向き直る。
「……クラリッサ、ヘンリット卿の言うことをよく聞いて、あぶないことをしないでね」
まるで保護者のような態度で彼は妻を気にかける。公爵夫人という立場にありながら、ナイフ投げの練習をしたいと言った前科があるため、彼女はその言葉に反論できない。
「わかっています。……私はここで旦那様のご無事を祈っています。いたらぬ身ではございますが、旦那様の留守中は私が公爵家を守っていくつもりです」
危険なのは、クラリッサよりもマティアスだ。彼を亡き者にしようと企んでいる人物は、この国の玉座に座る者かもしれないのだ。それに、今のところ動きはないとはいえ、直近で戦のあったヴェルダーシュとの国境に行くのだから、王都よりも危険だ。
ただ、クラリッサにはマティアスが北の地で、命に関わるような危険な目に遭うことはないという確信もあるのだが――――。
別れの時間が近づき、クラリッサは半分押しつけるように、旅立つ夫へ白い布を渡す。
「これは?」
「ハンカチです。私が刺繍をしたの。あの、貴族の男性は妻の刺繍したハンカチをお守りとして持つのだと聞いたから」
手のひらと同じ大きさに折りたたまれた真っ白な布をマティアスが広げる。折りたたまれ隠されていた部分には花の刺繍がされている。
「山百合の花だね? ……べつにそこまで恥ずかしがることないでしょう? クラリッサは器用だね、ありがとう、大切にする」
クラリッサは思い入れのある花をわざわざ選んで刺繍をしたのだ。もともと手先は器用なほうだから、刺繍を習いはじめてからそれほど時間は経っていないが、腕前はそこそこだ。一般的な貴族の令嬢なら、もっと上手にできるはずだから、ほかの人が見ている場所で渡すのは少し恥ずかしい。
「俺には?」
不満そうにしているのは一緒に旅立つブリュノだ。お守り代わりのハンカチをねだる言葉は、クラリッサにではなくそのうしろに控えていた女性に投げかけられたものだ。
「…………」
アーシェラはブリュノから目をそらす。クラリッサには優しい姉のような存在のアーシェラだが、ブリュノに対してはひどく厳しい。
「もしかして、へたくそ過ぎてだせねぇのか?」
ブリュノがにやにやと笑う。刺繍の腕前を疑われたアーシェラは顔を真っ赤にして怒っている。
「そんなはずありません! ……どうぞ」
しぶしぶといった表情で彼女はブリュノに刺繍の入ったハンカチを差し出す。
「おう、ありがとな」
アーシェラがブリュノのために一生懸命刺繍をしたことをクラリッサは知っている。そしてブリュノは、アーシェラが渡そうか渡さないか悩んでいることを察して、わざと意地の悪い言い方をしたのだろう。
普通に「欲しい」と言えばいいのに。クラリッサはそう思うのだが、二人は似た者同士なのだとも思う。
「あの……私。もともと行き遅れなので、べつにあなたのことを待つ気なんてありませんけれど、おそらくどこにも行かないと思いますので。……だから、私のことはお気になさらず、お好きになさってください。 待ってませんから!」
「なんだそれ? まぁいいか。……なるべく早く帰れるようにするから、待ってろよ」
ブリュノは笑って、アーシェラの頭をぽんぽんと撫でてから、屋敷の人々に背中を向ける。
ハンカチを上着の内ポケットに入れたマティアスが別れを惜しむようにクラリッサを強く抱きしめる。手に持っていた彼女の杖がカランと床の上に転がっても、彼は気にしない。
二人きりのときならばクラリッサも喜んで受け入れるし、彼にそうされると安心する。けれど、マティアスが人の目があることなどまったく気にせずに過剰な愛情を示すことが、少しだけ苦手だ。
「マティアス……」
人の死を選んでおきながら、結局自分は愛おしい人の腕の中で、彼の体温を感じている。彼女の中に罪の意識はもちろんある。けれどそれ以上に、マティアスを不幸にはしたくない。心配をかけたくない。そういう気持ちを優先してしまう。
マティアスに優しく触れられるたび、彼女の中ではいろいろな感情が渦巻き、心を見失いそうになる。
そして彼女は結局、表面上はマティアスに愛されて幸せな妻を演じるのだ。
「どうかご無事で」
「うん、クラリッサも」
昨日も一昨日も、二人はたくさんの話をして、互いの気持ちを確かめ合い、以前に引き離されたときとは違うのだと確認をした。今の二人には夫婦という絆があり、レドナークでは死ぬまでその絆がほころぶことはない。
名残惜しそうにマティアスの身体が離れ、クラリッサはなんとか笑って送り出そうとする。しばらく会えないのだから、笑顔を覚えていてほしいと思うクラリッサだが、上手にできずに視界がにじむ。
クラリッサに背を向ける直前のマティアスは、少しだけ困った顔をしていた。
『マティアスと離れたことは、不安で寂しい。けれど、少しだけほっとしていた。私がマティアスの死を止める手段がなければ、きっと夢はみない。そして、もし北部地域に行くことによってマティアスになにかが起こるのならば、行くことそのものを阻止する手段を、夢にみるのではないかと私は思っていた。旅立ちの前日までに予知夢をみなかったことで、私はしばらく罪を犯さなくて済むのだと安堵した』
第2章はここで終わりです。
第3章(最終章)予告
北の大地にて国境の守備についたマティアス。春の訪れとともにさっそく不穏な空気が漂いはじめて……。
なぜ夢をみるのか? などなど、いろんな疑問にお答えできる最終章は一週間後にスタートです!




