宴と狂乱編2
クィルター伯爵邸。窓から差し込む光が橙色に変わりはじめる時間。マティアスは久しぶりにこの屋敷を訪れた。
数年前まで、屋敷の一室を借りて伯爵が雇った教師から政治や歴史について教わっていた。
城を抜け出し、この場所で学び、バザールのある日は五番街へ行った。ナイフ投げを披露しているクーの様子を邪魔にならない場所から眺める。終わった頃に彼女と目が合うと、きらきらした笑顔を向けてくれる。マティアスの中で、野良犬のクーと過ごした日々はいつでも眩しく、あたたかい。
子供だったから、二人の関係に未来がないと知っていても、それでいいと思っていた。きっと未来がないのだと頭では理解していても、引き裂かれる痛みまでは想像ができなかったのだ。だから、恐れるものなどなにもなく、ただ輝いていた。
マティアスは昔に戻りたいとは思っていない。大人になった二人は、昔のように無知で楽しいことだけを考えてはいられない。それでも、傷つきながら手に入れたものを、ただ守っていくだけだ。
「公、どうされましたか?」
重要な話をしにきたというのに、ぼんやりと窓の外を眺めているマティアスに対し、クィルター伯爵がたしなめるような視線を送る。
「うん、ちょっと昔を思い出していた。懐かしくて」
クィルター伯爵邸に集まっているのは伯爵、副師団長のアイヴァン・ヘンリット、そして野良犬の二人。マティアスを含めると五人だ。マティアスの隣にヘンリット、向かいに屋敷の主である伯爵が座る。ブリュノとロイの二人はマティアスの後ろに控えている。
「それで、クィルター伯爵。今回のあれは国王陛下からの贈りもの……ということで間違いないのかな?」
贈りものというのは、刺客のことだ。この一ヶ月、マティアスは二度の襲撃に遭っている。
そしてクィルター伯爵はマティアスの指示で、刺客の身元について調べていた。今回はその報告を聞きに訪れたのだ。
刺客の身元というより、誰の手の者かが重要だ。そしてマティアスが疑っているのは異母弟だった。
「それ以外にありますまい。捕らえた刺客の尋問を、公の師団でできなかったのが痛手でした」
「……命があれば、拒否できないのが私の立場だからね」
マティアスには聖女を守護する任務がある。けれど今回放たれた刺客については、聖女を狙ったものではなかったので、マティアスの師団で詳しい取り調べができなかった。
高位貴族や王族に関する重要な事件を調査するのは、国王直属の部隊だ。通常なら一般の部隊からの依頼で、必要になったときにだけ調査に乗り出すはずの直属部隊が、今回はすぐにやってきた。
狙われたマティアスに近い者が尋問するというのは、いくらでも証拠をねつ造できるということになる。それを許してしまうと虚偽の自白をさせて、狙われた者が政敵を排除するということもできてしまう。だから、公平な立場の者が調査するのはある意味で当然だ。
けれど、それはあくまで“公平”だったら。尋問する者が、黒幕だったら真実など出てこない。国として事件の真相について公式見解が出されてしまったので、マティアスたちは職務としてこれ以上の追求ができなくなった。国王直属部隊が出した結論に意義をとなえることは、はばかられるからだ。
だから秘密裏にクィルター伯爵に依頼して調査をしてもらった。
情報収集を得意としているクィルター伯爵でさえ、証拠にならないただの憶測程度の資料しか揃えられなかった。わかっているのは、暗殺者の自白だけが唯一の証拠ということだけだ。
「恐れながら、マティアスサマ。奥サマが、かなり気にしてましたぜ? いちおう公式見解どおりに言っときましたけどね。ナイフの練習をしたいだとか、なんとか……」
ブリュノの言う公式見解とは、親ディストラ派の残党がマティアスを恨み犯行におよんだ、というものだ。
「クラリッサがナイフを?」
たしかに彼女は野良犬時代にナイフを扱っていて、腕前は相当なものだった。でもそれはあくまで芸でしかない。ドレスの中にナイフを忍ばせる公爵夫人など考えられない。
「僕にも言ってましたよ。もちろん断りましたけれど」
ブリュノとロイからの報告にマティアスは頭を抱える。もともと活発な女性だったのだから、おかしな話ではないのだが、なぜおとなしく守られてくれないのかと思うのだ。
「ははっ、見た目はかわいらしく少し幼い印象のお方だというのに、勇ましいですな。守る方としてはやりにくくて敵いません」
ヘンリットがあきれているのが、クラリッサが刺客を自身の手で捕らえようとしたことだ。マティアスにとってもヘンリットにとっても聖女の守護が一番の優先事項だ。それなのに、先日マティアスが刺客に襲われそうになったとき、最初に気がついたクラリッサが、マティアスを庇った。
杖で相手の腹をつき、一緒に倒れ込むように体当たりするクラリッサをみたときは、マティアスも護衛役も肝が冷えた。あとから、暗殺者が毒針を手に持っていたことがわかり、もしそれが彼女に刺さっていたらと想像すると、いまだに冷や汗が出る。
「勘がいいのも、行動力があるのも……守るべき対象としては、少し困ったものだね。すまない副師団長」
「いえ、なんといいましょうか……。閣下は聖女様に、ずいぶんと想われていらっしゃって、うらやましい限りですな」
「そうだね。そこは否定できないな。でも、クラリッサには私からも言っておく。……それと、陛下との件は絶対に知られないようにね」
クラリッサはジェレマイアを嫌っていたわけではない。好いていたというのも違うだろう。己の意志で行動できない不自由さを分かち合い、けれど決して一緒には歩めなかった。あまりにも立場が似ていて、認められない存在だったようだ。
そして彼女は今でもジェレマイアのことを気にしている。今回の政変で、彼が名実ともにレドナークの王となったことについては喜んでいるようだった。そして彼女の望みはジェレマイアがよき王となって、マティアスが臣としてそれを支えることなのだろう。
けれど、マティアスには彼女の望みどおりにはならないという予想があった。
テーブルの上にマティアスが書状を広げる。
「王宮からの招待状だよ。……夫婦揃ってかならず来るようにって、陛下直々のご命令なんだ」
王家の印が押された書状には、今回の大規模な不正や汚職の取り締まりに協力した者をねぎらう目的で、王家主催の大規模な宴が披かれることになったと記されている。
「私は陛下にとって脅威になるんだろうか? だったら、政変の件で任務など与えなければいいし、王宮での宴にも招いてもらわなくてもかまわないのに」
妻と一緒に、穏やかに生活がしたいだけ。ただそれだけのことがひどく難しい。一方では任務を与え厚遇する。もう一方では刺客を放ち暗殺しようとする。最近のジェレマイアの行動はおかしいのだ。
クラリッサも、マティアスの微妙な立場を肌で感じとっているようで、ときどきひどく不安そうにしている。
「……敵対しない道もあるはずで、私にはそちらのほうが簡単なことに思える。けれど陛下のお考えは別なんだろうね」
マティアスを排除するのなら、左遷するなり、隠居させるなり、方法はいくらでもある。王位はジェレマイアのもので、それは国を二分して多くの犠牲を出す事態でも起こらないかぎり、マティアスのものにはならない。マティアスに野心がないことや、隠居しろと命じられたら断らないことを彼は知っている。それなのにジェレマイアが異母兄の死を望むのは、王位を揺るがす存在だから、というだけではないのだ。
「陛下は、クラリッサを取り戻すつもりなのかもしれない」
「閣下、おそれながら国王陛下はそれほどの勝手をなさる御方ではありますまい」
クィルター伯爵がマティアスの言葉を否定する。国王はどちらかといえば正義感が強く、けれど自身の意志を通すことがあまりない人物――――貴族たちは皆、そう思っていた。
「伯爵やほかの貴族も、本当の陛下を知らないはず。陛下の御言葉はいつも先の王妃様の言葉だったんだから」
そして、そのまま傀儡を続けていくつもりなら、粛清など起きなかった。今あるジェレマイアこそが、真の彼なのだ。昔、見えていた部分は虚像で、そのせいで今の彼を見誤ってはいけない。
マティアスの予想は当たる。粛清から二ヶ月ほど経つと、力を持っていなかった今までのジェレマイアのことなど皆が忘れるほど、すべてにおいて強引な政策を取りはじめたのだ。
そして宴の日が間近に迫っていた。




