漆黒の野良犬編3
野良犬の巣の中を歩きながら、ブリュノは包み隠さず過去をうち明ける。
彼は十を超えた頃から北の新興国ヴェルダーシュとの戦に参加していた。兵士だからもちろん沢山の人を殺め、ただ自分が生き残ることだけを考えて、その日その日を生きていた。
戦争が実際に終結する一年以上前、ブリュノはわずかな報償金を与えられて仕事を失った。その頃のレドナークには大軍の補給を確保する力がなかったのだ。
彼が流れ着いたのは野良犬の巣という最貧民街。その頃はまだ本当の無法地帯だった。強い者が派閥を作って、住む場所や金品、仕事を奪い合う。そんな場所だった。そこで必死に死なないように生きていた。気がつけば刃向かう者を殺していたということもあった。戦争で敵を殺すのと同じようで、まったく違う。でもそれがブリュノの日常だった。
もともと体格に恵まれたブリュノは数ヶ月もしないうちに、すべての派閥を従えて、野良犬の巣のまとめ役になっていた。
「クーが来たのはそのあとだから、あいつの手はきれいなもんだ。それがうらやましくもあり、妬ましかったな……」
どこをどう歩いたのかはわからない。話を聞いているあいだに、気がつけば馬がつながれた木のある場所まで戻ってきていた。
馬の近くには、十歳前後の子供が三人ほど座っていて、馬の見張りをしていたのだと自称する。
ブリュノは少年たちに小銭を渡して、頭をぽんぽんとなでる。お金を貰った少年たちは、楽しそうに笑いながら走り去る。これから五番街にでも行くのだろう。
「で、あんた。帰りはどうする?」
馬に乗る前、ブリュノは突然そんなことを言う。
「どうするって、置き去りにされても困ります!」
「そうか、ならいいけど……なんだかな」
彼にしてはめずらしく歯切れの悪い言い方だ。連れてくるだけ連れてきて、帰りは知りませんでは困る。だからアーシェラは差し出された手を取る。
行きよりもさらに余裕の出てきたアーシェラは、ブリュノに疑問をぶつける。なんとなく今日、このまま別れてしまうのは嫌だった。胸の中にあるもやもやはその日のうちに解決するべきだと彼女は思った。
「なんで、そんなに親しくもない私に、話してくれたんですか? ちょっと心の整理がつきません。あなたをどう思っていいのか、それすらわからない。だって、私とは育った世界が違いすぎますから。せめてもうちょっと親しくなってからとか……。そうじゃないとあなたが損しませんか?」
任務以外で人を殺したことがある。その告白はアーシェラには重すぎて、どうしていいのかわからない。その頃の彼は、まだ子供と呼ばれる年齢だったはずだ。子供の頃に、すでに人を手にかけるほどの悪党。もしくはそうしなければ生きていけなかったほど不幸な少年時代を過ごした悲しい人。
アーシェラ自身は後者だと思いたい。けれど今の彼だけを見て、過去を気にしないということはできない。そんなに今の彼を知らないのだから。
「あとで知るよりいいと思ったんだが……。あとから知って受け入れられなかったら、その時間を無駄にしちまうだろ? 異国人だとか貧民街出身だとか、それはともかく根っからの人殺しのために、あんたの時間を無駄にさせるのも悪いかと思って。……あんたはいいやつだから、人に言いふらしたりはしないだろう? クーのことだって、人に言ったりはしていない」
クラリッサが野良犬の巣出身であることは、秘匿されている。もう一つ、彼女とマティアスが親しかったことも秘密にしなければいけないことだ。アーシェラはそのどちらも知っているが、他者にもらしたことはない。
「買いかぶらないで! 私、そういう人間じゃありません。なんの下心もなしに、クラリッサ様に仕えていたわけじゃないんです」
「そうなのか?」
「そうです。私は下級貴族の出身ですから、女官に採用されたあともあまりいい思いをしたことがなくて――――」
アーシェラの両親は他界していて、肉親は兄だけ。少し年の離れた兄にこれ以上負担をかけたくなくて彼女は家を出たのだ。
もし結婚するのなら持参金がいる。兄との仲は良好だから、アーシェラがそのまま家にいても兄が無理をして結婚相手を探してきたかもしれない。兄はもう妹のためではなく、妻や子供のために財産を使うべきだと、彼女は考えた。
女官になればお給金が出るので、持参金を自分の力で稼ぐことができるし、結婚相手が見つからなかったとしても暮らしの保証はある。名案だと思った。
けれど女官に採用されてすぐ、アーシェラは考えが甘かったことに気がついた。最奥の宮でも、その前にいた王宮でも家の力がものを言う。アーシェラの身分は女官としては下のほうだ。上級女官は暇つぶしに下の者に対して、くだらないいじめのようなことばかりをしていて、辟易していた。こんな環境で一生を送るのかと思うと、将来を悲観するほどだった。
彼女は兄に守られ、大切に育てられ世間知らずだったのだ。裕福ではなかったが、どうにもならない悪意というものも知らずにいた。
はじめてクラリッサに会った日。寝ている彼女の世話をして起きたら神官を呼ぶように指示され、アーシェラはそれに従った。予想外のことが起きているのだとさすがに知っていたが、彼女がこれから仕える主なのだと疑いもしなかった。
数日もしないうちに、教育係をしている身分の高い女官たちがクラリッサをどう思っていて、どう接するつもりなのかを理解した。
「本当はいつも迷っていました。右も左もわからないクラリッサ様を放っておけない気持ちもありましたが、上級女官に嫌われるのは怖かった」
クラリッサ本人にこんな話をしたことがない。姉のように頼ってくれる彼女に、アーシェラは本音を言えなかった。
「だから、こう思おうとしたんです。いずれ王妃様となれば、クラリッサ様が女官をたばねる立場になって、意地の悪い女官たちは排除されると。未来の王妃様を蔑ろにするなんて馬鹿げていると」
クラリッサが王妃にならないとわかった日は、本当にどうしていいかわからなかった。今からでも上級女官にすり寄るべきかもしれないと、彼女は本気で考えたのだ。
「すごく打算的で嫌な女なんですよ、私はっ!」
それまで黙って聞いていたブリュノがやや間の抜けた表情で口を開く。
「あんた……、めちゃめちゃ幸せな場所で育ったんだな。その話、クーに言っても『苦労をかけて、ごめんね』って言われて終わるぞ」
「へ?」
「俺だって、マティアスについてんのは恩と、打算と、あとは罪滅ぼし……あいつの人柄に惹かれて、とかそんなんじゃねぇから」
恩や打算というのは、孤児から下級貴族の養子にしてもらって、軍人として召し上げてくれたことや、野良犬の巣の復興に関することだろう。そこはアーシェラにもすぐわかる。
「罪滅ぼし?」
「あー。本人たちは気にしてねぇだろうけど、俺が余計なことを言っちまったとか、聖女選定の日にクーを一人にしちまったこととか……いろいろと後ろめたいことがあるんだよ」
「そうなのですか……」
「ああ、むしろ打算なしの無償の愛? ……そんなの本当にあるのか? 元野良犬には崇高すぎて理解できねぇよ」
アーシェラが後ろめたく感じていたことを、なんでもないことだと一刀両断する。その言葉ですぐにクラリッサへの引け目がなくなるわけではないのだが、彼が励ましてくれていることだけは伝わる。
「決めた」
公爵邸まで送ってもらい、馬を下りたとき唐突にブリュノがそう言う。
「なにを決めたんですか?」
「あんたの兄さんに俺の過去を話せ。そしたら見合いの話はなくなる。さすがに女のほうから断る理由になるだろ?」
「そんなのできません! 断るならブリュノ殿が断ればいいじゃないですか」
嫌ならブリュノが断ればいい。それなのに、アーシェラにそれをさせるのは男らしくない。それに、もしアーシェラの兄に彼の過去を話したら、彼の悪評が広がる可能性だってある。そんなことは彼女にはできない。
「……いや、俺には断る理由がない」
いつものふざけた態度とは違う。救いを求めるような表情だ。
「なっ、なに言って……」
「あんたが、人のこと気にして兄さんに嫌だって言い出せないお人好しなら、俺のものにするから。……じゃあな」
それは完全な丸投げだった。
アーシェラはもういい大人だが、公爵夫妻のような運命的な出会いにあこがれていた。男性に愛をささやかれたら、どんな気持ちになるのだろうかと想像して、夢みていたのだ。
ブリュノはそれを叶えてくれる相手ではない。こういうとき、普通なら愛しているから受け入れてほしい、断らないでほしいと花束でも持って言いに来るべきではないのか。断っていい。断らないと俺のものにする。そんな言い方はアーシェラの理想からはほど遠い。
「本当に、ずるい人! 絶対に断りますからね。その前にあなたから断ったほうが身のためですよ!」
馬にまたがり、帰っていくブリュノに悪態をつく。彼は一瞬だけアーシェラのほうを振り返り、自信あり気に笑ってみせる。このままではアーシェラの負けが決定してしまう。
「ずるい人……」
もう一度、彼女はつぶやく。きっとアーシェラには兄にブリュノの過去を話すことなどできないのだ。好きなわけではないのに、今の彼をよく知らない人に話して、彼が誤解をされるのが嫌だった。
好きなわけではない。
彼女は何度も自分自身に言い聞かせる。そうしないと、真っ黒な瞳に囚われて、身動きが取れなくなりそうだった。
アーシェラはクラリッサに早く帰ってきてほしいと心から思った。彼女は仕えるべき人であり、妹のように守りたい存在だが、こういったことについては先輩だ。
いつかクラリッサが恥ずかしそうに話してくれたように、アーシェラも今日の出来事を誰かに話したかった。
今のところ、怒りと愚痴になってしまうけれど、それでも。
十日後、公爵夫妻が屋敷へ戻りウェイバリー公爵家の日常が戻ってきた。




