漆黒の野良犬編2
クラリッサ付きの使用人であるアーシェラは主の不在で本当にやることがない。ブリュノが勝手にベイリン夫人に休暇の申請をすると、あっさりと許可される。
「着替えてこい。……一番地味で目立たないやつな」
「目立たない?」
「ちょっと、治安の悪いところに行く。わかるだろ?」
互いを知るために、目立たない格好をして行くという治安の悪いどこか。それがブリュノやクラリッサがかつて住んでいた野良犬の巣と呼ばれる番外地区であることは、彼女もすぐにわかる。
「…………」
「なんだ、もしかして怖いのか?」
「怖くなんてありません!」
下級貴族のアーシェラは、七番街にもその先にあるという野良犬の巣にも行ったことがない。商業の中心である五番街にはいろいろな人間が集まるから、それっぽい人間を見かけたことはある、という程度だ。
怖くないというのは強がりだが、彼女のなかには好奇心もある。ブリュノのことを知りたいというよりも、クラリッサの育ったところをみたいという気持ちだ。
アーシェラは早足で使用人の部屋に行き、着替えを済ませる。選んだのは、私室を掃除するときにでも着ようと思ってとっておいた、着古したワンピース。いつもはきっちり結い上げている髪をほどき、邪魔にならない程度に軽く束ねる。
アーシェラが支度をして、裏口からそとに出ると、軍服の上着だけ脱いだブリュノが待っている。近くには馬がつながれている。
「うーん、まぁいいだろう。ほら来いよ」
アーシェラにとって、男性と二人で出かけるのはこれがはじめての経験だ。なにが悲しくて、服装の地味さをじろじろと確認されなければならないのだろう。
「もしかして、馬に乗るんですか?」
「時間がもったいないからな」
半分無理やり抱きかかえられるようにして背の高い馬に乗せられる。強がっていても予想以上の高さと不安定さに、アーシェラは身をこわばらせる。
「大丈夫だって、落とさねぇから。もっとこっちに身を預けるようにしてろ」
「そう言われても、ブリュノ殿とは違って私は横乗りで不安定なんですよ」
文句を言いながらも、アーシェラは言われたとおりにブリュノを頼る。頼らなければ落ちるのだから仕方がない。
「慣れれば楽しいだろ? 行くぞ」
「ひっ!」
アーシェラの予想以上に、馬の足は速い。もちろん町中を走るのだから、馬やブリュノの感覚では散歩をしている程度のはずだ。
しばらく走らせると、彼女にも周囲の景色を楽しむ余裕が出てくる。道行く人々を高い位置から見下ろして、どんどん流れる町並みを眺め、風を感じる。慣れれば楽しいというブリュノの言葉は嘘ではなかった。
七番街に近づくと、石造りの家が減り、木造の建物が多くなる。一ヶ所にまとまって新しい家が並んでいるのは、一年と少し前にあった火災で消失したからだ。
もともと平屋が多かった建物を二階建てにする。隣同士の隙間を多くし、狭かった道を広くする。再び火災が起きたときに燃え広がらない工夫をしながら、七番街周辺の再建はゆっくりではあるが進んでいる。
さらに進むと明らかに景色が変わる。その場所には家と呼べるようなものはなく、アーシェラの基準では馬小屋や物置小屋のようなものがひしめき合っているところだった。
二人はそこで馬を下り、野良犬の巣の入り口付近にある木に馬をつなぐ。
「こっからは歩きだ。絶対に離れるなよ」
「あの、盗まれたりしないんですか?」
馬は財産だ。治安の悪い地域でそれを放置することを、アーシェラは不安に思う。さっそく、住人と思われる少年たちが興味津々といった瞳で眺めている。
「俺のものだって、あいつらもわかってるから大丈夫だ。いちおう貴族の端くれになったんだから、こんなことなんの自慢にならないが、俺はこのあたりでは結構名が知られてんだ。俺のものを盗るやつなんていない。……だから絶対に離れるなよ」
そう言ってからブリュノはアーシェラの手を引っ張り、先へ先へと歩いて行く。ブリュノと一緒であれば危険はない。けれど彼から離れれば若い女性にどんな危険があるのかわからない。そういう意味だろう。
(この方は、ずるい……。こんな場所に連れてこられたら、頼るしかないじゃない)
アーシェラの手を包みこむほどの無骨で大きな手。その手に安心感を覚えていることが悔しい。そもそも危険な場所に連れてきて、アーシェラを怯えさせるのは彼。そして守ってくれるのも彼なのだから、どう考えても卑怯だ。
手をつなぎ、野良犬の巣の奥まで進むと道はさらに入り組み、アーシェラの方向感覚を奪う。カビくさいにおいと、嗅いだことのない腐臭に彼女は思わず口元を覆う。腐臭がどこからするのか、アーシェラが確認しようとあたりを見回す。ブリュノが大きな身体でさりげなく彼女の視界を遮っているほうに、ちらりと人の足が見える。強烈なにおいはそちらのほうからだ。
野良犬の巣――――。
想像するのと実際に訪れるのとでは違う。いくら話に聞いて、犬小屋や物置小屋がひしめき合っている状況を思い浮かべることができたとしても、異様な暗さとにおいまでは想像できない。腐臭の原因が道端に転がっている人間かもしれないなどと、誰が想像できるだろうか。
「あ! ブリュノさんじゃん。女連れ?」
十代中頃と思われる少年がブリュノの名を呼ぶ。腰にぶら下げているのはいくつかの工具。そこから彼が大工のような仕事をしていると推測できる。
「よう。俺のことより、あいつをどうにかしてやれよ。今はお前がまとめ役だろ?」
ブリュノが言うあいつというのが、ついさっき見たばかりの道端に転がっている人間だということはアーシェラにもわかる。
「わかってるって! 俺だって仕事が終わったばかりなんだよ。これから人を集めてちゃんと運ぶからさ」
部屋の片付けを怠って叱られた子供のように、野良犬の少年が頬を膨らませる。
アーシェラは胃の中に入っているものをはき出さないことで精一杯だ。ここでは誰かの命がひどく安い。死が日常なのだ。大工の少年が、仲間の死よりも仕事を優先したことなど、なんの問題にもならない世界が、アーシェラの住む王都の中で普通にある。
「あんた、大丈夫か?」
「え、ええ……。ちょっと覚悟が足りなかったかもしれません。あの方もここで育ったんですね」
「あいつが住んでいた家……まぁ小屋だけど。あの辺りはもう燃えちまって新しい家が建ってるよ。大火のあと、マティアスが提案した救済案のお陰で一時的だろうけど仕事が増えた。だから、俺たちがいた頃より今のほうがマシだな」
「これで、マシ……なんですか」
「ああ、俺は数年前までここにいた。……それに、人を殺したこともある」
アーシェラはブリュノのことを本当にわかっていなかった。彼は白い歯を見せて笑う、礼儀知らずの陽気な青年。そんなふうに思っていたのだ。
建物がひしめき合うように建っていて、太陽の光が届かない場所。吸い込まれそうな黒い瞳は野良犬の巣と呼ばれるこの場所の闇を集めて作られた。そんな気さえしたのだ。




