漆黒の野良犬編1
主不在の公爵家――――。クラリッサとマティアスには王宮の女官と護衛がつくから、公爵家の使用人は不要だ。王宮の使者からそう言われ、しぶしぶ荷造りをしたアーシェラは、使者が帰ったあとめずらしく憤っていた。
「ベイリン夫人! せめて私だけでもクラリッサ様のお側に行くことは叶わないのでしょうか?」
アーシェラは最奥の宮で聖女つきの女官になるために採用された。見習い期間中は王宮で過ごしていたのだから、最低限必要な礼儀作法はわきまえている。だから王宮でも問題なく仕事ができるはずだ。
アーシェラには、老神官の死後体調を崩しがちだったクラリッサが無理やり連れて行かれたことが許せない。王宮にはクラリッサを蔑ろにしていた女官たちが働いている。だから彼女にとって心安まる場所ではないはずだ。
「難しいでしょう。今できることは、主の不在を守ることだけです」
公爵家のほうから、王宮で主の世話をしたいとは提案できない。そんなことを言えば、王宮で働く女官の質を疑うと言っているようなものだから。クラリッサのほうから望めば、国王が叶える可能性はあるが、彼女の性格からしてそれは望まないはずだ。彼女はいつも、夫の立場を最優先に考えているし、望まない場所へ誰かを道連れにするというのは考えられない。
公爵家の使用人としては主不在のあいだ、しっかり屋敷を管理することしかできない。
アーシェラはクラリッサ付きの使用人で、主がいないとやることがない。公爵家には多くの使用人が働いていて、掃除や洗濯は身分の低い使用人、料理はコックが担当している。主が不在だからといってほかの人間の仕事を奪うことはできず、はっきり言って暇をもてあましていた。
クラリッサが王宮に滞在するようになってから五日、アーシェラのところに一通の手紙が届く。
『親愛なるアーシェへ』
見覚えのある文字。彼女の兄からの手紙だった。
『最近、我が家に訪ねて来てくれないが、元気だろうか? 君にいい知らせがある。先日、カーク家という軍人の家系のご当主と親しくなった。あちらはご子息の結婚相手を探していて、私は妹の将来を心配している。つまり、縁談だ。ご子息は養子で、半分ほど異国人の血を引いている青年だということだが、君が仕えているウェイバリー公爵様と個人的に親しく、将来有望な青――――』
ぐしゃぐしゃと手紙をまるめて、くず入れに向かって全力で投げる。
「カーク家ですって!?」
軍人の家系の養子で、半分異国人の血を引いていて、ウェイバリー公爵と親しい将来有望な青年とは、間違いなくブリュノ・カークのことだ。兄に説明されるまでもなく、公爵邸を頻繁に訪れている無礼者のことだ。
「ありえないわ! 絶対に嫌よ」
レドナークの女性は、結婚相手に不満を言えない。通常なら父親が、いないのなら兄が選んだ相手と結婚させられる。兄妹の仲はいいほうだが、兄にとって自身がお荷物であるという自覚があるので、アーシェラからは縁談を断ることはできない。
「ブリュノ殿が断ってくれるわよね……?」
少なくとも相手もアーシェラのことをよく思っていないはず。だから彼のほうから断ってくれる。アーシェラはそれに期待するしかない。
(あの方、いくつか年下だし、礼儀がなっていないし、がさつだし……趣味じゃないわ)
長身で、この国ではめずらしい褐色の肌。吸い込まれるような黒い瞳。人懐っこそうな笑顔の青年を思い浮かべて、アーシェラは無性に腹が立った。
***
ブリュノと直接話す機会はすぐに訪れる。あまり詳細については知らされていないが、王宮内で起こっていることや公爵夫妻の状況について、カーク兄弟のどちらかが毎日のように知らせてくれるのだ。
「よう!」
アーシェラが図書室で本の整理をしていると、軍服を着たままの青年がやって来る。夜勤明けなのか、若干だるそうな表情で、いつにも増して軍服を着崩している。
「よう! じゃありません……なにか?」
「あー、アーシェだっけ? あんた、実家からなんか聞いたか?」
さっそく見合いの話だ。もうどうせ嫌われているのに、面と向かって断られると腹が立つ。だからアーシェラは「あなたのことは最初から嫌いです」とわからせるような態度をとる。
「聞きました、聞きましたけれどそれがなにか? それに私の名前はアーシェラです。馴れ馴れしいですよ!」
「あんただって、俺を名前で呼んだだろう? 大差ねぇよ」
「あなたの場合はどちらのカーク殿かわからないから仕方なく、そのようにお呼びしているんです」
「めんどくせぇな。で、どうする?」
「どうすると聞かれても、私のほうからお断りする立場ではありませんから」
だから断ってほしい。アーシェラの気持ちは十分に相手に伝わっているはずだ。
「そっか、じゃあ……あんた、俺の嫁になれ」
「……あの、なぜですか?」
一瞬なにを言われているか、彼女は理解できなかった。ちょっと食事にでも誘うような気軽さで、嫁になれと言われたら世の女性は皆、困惑するはずだ。
「ん? アーシェは俺達の事情を知ってるだろう。俺は引き取ってもらった恩があるから、カーク家の義父の希望を叶えなきゃならねぇんだ。ロイのほうがいろいろ適任ぽいけど、丸投げするのもなぁ」
彼はまるで世間話でもするような態度だ。本人同士が知らないところで進められていた話だとしても、もう少し取り繕うという発想がないのだろうか。
「でも、私は……」
「わかった。嫌なら無理にとはいわねぇ。俺のほうから断るから心配すんな」
そう言われた瞬間、アーシェラは全力でブリュノの顔を殴りつけた。平手ではなく、拳だ。
「お、おお。あんたメチャメチャ気が強ぇな」
アーシェラの全力は、日頃から鍛錬している軍人になんのダメージも与えられなかった。蚊に刺された程度の反応で、アーシェラの気の強さについては、いちおう驚いている。
「信じられない! この唐変木! 女の敵! すぐあきらめるのなら、求婚しないでいただけます?」
アーシェラは拳がだめなら言葉を武器にして、無礼な青年とたたかうことにする。
「じゃあ、あきらめなければいいのか? 俺とあんたなら、互いの利益があるから、ちょうどいいと思ったんだがな」
「利益?」
その言葉に思わず反応してしまった彼女を見て、ブリュノは白い歯を見せて笑う。
「そうだ。アーシェはクー……じゃなかった、奥サマの近くにいたいんだろ? あんたは神殿にいた頃からよくしてくれてるって話だしな。俺としてもそのまま支えてやってほしいんだ。ついでに俺はあいつらを守りたい」
「ブリュノ殿は、私をお嫌いなのでは?」
夜の闇のような瞳が、じっとアーシェラを観察する。いつも不真面目で礼儀知らずの青年がはじめて見せる表情だ。
「普通にいい女だと思うけど? あんたは立場が弱い聖女サマだったのに、あいつをいびったりしなかったんだろ? 気が強いけど、心根は真っ直ぐだ」
「なにも知らないくせに……」
妹分に優しく接した女性だから。そんな馬鹿な基準があるのだろうか。アーシェラは一切の下心なしで、クラリッサを支えてきたわけではない。
「ああ、そうだな。……そういえばあんたも、俺のことをたいして知らないだろ?」
「だからなんですか?」
「どうせ暇してんなら、今から休暇もらってこい」
ブリュノの提案は意外すぎて、アーシェラは返事もできないまま、勝手に話が進められてしまった。




