氷の聖女編1
老神官の死をきっかけにクラリッサはたびたび体調を崩すようになり、公爵家の人々を心配させた。そして同時に社交界からも遠ざかるようになった。
クラリッサがいつまでも公爵夫人としての仕事ができないことについて、マティアスは気にする必要はないと断言して、妻を気遣った。マティアスの優しさは、秘密を抱えたクラリッサには苦いものになってしまった。
そんな頃、二人は国王から急な呼び出しを受ける。クラリッサの体調不良を理由に断ろうとしたが、王宮からの使者は引き下がらない。とにかく用意した馬車に乗るようにとの一点張りだ。
「国王陛下はどうされたのかしら?」
まったく説明のないまま、最低限の身支度だけで王宮へ向かう馬車の中で、クラリッサはマティアスにたずねる。公爵家に嫁いでから、クラリッサが王宮に出向くのは大きな行事のときだけ。それ以外で呼ばれたのは刺客に襲われた事件のときに一度。今回のように理由も説明せずにすぐに来い、というのは今までになかったことだ。
「…………」
いつもなら、クラリッサを安心させるように柔らかい笑みを浮かべているマティアスが黙ったまま、なにかを考えている。
「マティアスはなにか知っているの?」
「知らないほうがむしろ危険かな……。絶対にへたに動かないでくれる? たぶん、僕たちには直接関わりのないことだから」
彼の表情から、これからなにか大変なことが起こるのだとクラリッサは理解する。彼女が大きく一度うなずくと、マティアスは真剣な表情で再び口を開く。
「確証はないけれどここ数日、陛下をお守りしている者たちの動きが少しおかしいと思っている」
「政治的な動きがある、ということ?」
「親ディストラ派が粛清されるんじゃないかと私は予想してるけど」
「え? でも、あの人たちは陛下の……」
親ディストラ派と呼ばれている大貴族は、先の王妃オティーリエに近い立場で、ジェレマイアの御代でも国の中枢にある。
「クラリッサは知っていると思うけれど、先王の御代から政は彼らに決められてたようなものでしょう? 国王陛下にとっては後ろ盾であるのと同時に、邪魔な存在でもあるんだよ」
クラリッサは王太子時代のジェレマイアを通してしか政を知らない。だが、彼が命じているとされているものの中に、彼の意志がないことは知っていた。もっとさかのぼれば、マティアスが王の庶子として生まれた経緯も、メイナード十三世がディストラ王家との婚姻を断る力を持っていなかったことが原因だ。
先王の時代から二世代に渡って国の中枢に居続けた者たちが、廃されようとしている。
「粛清された側が抵抗して、軍事的な動きに発展した場合、君は反乱した者たちの人質になり得ると思う」
それが呼び出された理由だ。公爵邸は要塞ではないのだから、もし反乱が起こり、大軍に包囲されたら逃げられない。安全が確保されるまで、警備の厳重な王宮で過ごさせるつもりなのだ。
「マティアスは?」
クラリッサの聖女という特別な立場が、ジェレマイアにとって重要なのは当然だ。たとえなんの力もない象徴であっても、聖女を見捨てるわけにはいかないのだから。だが、マティアスも同行する理由が彼女にはわからない。マティアスとジェレマイアは仲がよいとは決して言えない、異母兄弟なのだから。
「私は人質というより、反乱を起こした側につかれたらまずいから、だろうね」
レドナークという国は国民が信じるネオロノークの教えと、王家の血筋が密接に関わっていて切り離せない。だからこそ、一つの王家が長いあいだ国を支配し続けているのだ。たとえ王に国を治めるほどの力がなくても、その血筋を絶やすことははばかられる。
マティアスは王位継承権を持っていないが、それはあくまでベリザリオ十八世の治世が揺るがない場合においてのみ、有効な決まりごとだ。
政変が起こり、支配するものが変われば規則や法はいくらでも変わる。ベリザリオ十八世――――つまりジェレマイアを廃そうとする者にとっては先王が定めたことなど、ささいなことだ。
マティアスはジェレマイアに逆らおうとする者にとっては都合のいい旗印になる。
「安心して? 面倒な人たちに担がれて、傀儡政権で王冠を戴いても、嬉しくないから。私は欲深い人間だけど、私の望みは政とは対極にあるしね」
「うん……」
政とは対極にあるという彼の望み。おそらくクラリッサとの幸せがこの先ずっと続くこと、彼の望みはそれだけなのだろう。
「君を守ることに関してだけ、国王陛下と私は、互いに協力できるはずなんだ。だから悪いことにはならない。今回は素直に王宮に出向いて、恭順を示す……それが私の役割ってところかな?」
聖女は王から託されている、というのが建て前だ。クラリッサはマティアスの妻だが、聖女としての彼女はあくまで王のための存在である。
マティアスが預かる師団には、クラリッサを護衛する任務が正式に下っている。だからといって、聖女を守ることを理由に派手に部隊を動かせば、それだけで謀反の疑い有りとみなされる。そのさじ加減が難しい。
今回はみずからの手で守るのではなく王宮に行くことで、ジェレマイアへの忠誠を示すのだ。
真っ白な壁に四本の高い塔を持つ王宮で、ジェレマイアがなにをして、どう国を動かしていくのか。二人には、それを見届ける役が与えられるのだろう。
***
王宮の中で、もっとも大きな建物がゼルコバ宮。国王や大臣、文官たちが執務を行う公の場だ。
クラリッサたちはゼルコバ宮の謁見の間で、ジェレマイアの到着を待つ。この部屋に通されたのは、戴冠式の日以来だ。
「おもてを上げよ」
近侍の無機質な声が部屋の中に響く。
「聖女、それにウェイバリー公。よくぞ参ったな」
高座から二人を見下ろすジェレマイアは、いつにもまして感情を隠した無表情だ。
「お召しにより、参上いたしました」
マティアスが作法どおりにもう一度頭を下げるのに合わせ、クラリッサもゆっくりとした動作でお辞儀をする。
「あなたは座ったらどうだ?」
近くに控えていた女官に目配せをし、ジェレマイアはクラリッサのために椅子を用意する。国王すら座っていない場で、一人だけが椅子に座るというのはおかしな話だが、国王から勧められたものを断ることも無礼だ。
「陛下のお心遣い、厚く御礼申しあげます」
クラリッサは用意された椅子にゆっくり腰を下ろす。
「まずは養父殿のこと、残念に思う。……聖女はまだ体調が回復していないそうだが、この度の呼び出しは、あなたの身の安全のために必要なことだ。そこは理解してほしい」
「はい、ありがとうございます」
「あまり時間がないから、手短に話す。このたび、大規模な人の入れ替えを行うこととなった。……公には有事に備えて、いつでも私の命が届く場所にいてもらう。よろしいか?」
人の入れ替えという言葉を使っても、それが大規模な粛清の意味であることは明らかだ。
「陛下の命に従います」
事前にある程度の予想をしていたマティアスは、驚くことなく恭順の意志を示す。
「公がしばらく屋敷に戻れないとあなたも不安だろう。二人でリンデン宮に滞在するといい」
クラリッサはマティアスから話を聞いていて正解だったと思った。もしも、事前に彼の予想を聞いていなかったら、話の意味がわからず、屋敷に帰りたいと言ってマティアスを困らせていたかもしれない。
マティアスの指示は、へたに動くなということだけ。王家の私邸のような場所だというリンデン宮に滞在するのは彼女にとっては気が重いが、おとなしく従うことにした。




