野良犬の巣編5
マティアス・ヘイズ・アスクウィス。レドナークの第一王子である彼の生まれは少々複雑だ。
十六年前、マティアスの父であるメイナード十三世と、クィルター伯爵家の令嬢であった母は、婚儀の日取りも定まった正式な婚約者同士だった。
そんなとき、北のヴェルダーシュ国との緊張が高まり、国境で小競り合いが起きた。レドナークは当時、ヴェルダーシュ国だけではなく東のディストラ国とも緊張状態にあった。そしてふたつの国と同時に戦をするのを避ける目的で、ディストラ国との間に不可侵条約が結ばれることになった。条約の証、つまりは人質として両国の姫を交換することになり、メイナード十三世の妃は急遽ディストラ国の姫に変更された。
婚儀から一ヶ月後、国を震撼させるほどの事実が判明した。クィルター伯爵令嬢が王の子を宿していたのだ。
レドナークの国教であるネオロノーク教は重婚も離婚も認めていない。子を宿してもマティアスの母は国王の妃として扱われることのないまま、息子の誕生とほぼ同時に生涯を終えることになった。
残されたマティアスは、王の庶子としてもっとひどい扱いを受けてもおかしくない立場だった。けれど王はおそらくマティアスの母を愛していたのだろう。王位継承権を認めない代わりに、王子という地位だけは与えた。
マティアスは近い将来、適当な身分を与えられて臣に下るか、聖職者になるかのどちらかとなるだろう。
王妃や親ディストラ派の人間は、マティアスを聖職者にしたいと考えているようだ。この国の聖職者には婚姻が認められていないので都合がいい。しかし神殿側からは拒まれている。王子が聖職者になる場合、かなり高い位を与えなければならない。マティアスはネオロノークの教えに背く婚外子だから、そういう生まれの者を高位の神官にはしたくないのだ。
そういった理由でマティアスは王宮で飼い殺し状態となっている。剣術や基本的な学問については師を与えられ学んでいたが、異母弟とは明らかに質が違う。
彼はそのことを悔しく思う一方で、自ら変わろうとしたことはなかった。彼がなにかを主張すれば、心優しく弱い父王や、クィルター伯爵が立場を悪くするからだ。
現在、国の中枢を掌握しているのは、ディストラ国との友好関係を重視する者たちなのだから。
(でも、このままじゃ僕は本当の穀潰しなんだ……)
クーと出会った日から、そういう思いが彼の中に芽生えた。
いったい自分はなんのために食事を与えられ、きれいな服をまとって不自由のない生活を送っているのだろう。異母弟のように将来この国を背負う立場でもない。誰からも必要とされず、なんの役にも立たない存在。
そんなマティアスが豊かに暮らしている一方で、クーや野良犬の巣の少年たちは劣悪な環境に身を置きながら、自ら稼いで懸命に生きている。
ネオロノーク教で認められていない妾の子として蔑まれることはよくあることだが、マティアスが本当の意味で自身の存在を恥じたのは初めてのことだった。
「兄上、先日は市井に遊びに行かれたそうですね」
マティアスが剣術の稽古を終えると、一歳下の異母弟、王太子ジェレマイアが声をかけてくる。
ジェレマイアはくせのある金髪にアイスブルーの瞳をした少し冷たい印象の少年だ。髪や瞳の色は母親である王妃オティーリエによく似ている。一方のマティアスの亜麻色の髪や紫を帯びた青い瞳は、父である国王から受け継いだもので、伝承に残る初代国王ベリザリオと同じだ。
王位継承権を持たない第一王子など、王太子であるジェレマイアが気にかける必要もないはずだが、彼はマティアスをおもしろく思っていない。
ジェレマイアにとって、典型的な王家の容姿を持たずに生まれたことが唯一、弱みとなる部分だからだ。
「王太子。君はこれから勉強? ……べつに遊びに行ったわけではないんだけど」
「そうなのですか? 泥だらけのひどい姿でお帰りになったと噂になっていましたよ」
「……それは、申しわけない」
「私は兄上がうらやましいんです。暗殺の心配もなく、自由に市井を見に行けるなんて。それに私には学ばなければならないことが多くて、とてもそんな時間はありませんから」
こんなとき、マティアスには笑ってごまかすことしかできない。それなら自分ももっと学びたいのだと言えば、王太子に取って代わる野心があるとみなされる。だからといって、自ら進んで放蕩王子を演じられるほど割り切ることもできない。
そんな不器用な少年だった。
「ああ、そうだ! こんど“聖女選定”の神託が下ることになったんです。……これはまだ秘密です。兄上には特別に教えてさし上げますよ」
聖女は約五十年に一度、神託によって選ばれる。一度目の神託で、選定の日が予言され、選定の日に下される二度目の神託で示された場所に、選ばれし“心清き乙女”が現れるというのだ。
神託が下った、ではなく下ることになった、というジェレマイアの言葉にマティアスは思わず眉をひそめる。
「聖女は将来、私の妃になる方ですからね。誰がふさわしいと思います?」
「それは、神託によって選ばれるものでしょう?」
それではまるで、ジェレマイアが聖女を選ぶと言っているようだ。
数代おきに、未婚の王太子が年頃になったときに都合よく神託が下されるのも、選ばれる乙女が家柄のよい令嬢ばかりであることも、すべては人間が考えた茶番だ。
「兄上は意外と潔癖なんですね。……建国王ベリザリオと導きの聖女フィオレーナの子孫である私に、ネオロノーク神は望む乙女をお与えくださるに決まっているでしょう?」
「そうだね。……聖女が遣わされた御代は、栄えるというからね。長い戦で疲弊したレドナークが再びあるべき姿に戻る日を、僕も願うよ」
「ありがとうございます。兄上はお優しいですね」
「…………」
「兄上は聖職者に向いているかもしれませんよ? 祈ったり、願ったりするだけのお仕事でしょう?」
「そうかもしれないね」
祈ったり願ったりするだけでは、誰も救えない。神託など本当はなく、政治的な思惑を受けて神殿が神の名を語っているだけ。つまりは王家のいいなり。
それをわかっていて聖職者に向いているというジェレマイアの言葉に、マティアスは反論すらできないのだ。
***
翌日、マティアスはクィルター伯爵を呼び出した。
「殿下が私にご用とは。めずらしいことでございますね」
クィルター伯爵はマティアスの側近、つまり世話役のような存在だ。伯爵家はマティアスが生まれる以前は政に深く関わる立場だった。王妃、そして親ディストラ派が台頭するようになってから、今の立場になったのだ。
王や王太子の側近、という立場であれば話は別だが、なんの力も持たないマティアスの側近というのは、事実上の左遷だった。
「うん。伯爵に協力してもらいたいことがあって」
「私にできることでしたら」
「また、町へ行きたいんだ。僕が遊び歩いても誰も気にしないと思うんだけど、この前の服装は目立つし、町で目立たない服装だとさすがに王宮内で目立つでしょ?」
マティアスの願いは町へ行くための拠点を用意してほしいということだった。伯爵家の屋敷か、伯爵家の所有する建物か、とにかく支度を整える場所がほしかった。
「それで、あなたは貧しい者たちの暮らしを知って、なにができるというのですか?」
「……僕の考えていることは、伯爵になんでも話さなくてはだめなの?」
「いいえ、私は殿下の臣でございますゆえ、その必要はございません」
マティアスは野心を抱いて、父や異母弟に取って代わろうという気はなかった。
将来どういった身分が与えられるのか彼にはわからないし、おそらく自身で選択することなどできない。
どうなるかわからないからなにもしないのではなく、与えられた役割の中でもできることをする。そのための知識や力が欲しいのだ。
伯爵には伯爵の思惑があるだろう。彼はただ私欲のためだけで動く人間ではないはずだが、国のためだけに動く人間でもない。
マティアスには、誰と協力するべきか、利用するべきか、そしてたたかうべきか――――これからは自分で考えなければならないのだということだけはわかっていた。