過ちと眠り編4
はじめての夜会での失敗は、彼女の思いとは裏腹に努力で取り戻せるものではなかった。足の悪いクラリッサを気遣うというかたちで招待そのものが少ない。そして夜会に顔を出さないことで、いつまでも貴族社会に馴染めない。馴染めないからますます社交界から遠ざかる、悪循環だ。
そんな頃、クラリッサはまたあの夢を見る。
場所は公爵家の玄関ホール。軍服を着ているマティアスを送り出す時間のようだ。
『やっと嵐が去ってくれたね。三日も屋敷に閉じこもっているのは退屈だったでしょう?』
『べつに退屈じゃないわ。刺繍をしたりベイリン夫人からいろいろ教わったり、やらなければいけないことはたくさんあるもの』
『そう? でもたまには買い物をしたり、どこかに出かけてきてもいいんだよ? 護衛はしっかりつけているんだし』
『ありがとう。でも今日はきっと道もぬかるんでいるだろうし、刺繍の続きをするわ』
『わかったよ。いってきます、クラリッサ』
マティアスはいつもと同じように、クラリッサの頬に軽くくちづけをする。
『いってらっしゃいませ、旦那様』
開かれた扉のそとは目を細めたくなるほど眩しい。扉の先、屋敷の車寄せには公爵家の馬車が止まっていた。マティアスがその馬車に乗り込むところで彼女の世界は暗転する。
夢はそこでは終わらない。
ぼんやりと浮かび上がるのは寝室で寝かされた状態のマティアス。右腕の全体や肩を覆うように包帯が巻かれ、血が滲んでいる。
『マティアス、マティアスしっかりして……! お願い、お願いよ』
クラリッサは彼の左手を取り、励ますように、懇願するように名前を呼ぶ。息が荒く、目は虚ろ。それでもマティアスは彼女に心配をかけないように無理をして笑おうとする。
『……大丈夫、だ、よ。クー……』
『奥様、痛み止めの影響で意識は混濁されていますが、公爵閣下はお若いですし、体力もおありですから』
クラリッサのすぐ横にはなにかの道具を持った男性が立っている。顔は見えないが、服装で医者だとわかる。
もう一度マティアスのほうにクラリッサの視線が移動する。
医者によって手当てされてもなお、血がにじむような傷とはどのようなものなのか、不安でたまらない。
『マティアス……やだよっ!』
『クー……、だい、じょうぶ、だよ』
うっすらと目を開けるマティアスは、荒い呼吸の合間に、クラリッサを悲しませないための言葉を必死にはき出す。真っ白な顔と青くなったくちびるを見つめていたクラリッサの瞳が涙でにじみ、だんだんとぼやけていき、やがて――――。
***
目が覚めると、クラリッサの瞳からは本当に涙があふれて枕を濡らしていた。日付が変わった頃から降りはじめた雨が激しさを増し、雨戸ががたがたと音を立てている。
(また、あの夢なの……?)
最初はマティアスが死ぬ夢、そのあとは服が泥で汚れる程度の夢だった。そしてさっきまで彼女がみていたのは、マティアスが重傷を負う夢だ。はじめて夢をみたときほど取り乱さず、今の段階ではあくまで夢であることを、彼女は冷静に受け止める。
(マティアス……)
クラリッサのすぐ隣では彼が穏やかな寝息をたてて寝ている。一緒に眠るようになって一週間ほどは、お互いの寝返りやちょっとした身じろぎが気になった。だが二人で眠ることに慣れてしまった今では、多少のことでは目が覚めない。
彼女は夫の存在、そして生きている証を確かめるように、そばに寄る。
マティアスは一瞬だけびくっとなり、目を覚まさないまま条件反射のように妻の背中に手を回す。
嵐の夜は聖女選定の日のことをどうしても連想させる。クラリッサは古き神殿の高台へ向かう階段から落ちた瞬間のことを、あまり覚えていない。彼女がはっきりと覚えているのは、痛みと寒さに耐えながら少しでもあたたかい場所に行こうと地面を這いつくばっているところからだ。
彼女が最奥の宮にいたときは、あまり恐怖を感じなかった。それはきっと生きることに絶望して執着していなかったから。そしていつも怒りや憎しみが心を支配し、恐怖という感情の入り込む余地がなかったからかもしれない。
今のクラリッサはマティアスに守られて、今だってぬくもりを与えられて、とても幸せだ。それと比例するように、今の生活やマティアスを失うことがひどく恐ろしくなってしまった。
(あの夢なら……。もしそうなら、続きをみなくちゃいけない)
夢の続き。それはほかの誰かが犠牲となる場面をみることだ。目が覚めても忘れられないほど鮮明で妙に生々しい。そんな夢をみたい人間などいない。
とくに二度目の夢は、クラリッサが積極的に傷つける相手かもしれないのだから。そうだとわかっていて再び眠るのはひどく苦痛だ。
それでも、夢をみないとマティアスが犠牲になるような予感がして、クラリッサはぎゅっと目を閉じる。
(早く眠れ! 私は寝なきゃいけないんだから)
夢の中で「やっと嵐が去ってくれた」とマティアスが口にしていた。もしその嵐というのが今晩のこの雨からはじまるのだとしたら、あと三日しかない。マティアスを守るために、クラリッサは眠れ、眠れ、と頭の中で命令し続ける。
***
また夢をみる。
場所は公爵家の玄関ホール。軍服を着ているマティアスを送り出す時間。
(ああ、やっぱり……。またあの夢なんだわ)
クラリッサの意識ははっきりと、これが夢であると認識している。そして先ほどみた夢と同じはじまりだと理解している。
『やっと嵐が去ってくれたね。三日も屋敷に閉じこもっているのは退屈だったでしょう?』
『べつに退屈じゃないわ。刺繍をしたりベイリン夫人からいろいろ教わったり、やらなければいけないことはたくさんあるもの』
『そう? でもたまには買い物をしたり、どこかに出かけてきてもいいんだよ? 護衛はしっかりつけているんだし』
『そうね……。それもいいかもしれないわ。買い物に行ってみようかしら?』
夢の中で彼女の発した言葉が変わる。一度目の夢では屋敷で過ごすと言い、二度目は買い物に出かけると言った。
『気分転換にはとてもいいと思うよ。それなら私は天気もいいし、今日は馬で行くから。いってきます、クラリッサ』
マティアスがクラリッサの頬に軽くくちづけをする。そこは一度目の夢と変わらない。
『いってらっしゃいませ、旦那様』
開かれた扉の先、公爵邸の車寄せにはやはり馬車が止まっていた。マティアスは馭者になにやら話しかけ、馬車には乗らず愛馬のいる裏庭のほうへ歩いて行く。一度目の夢と同じように、そこでクラリッサの視界は暗転する。
次に見えてきたのは、見知らぬ部屋。壁の色や床の素材から公爵邸の中――――クラリッサが立ち入らない使用人の部屋かもしれない。
簡素な家具が置かれたその部屋のベッドには、ロイとブリュノがいる。ブリュノはベッドのすぐそばに立ち、ロイはベッドの上で上半身だけを起こしている状態だ。着ている上着は右腕だけ袖を通し、左側の袖はくしゃくしゃになっている。
『はぁ……。やってしまいました』
『しゃーねよ。切らないと命が危ないって言うんだから。熱もだいぶ下がったみてーだし、不幸中の幸いだって割り切れよ。ほら、七日ぶりのまともな飯だぞ』
『まぁ左腕でよかったですよね。まだ字が書けるんですから書類を書く仕事はできますし!』
ロイは左腕だけ袖を通していなかったのではない。左腕がないのだ。
腕を切断しなければならないほどの怪我をして、七日間まともな食事を取れないほどの状況だったということのようだ。
(い、いや、うそ、うそだ……!)
『クラリッサ様……いいや、クー。そんな顔しないでください。僕はこれでも軍人なんですから、これは任務での負傷です。軍人とはそういうものですよ?』
ただ黙って立っていたクラリッサにロイが笑って気にするなという。無理やり笑うロイに、クラリッサはなんと声をかけていいのかわからない。夢の中のクラリッサも黙ったままだ。そのうちに涙で視界がぼやけていく。その涙は、夢をみている今のクラリッサが流しているものであり、夢の中の未来のクラリッサが流すものなのかもしれない。
(まって、嘘でしょ? これじゃわからない! ちゃんとみせて、なんでちゃんとみせてくれないの!?)
必死にそう祈っても、ぼやけた視界が再び色を取り戻すことはなかった。




