過ちと眠り編3
屋敷の庭には、石畳の道にそって等間隔で燭台が設置してあり、夕暮れの時間を過ぎても、人の顔がはっきりと見えるほど明るい。置かれているベンチに座り、親密な雰囲気をただよわせている男女を横目で見ながら、クラリッサはマルヴィナと一緒にすぐ近くにあるという温室を目指す。
「少し足がよくなられたのではありませんか?」
「ええ、これからもう少しよくなってくれればいいのですが」
多くの招待客がいるのだから、温室を含めて今夜のために解放されている区画には必ず人がいる。いつでも客の要望を聞けるようにと、使用人の数だけでも相当なものだ。人目があることも関係しているのかもしれないが、久しぶりに話すマルヴィナは、クラリッサの予想に反して好意的だ。
「そうですわね。……わたくしなら、そのような歩き方で堂々と夜会に出て行く自信がありません。聖女様はとてもお強いのですね。さすがですわ」
さすが、卑しい生まれというだけのことはある。マルヴィナが言いたいのはそんなところだろう。
「お、おそれ入ります」
一瞬抱いた淡い期待をすぐに打ち砕かれたことは、ある意味でよかったのだろう。クラリッサは親交を深めるのではなく、つけいる隙を与えないほうに方針を転換する。
「皆さん。素敵な夜ですわね? 聖女様をお連れいたしましたわ」
「まぁ、聖女様。お久しぶりでございます」
温室の手前には小さな人工の池があり、煌々と明かりの灯る屋敷が静かな水面に映し出されている。池のほとりには二人の令嬢が立って、談笑をしていた。
一人は、マルヴィナと一緒になんどか最奥の宮を訪ねてきた令嬢。もう一人はクラリッサの知らない令嬢だった。
はじめて会うはずの令嬢。彼女は明らかに憎しみを込めた目でクラリッサを見つめている。
「紹介いたしますわ。こちらギルモア卿の婚約者だったポリーナ嬢ですわ」
「ギルモア卿……?」
マルヴィナはいつもどおりの笑みで、初めて会う令嬢を紹介する。ギルモア卿という名がすぐに思い出せないクラリッサはあせる。最奥の宮にいたときは限られた人間関係の中で暮らし、そとに出るときはベールで視界が遮られていた。しっかりと顔を見ていない貴族の名前など、覚えられなかったのだ。
「あら、お忘れですか? 以前、神のお告げで王都から追放されたはずですわ。ご自身が聞いたはずの神の声すら、忘れてしまったのかしら?」
「ポリーナ様があまりにも不憫です!」
容赦のないマルヴィナの言葉に、もう一人の令嬢が顔を覆って泣き出すような仕草をする。
「神託……」
クラリッサはその言葉で、一気に血の気が引き、胃の中からなにかがこみ上がってくるような不快感に襲われる。
「はじめまして、聖女様。ずっとお会いしたいと思っておりましたの。せっかく会えたのですから、よいことを教えてさしあげます。貴族の社会は血の繋がりがとても深いんです。……聖女様のお名前で出された神託で裁かれた者は、すでに王都にはおりませんが……」
ポリーナが、怒りの色をだんだんと強くして静かな声で告げる。そして、一歩、二歩とクラリッサのほうへ近づいてくる。
「ですが、その親類、友人、婚約者……そういった者たちまで裁かれたわけではないのです。この意味がおわかりになりますか?」
「…………」
「ここに、あなたの味方がいるだなんて思わないでくださいね、聖女様……」
最後まで言い終えたポリーナは、無言のままクラリッサの肩をどんっと押す。もともと足が悪く、動揺した状態のクラリッサがバランスを崩すのは簡単だ。そして、彼女のうしろは池だった。
「まぁ、聖女様! しっかりなさって」
バシャッという音がして、クラリッサが水の中に落ちるのとほぼ同時に、誰かが叫ぶ。
「誰か、誰か来てください! 聖女様が!」
「まあ! 足がお悪いのに、わたくしが誘ってしまったからですわ! 聖女様、大事ありませんか?」
マルヴィナたちは必死な声とは裏腹に口もとだけは笑っている。池の水深は浅く、クラリッサは泥を含んだ水を少し飲んだだけで、溺れることはない。けれど、起こった出来事や言われた言葉がすぐに処理できずに、座り込んだまま立ち上がれない。
重いドレスに水が染みこみ、初夏とはいえだんだんと冷たさを感じるようになる。
(わ、たし……全然だめだった……!)
小規模なお茶会で自信をつけ、マティアスが用意した悪意の存在しない小さな世界でたった数ヶ月過ごしただけで、もう感覚がおかしくなってしまった。
頭の中では人から恨まれ、疎まれている存在なのだと理解していたはずなのに、クラリッサの心はすぐに傷つく。とても脆くて弱いのだ。
慣れていたはずの悪意を忘れてしまったことを、悔やんでももう遅い。
屋敷を警護する私兵がクラリッサを引き上げたところで、マティアスが慌てた様子でやってくる。
「公爵様! わたくしが誘ったのがいけなかったのですわ、わたくし、わたくしっ、どうしたら」
マルヴィナが瞳を潤ませて、池に落ちたのは単なる事故であると訴える。相手は侯爵令嬢を筆頭に三人。クラリッサは公爵夫人という肩書きがあっても所詮は一人。目撃者が聞いたのは、水に落ちる音と同時に、クラリッサを心配し、助けを呼ぶ令嬢たちの叫びだけ。
彼女が池の中に落とされた、などと言えばマティアスの立場を悪くするだけだ。
「どうかお気になさらずに。それよりクラリッサ、風邪を引くといけない。……君、公爵家の馬車を呼んでくれる?」
近くにいた使用人にそう命じて、マティアスはクラリッサを連れていこうとする。
「あの、ごめんなさい……」
ぽつり、クラリッサがつぶやくと、マティアスは少し怒った顔をして彼女のほうを見てから、すぐに視線を逸らす。ぎゅっと握られた手の力がさらに強まるのをクラリッサは感じていた。
***
同じ貴族の屋敷が集まる王都の中心地区にあるので、公爵邸までは歩いても帰れるほどの距離しかない。
手際のいいマティアスの指示で、クラリッサが馬車で屋敷にたどり着くころには湯の支度が整い、すぐに汚れを落とすことができた。
温かい湯に浸かりながら先ほどの失敗を思い出して、悔しさで涙がにじむ。池に落とされたのは予想外だったが、マルヴィナたちの態度や行動は、冷静に考えれば以前からたいして変わっていない。
彼女たちが好意的でないと知っていたのに、どうせ口でなにかを言われる程度だろうと、クラリッサは油断してしまったのだ。
多くの貴族と親しくなる。そうなれない者には、侮ってはいけない相手だと思わせる。それが今夜の目的だった。池に落ちたことで、無様な姿をさらし、招待されていたほかの貴族に、足が悪いことを印象づけてしまった。
薄暗いというだけで池に落ちるようなあやうい人物を、積極的に招きたいという貴族がいるだろうか。今回はクラリッサの不注意ということで、主催者である侯爵家の落ち度ではないが、場合によっては会場の管理責任が問われるのだ。
(こんなことでいちいち泣いていたら、だめだわ……)
せめてマティアスの前では泣かないように、クラリッサは両手にすくったお湯で涙を洗い流した。
夜着に着替えて、私室に戻るとマティアスがいた。
「大丈夫?」
ソファに深くその身を沈めているマティアスは、先ほどからずっと難しい顔をしている。公爵夫人としての役割を果たせなかったクラリッサに、少し腹を立てている――――そういう人物ではないとクラリッサは知っている。彼は妻にはどこまでも優しいのだから。ではなぜなのか、彼女にはよくわからない。
「ええ、あの……ごめんなさい、迷惑をかけて。せっかく連れていってくれたのに、うまくできなくて」
彼女は座っているマティアスの前に立ち、なにを考えているのかとその顔を覗き込む。
「クー」
名を呼ばれ、ぐっと手を引っ張られるだけでクラリッサは簡単に倒れる。倒れた先にはマティアスがいて、包み込むように受け止めたので痛みはない。
ほら、君はこんなにも弱い。すぐに倒れてしまうだろう。クラリッサはそう言われている気がして、切なくなる。
「本当はね、私としては君が無理に社交界に出る必要なんてないと思ってる。ここに居て、できるだけ汚いものからは遠ざけたい」
「でも!」
「知っているよ。ああいう危険な行動をする令嬢がいたのは予想外だったけど、言葉では相当言われるとわかっていて、君を送りだしたんだから。君がそうしたいだろうから、我慢した。……たぶん、私は真面目にがんばろうとする君を愛しているんだろうね。ひどい矛盾だよね?」
努力するクラリッサを愛している。けれど傷ついて欲しいわけではない。マティアスが言いたいのは、そういうことだ。
クラリッサの望みも、マルヴィナとの関係も、池に落ちたのではなく落とされたのだということも、彼はすべてを知っていた。
「私、もっと強くなるから、待っていて。ちゃんと頼るから、見守っていてくれる?」
答えの代わりに、マティアスはクラリッサを強く抱きしめる。こういうときのマティアスはすこし強引だ。
神秘的な色の瞳が近づいてきて、クラリッサのくちびるに温かく柔らかいものが重なる。マティアスに優しくされると、忘れてはいけない罪を忘れそうになる。婚約者を奪われたというあの令嬢の行動に、クラリッサが傷つく権利はあるのだろうか。
彼女が罪悪感を覚えても、すでにできてしまった新しい傷の癒し方を教えるように、マティアスはどこまでも優しかった。




