はじまりの夢編2
クラリッサが目を覚ますと、カーテンの隙間から朝の光が差し込む時間だった。彼女はどうやら朝まで夫の胸に顔うずめて寝ていたらしい。
彼女が身じろぎをしたせいで、マティアスの瞳がゆっくりと開かれる。
「おはよう、大丈夫?」
二度目の夢も悪夢だった。おそらく一度目の夢の内容を否定したくてあんな夢をみたのだ。空想で、しかも実在しない女性だとしても、夢の中で誰かの死を喜ぶような気持ちになった。クラリッサはそのことで、ひどく気持ちが落ち込んでしまう。夢だとしても、夢の中で感じたことは、自身の心の奥底にくすぶっているものではないかと思うからだ。
きっとまだ彼女は現実と夢の境界にいる――――つまり、寝ぼけているのだ。
「おはよう。少し、嫌な夢をみただけ。大丈夫よ」
「そう? 急にいろいろと変わりすぎたせいかもしれないよ。……熱はなさそうだね」
マティアスがクラリッサの額に触れる。ぼっと頬が赤くなるのを彼が笑う。
「……まだ、慣れない?」
「聞かないで」
クラリッサはもぞもぞとしながら身を起こし、彼のそばから離れる。まだ公爵邸で暮らすようになって、つまりマティアスと一緒に眠るようになって数日。夜着や髪が乱れている姿を見せるのは気恥ずかしい。二人はすでにきちんとした夫婦だ。それでも一緒に過ごした期間はまだ短い。慣れてしまうには早すぎる。
三年前まで、クラリッサとマティアスは対等だったはず。クラリッサはマティアスにしてあげられることが確かにあった。だからこそ身分の違うマティアスを好きでいていいと思ったのだ。
だが、今は一方的に守られて、甘やかされ、翻弄されている。
クラリッサは早く自信がほしかった。マティアスを好きでいる理由はたくさんあるのに、マティアスが彼女を好きで居続ける理由はないから。
貧民街に迷い込んで困っていた少年を助けたこと、たった一度約束を違えたこと。それらはすべてクーの話で過去のことだ。クラリッサとしての彼女も、マティアスに愛されていいのだという証が欲しい。
そのために、まずは公爵夫人として、やらなければならないことをする。それが彼女の当面の目標だ。
***
仕事へ向かう夫を送り出したクラリッサは、基本的に公爵夫人として必要な教養を身につけるための教育を受けて過ごす。
最奥の宮でも、高貴な身分の女性に必要な知識や手習いをして過ごしていた。けれど教えるほうにも教わるほうにもやる気がなかった。クラリッサはそのことを今になって後悔している。
途中からクラリッサが王妃にならないことが前提となり、最初から邪魔ばかりしていた教育係は完全に役目を放棄していた。クラリッサも必要以上に周囲を拒絶していたのでなおさらだ。
まだ午前中だというのに、使用人に二人がかりでコルセットを締められた。クラリッサはふらふらしながら杖を使って歩くのがやっと、という状態だ。
「奥様、本日は正装でのマナーを確認いたしましょう」
「はい、よろしくお願いいたします。ベイリン夫人」
ベイリン夫人は子爵家の人間で、彼女の夫はすでに他界し息子が家を継いでいる。そしてマティアスの乳母を務めていた元女官である。少しだけ白髪が混じりはじめた長い髪に、丸いめがねをかけて朗らかに笑っているが、指導役としてはものすごく厳しい。
クラリッサが女主人としての役割をまったくはたせないので、その代行もしている。とても頼りになる人物だ。
ベイリン夫人は最奥の宮の教育係よりも厳しいが、嫌みはない。指導時間とそうでない時間をしっかりと分け、休憩時間にはマティアスの小さな頃の話をクラリッサに聞かせてくれる。そういう女性だ。
「奥様がダンスをされる必要はないと思いますが……まずは歩き方からです」
「え……?」
歩き方。日常的にできているはずの動作から直される。歩き方からして育ちの悪さがにじみ出ている、と言われているようで屈辱的だ。しかもクラリッサの足は感覚が鈍く、健康な人と同じようには歩けない。
そうとわかっていて、直せと言われているのだから。
「え? ではありません、歩き方からです。失礼ながら奥様は、足がお悪いということに甘え、美しく歩くという努力を怠っておいでです。それに神殿でのお召し物は、貴族の正装よりも軽く、歩きやすいものでございましょう?」
社交の場は女の戦場である。そこで弱点を晒すようなまねはできないのだ。聖女の衣装はコルセットを使わない時代――――千年前の女性の服装を模したものだった。今後、夜会や公の場で着る正装はそれよりも重く、動きにくい。練習しておかないと無様に転ぶ、というのがベイリン夫人の予想だった。
「……そこの、カーク殿でしたか? 旦那様の代わりを努めてください」
部屋の隅に立っていたのはブリュノだ。最奥の宮を離れたクラリッサには必ず護衛がつくようになっていた。そして、護衛はマティアスの師団から出すことが定められている。ジェレマイアは私的にも公的にも、聖女を守る義務をマティアスに与えたのだ。
「あぁっ!? まじかよ」
「品がありませんよ。部下や使用人の品位は、そのまま旦那様の評判につながります。改めるように」
「小姑の次は姑……」
ベイリン夫人に聞こえないような小声で、ブリュノはつぶやく。彼にとってアランが小姑、ベイリン夫人は姑ということのようだ。
「聞こえておりますよ、無駄口をたたく暇はございません」
じろりとブリュノをにらんで、ベイリン夫人はさっさと今日の目的をはたそうと二人をせかす。歩き方からはじまって、お辞儀の仕方や椅子の座り方まですべてダメだしされ、なんどもやり直しをする。
クラリッサだけでなく、夫人に「旦那様のお側にいるのがふさわしくない」と認定されてしまったブリュノにも厳しい指導が入り、昼になるまでみっちりしごかれる。
「まあ、そのくらいでよろしいでしょう」
使用人から昼食の準備が整ったことを伝えられて、やっと午前の教育の時間が終わる。
「ありがとうございました。ベイリン夫人」
直されたばかりのお辞儀で、クラリッサはこの時間を締めくくる。
「奥様、半月後にマッケオン伯爵邸でお茶会があるそうです。……ご夫婦でそちらに出席していただきますので、そのおつもりで」
マッケオン伯爵は先王、メイナード十三世の甥、マティアスやジェレマイアの従兄にあたる人物だ。歳はマティアスよりも二つ上の二十二歳。伯爵という爵位を名乗っているが、彼の父親はマティアスと同じ公爵位をもっていて、マッケオン伯爵は次期公爵ということになる。
伯爵の母親や妻は、かなり高位の貴族の出だ。貴族社会では、あまり表に現れない女性側の血筋も重要な意味をもつ。だから、同じ公爵という地位でも、名ばかりのウェイバリー公爵家とは比べものにならないほどの力を持っている。
「お茶会ですか……」
公爵夫人として、求められる役割の一つに社交というものがある。だが、悪評しかないクラリッサは、貴族と関わるのが正直怖い。マッケオン伯爵とその夫人には、聖女として神殿の儀式に出席したときに会っている。だが、挨拶以上の言葉を交わしたことはない。
「マッケオン伯爵ご夫妻は、奥様のお人柄を、生まれや噂だけで決めてかかるようなことはないと存じます」
「はい、でも……」
「旦那様は、奥様を大切にしておいでです。……最初ですから、比較的旦那様と親交のある方が主催される小規模な会を選ばれたようです。ですから、あまり心配せずともよろしいかと思われます」
「わかりました。それならよけいに、私が……ウェイバリー公爵夫人という地位にふさわしい者だと証明せねばなりません。あと半月、厳しくご指導ください」
伯爵夫妻が最初からクラリッサを否定しないのだとしたら、それで安心できるわけではない。逆に言えば、真実の姿を見られるということなのだ。今のクラリッサは貴族の女性として、振る舞いがしっかりできているとはお世辞にも言えない。あと半月で作法を身につけ、少なくとも嫌われないようにしなければならない。
マティアスの負担にならないために、彼女はこれ以上敵を作ってはいけないのだ。
「ええ、奥様」
ほほえむベイリン夫人の表情は、もう厳しい教師のものではなくなっていた。大切に育てた王子の伴侶として、クラリッサを認めているのだというように優しかった。




