はじまりの夢編1
クラリッサはマティアスと一緒にテラスに用意された椅子に座っている。少し離れた場所には、護衛としてブリュノが立っていた。
『今日はなんだか、とても楽しかった。……マティアスありがとう』
『疲れていない? そういえば、私におねだりするって話はどうしたんだい?』
『聞いていたの? 前に、たくさん貰ったもの……マティアスは少し、私のことを甘やかしすぎじゃない?』
『妻を大切にすることは、ほめられることで恥ずべきことではないでしょう?』
お仕着せを着た使用人がワゴンに乗せた紅茶を運んでくる。クラリッサの見覚えのない女性だ。公爵邸に来てから間もないため、意識して使用人の顔と名前を覚えるようにしているのに。
『まって、あなたのお名前は……?』
その瞬間ぴたりと動きを止めた使用人が、隠し持ったナイフを取り出し、クラリッサに襲いかかる。
『聖女! 覚悟なさい!!』
『あぶない! クー!!』
マティアスが覆い被さり、クラリッサの視界を奪う。
『うっ!』
マティアスの低いうめき声、クラリッサに身体を預けるように倒れ込む。 女の叫び声のあと、ブリュノの声が聞こえる。ブリュノが襲撃者の女を取り押さえたのだ。
『マティアス……?』
マティアスがクラリッサを押しつぶすように倒れ、動かない。クラリッサが彼の背中に手を回すと、服が濡れているのがわかる。手をかざすと、背中に触れていた部分が真っ赤に染まっている。
『な、なに……、やだ、マティアス……?』
『動かすな! くそっ、出血がひどい』
マティアスの背中が真っ赤に染まる。女の笑い声、駆け寄るブリュノ。クラリッサの視界は真っ赤に染まり、叫びごえは声にならない。愛する彼の名前を呼びたくても、マティアスの姿が霞んで――――。
***
「クラリッサ? 大丈夫?」
クラリッサが目を覚ますと、マティアスが心配そうな表情で覗き込んでいる。彼女はなにが起きたのかよくわからず、夫の顔を眺める。
薄暗い部屋の中、日中と違って整えられていない髪がサラサラと顔のほうへ落ちるのを、鬱陶しげにかき上げる。その仕草が少年時代の彼を思い起こさせて、クラリッサを安心させる。
怖い夢をみていたのだ。まだ起きるのには早い時間、場所は夫婦の寝室。さっきクラリッサがみたものはただの悪夢で、彼女の夫はこうして今もクラリッサのことを気遣ってくれている。
「水でも持ってくるよ」
マティアスが身を起こし、クラリッサのそばから離れようとする。
「行かないで……」
クラリッサはマティアスのシャツをつかんだ。彼女が欲しいのは水ではなく、あれはただの夢だという証だ。
「どうしたの? うなされていたよ?」
「怖い夢をみていたの、だから行かないで……そばにいて」
マティアスはクラリッサの髪をなでてから、ゆっくりと彼女の肩を押して、ベッドに横になるように誘う。クラリッサが素直にそうすると、マティアスもすぐに隣で横になり、彼女を胸の中に閉じ込める。
「大丈夫だよ、君は僕が守るから。もう怖いことなんておきない」
マティアスはクラリッサが過去を夢にみたのだと思っているのだろう。彼女がみていたのは、過去のことではなく、彼女自身が怖い目に遭ったことでもなかった。
マティアスがクラリッサを守って刺される。これはきっと、彼女が一番不安に思っていることを、象徴しているだけなのだ。
多くの人から恨まれている聖女。そしてマティアスはあらゆる悪意から聖女を守り、新たな神託からも遠ざけようとしてくれている。クラリッサのせいで彼は危険に晒されている。だから、庇って刺される夢をみたのだ。
「あのね……、私が一番怖いのは、私のせいでマティアスになにかあったらって。それが怖いの」
「わかるよ、クー。君のために、僕は自分を大切にする。君は僕のために君自身を大切にする。いいね? ……大丈夫だから、もう少し眠ろう」
「うん……」
幾度言葉で否定しても、マティアスの行動の根底にはクラリッサへの贖罪がある。彼女はマティアスのために不幸になってはいけないのだ。そしてマティアスはクラリッサの心の平穏のために、彼自身も幸福であり続けなければならない。
二人は愛し合い、想い合う夫婦なのに、絆と罪で互いを束縛し依存しあう。
(それでもいい……)
クラリッサはマティアスのぬくもりと鼓動を感じながら、目を閉じる。彼の大きな手が、ゆっくりとしたリズムでクラリッサの背中を優しくさする。親が子供を寝かしつけるように。
「子供じゃないのに……」
「おやすみ」
マティアスがクラリッサに用意してくれた世界は、彼女にとってひどく優しい。マティアスの存在だけを感じていれば、いつの間にか彼女の不安は消え去り、再び夢の世界へ導かれた。
***
クラリッサはまた、マティアスと一緒にテラスに用意された椅子に座っている。
『今日はなんだか、とても楽しかった。……マティアスありがとう』
紡がれる言葉は同じ、クラリッサの意識と行動は解離している。
(そうか、また夢を見ているんだ……。夢でもこんなのいや!)
クラリッサの意識がはっきり夢だと認識しても、悪夢はどんどん進んでいく。
『疲れていない? そういえば、私におねだりするって話はどうしたんだい?』
『聞いていたの? 前に、たくさん貰ったもの……マティアスは少し、私のことを甘やかしすぎじゃない?』
『妻を大切にすることは、ほめられることで恥ずべきことではないでしょう?』
お仕着せを着た使用人がワゴンに乗せた紅茶を運んでくる。
クラリッサの意識ははっきりと、この人物が聖女に罰を下すために入り込んだ襲撃者だとわかっている。
お仕着せの前掛けについているポケットが、不自然に膨らんでいる。
(やめて、なんで同じ夢なんてみせるの!?)
夢だとわかっていても、到底受け入れられない出来事がこのあと起こってしまう。
最初の夢では、クラリッサが女に名前を聞いたことが襲撃のきっかけになった。あの言葉で、クラリッサが女を疑っているのだと判断したからだろう。
言葉にならないクラリッサの叫びが通じたのか、二度目の夢で彼女の口から女の名前を問う言葉は発せられない。
そのまま紅茶を乗せたワゴンがテーブルの横につけられ、女がポットやカップをそこに用意しはじめる。女の両手が塞がっているその瞬間――――。
クラリッサは女のふところに飛びつくようなかたちで体当たりし、ポケットからナイフを取り出す。もつれ合いながらテラスの段から落ちる。
『なめないで!』
クラリッサは護衛として控えていたブリュノの足もとへ取り上げたナイフを投げる。女が馬乗りになってクラリッサの首を圧迫する。
『死ねっ!』
身体は思うように動かないというのに、息苦しさだけは現実のように感じる。すぐにマティアスが駆けよって、女をクラリッサから引きはがす。
『ゴホッ! ブリュノ、まだ持ってる! 気をつけて』
『ああ、わかってる! しゃーねーな……』
マティアスとほぼ同時に動いたブリュノが、女と対峙する。
女がスカートの下に隠した小さめのナイフを手に持ち、ブリュノは抜刀してそれを迎え撃つ。
勝敗は一瞬で決まる。ブリュノのつぶやきは明らかに敵意を持っている相手であっても、女性を害することに抵抗があったからだろう。
うつぶせに倒れた女の下に真っ赤な血が広がっていく。
(わたし、マティアスを守れたの……?)
二度目の夢も悪夢だった。でも、マティアスを守れたことにクラリッサの気持ちは奇妙に高揚していた。




