戴冠式と誓約編3
公爵邸の住人はマティアスとクラリッサ、そしてイルマシェの三人。ロイやブリュノはそれぞれ軍の官舎に住んでいて、マティアスの護衛として頻繁に屋敷に出入りしているとのことだ。マティアスの従者だったアランは家を継ぐために伯爵家に戻ったが、時々公爵家にやってきてはロイやブリュノに小言を言っているらしい。
「アラン様とブリュノは犬猿の仲ですよ、本当に」
「ああいうのを、小姑って言うんだ!」
公爵邸での初めての晩餐の席、クラリッサの親しい者だけが集まり、ささやかに披かれた宴。ロイとブリュノがこれまでにあったことをクラリッサに教えてくれる。
「そうなの? あの方とは二度しか話したことがないけれど、まぁ……なんとなく想像ができるわね」
ブリュノがマティアスに対し、無礼な態度をとり続けていることがアランには許せないのだろう。
「そうは言うけど、ブリュノだって時と場所を選んでいるから、私はそんなに心配していないけど」
元王子で、現在は貴族の最高位である公爵という立場になっても、マティアスに偉そうなところは少しもない。
「ほら、主様のお墨付きだからな!」
「え、でも、ブリュノの敬語って『マティアスサマァ、ここにサインもらっていいっスかね?』ってかんじで、まったく敬意を感じられないんですよね。だからアラン様に怒られるんですよ」
ロイがブリュノの真似をして、皆が笑う。
クラリッサが神殿で暮らした三年間は、彼女にとってつらい思い出が多く、彼らには話すことができない。でも彼らの話を聞いて、一緒にいられなかった時間を埋められることを、彼女は嬉しいと感じた。
そしていつか、つらかったことすら思い出になって、マティアスたちに話せるようになれば――――クラリッサはそう思った。
***
公爵邸での初めての夜が更けていく。身を清め、用意された夜着とローブを身につけたクラリッサは、とにかく緊張していた。
クラリッサに与えられた部屋にはベッドがない。続き部屋になっている寝室は夫婦のものだ。
彼女付きの使用人たちは、湯浴みや着替えの手伝いをしたあとに、ハーブティーを用意してから去ってしまった。
クラリッサは夫婦の部屋のソファでハーブティーを飲みながら、夫がくるのを待つしかない。
大きく深呼吸しても、緊張はほぐれず、楽しいはずの本を読んでも、一ページも読み進めることができず、クラリッサは途方に暮れる。
今夜がどういう日か、彼女は正しく理解している。神殿ではそういったことをまったく教えてくれなかったが、彼女が育ったのは貧民街だ。どこぞのご令嬢とは比べものにならないほど、そういうことについての知識はあった。
「クラリッサ、入ってもいい?」
「は、はい。ど、どうぞ」
マティアスが来る前から、速い鼓動を刻んでいた心臓の音は、もっともっと速く刻めるのだと主張してくる。顔が上気し、声が裏返る。
夫婦の部屋に入ってきたマティアスが、クラリッサの様子を見てほほえむ。
マティアスの余裕のありそうな表情が、今のクラリッサには少し不安だ。三年という月日は、彼を大人の男性にしてしまったのだと思い知らされるから。
「クラリッサ……、クー」
マティアスは普段“クラリッサ”と呼び、甘い言葉をささやくときだけ“クー”と呼ぶことにしたようだ。
『クー……なに?』
『ただのクー。ずっとそう呼ばれてるから』
はじめて会った日のことをクラリッサは思い出す。マティアスは野良犬だったクーのことをなかったことにはしない。だからといって、クラリッサという名前で過ごした三年間も否定しない。そういう優しさが伝わってくる。だから、クラリッサも彼の知らない部分を受け入れたいと強く願った。
クラリッサは、隣に座るマティアスに自分から抱きついてみる。ひどく恥ずかしいことをしている自覚があるので、強く彼の胸に顔をうずめて、見られないようにする。
「震えているよ」
マティアスがクラリッサの頭をなで、まだ少しだけ濡れている髪に触れる。
「き、緊張して、だから」
「ううん。それもあるのかもしれないけど、クーは私のことが少し怖いんだよね?」
「そんなこと、ない」
そんなことない、というのは強がりだ。クラリッサが大好きだった男の子は、彼女が守ってあげたいと感じるほど、頼りない少年だった。今のマティアスにある、すべてを包み込むような、それでいて手中に収めたものを絶対に離さないような力強さ。そんなものは持っていない優しい少年だった。
「いいんだよ。……昔とは違うって自覚はあるから。だからクーが怖いのなら――――」
「いや! 私、怖くなんてない」
怖さや不安はある。でも、決してマティアスが嫌なわけではない。
「違うよ。ほんの少し、延期してあげようかなってだけ。今夜はこうしているだけでも、いいと思ってる」
マティアスはクラリッサを閉じ込めるように、強く抱きしめる。
「こうしているだけでも、十分に満たされるよ」
変わってしまった、とマティアスは言う。けれどやはり最後の最後で、クラリッサに逃げ道を用意してくれている。優しい彼のままだった。
「正直、私は困ってるんだ。君は王命で結婚する相手で、愛する人でもあるからどうしたらいいのか……。貴族としてするべきことと、君の気持ちを優先したい気持ちと、どっちをとればいいかなって」
「あのね、私、怖い気持ちはあるけれど、嫌じゃないの……。マティアスが大好きだから、今がいい……。今夜がいいの」
クラリッサの中に不安はある。でも、変わってしまったマティアスを愛せないかもしれないという不安はまったくない。
今まで、覚悟のないままに人生が変わってしまったことが何度もあった。だから、クラリッサは時が流れることも怖かった。必ず明日も変わらない日常があり、マティアスと引き離されることなどないという保証は、どこにもない。
「クー、ありがとう。僕も大好きだよ」
マティアスはクラリッサを抱き上げて、大きなベッドの上に座らせる。
まぶたや頬、そしてくちびるに優しく触れ、くちづけをする。それが徐々に深く、はげしくなり、クラリッサは自然とシーツに身を沈めるかたちになる。
「まって、そこは……」
クラリッサが身をこわばらせて、マティアスを押しのけようとする。彼が触れたのは彼女の左足だった。
クラリッサの左足、それに腕には傷がある。聖女選定の日に負ったもの、いつわりの神託で恨みを持つ者に襲われたときのもの、彼女の身体は美しいとは言えない。あまり肌を露出しないから、彼女自身もそこまで気にしていなかった。
マティアスがクラリッサの夜着を乱し、素肌に触れる。彼女はそこではじめて、傷のことが気になりだした。
彼はクラリッサのすべてを暴くように、綺麗な部分も汚い部分もすべて知りたがり、彼女を翻弄する。
「大丈夫だよ、クー。すべてを見せて、僕を受け入れて……」
低く、優しい声でマティアスがささやく。
彼女が身をこわばらせるたびに、耳元で甘く名前がささやかれる。力を抜かなきゃいけないとわかっていても、クラリッサにはうまくできない。
彼女に唯一できたことは、マティアスの首のうしろに回した腕を、しっかりと離さないでいることだけだった。
『私にとって、この日がそれまでの人生の中で一番幸せな日だったのかも知れない。この日ではないのだとしたら、マティアスに想いを告げた日だろうか。どちらにしてもマティアスが私の幸せそのものなのだ。想いを告げた日は、純粋に、貪欲に、幸せだけを感じていた。はじめて結ばれたこの夜は、信じられないほど心が満たされ、でも頭の片隅には罪の意識があった。いつわりの神託のこと、いつわりの聖女のこと、私の存在がいつか大切な人を危険にさらすかもしれないということ。もう純粋な幸せだけを感じていたくても、できない。それが大人になるということなら、このときの私は大人だった。――――そして、私はこの日から数日後、はじめてふたつの未来を夢にみたのだ』
第一章完結です。
第二章「はじまりの夢編」予告
公爵邸で幸せな日々を送るクラリッサ。一方的に守られている立場から、マティアスのためになにかをしたいと模索中。ある夜、マティアスが敵に襲われて死んでしまう夢をみる。ただの悪夢、そう思っていたけれど……。
ストック作成のため、一週間ほどお休みさせてください。
今7話まで書きあがっています!




