切り札と山百合編4
マティアスは軍の執務室で老神官からの手紙を読んでいた。その傍らには二人の青年が同席している。
「食事はするようになったみたいだね。でも……私のしたことは、彼女をよけいに苦しめるだけなんだろう」
彼女が食事をしないという連絡を受けたマティアスは、すぐに乳母に焼き菓子を作らせ、山百合の花を用意した。それを渡せば、マティアスが近くにいることを彼女は知ってしまう。渡して、彼女がどう思うか、マティアスにはわからなかった。
足の怪我、そして死を選びたくなるほどの過酷な状況に追い込んだきっかけは、間違いなくマティアスにある。そんな彼に励まされても彼女がよろこぶとは限らない。だが、なにもせずにはいられなかったのだ。
「もう聖女がジェレマイアの妃にはならない、というのはほぼ決定しているし。……あと半年で間違いなく彼女を救い出せるというのに……まだ、届かないのか」
クラリッサの身の安全――――彼女をジェレマイアの妃にしない方法ばかりを考えて、心までは守ってやれていない。そのことがマティアスにはひどくもどかしく、腹立たしい。
「おい、マティアス。他にはなんて書いてあったんだ?」
同席している褐色の肌に黒髪の青年、ブリュノがたずねる。
「ちょっと、もう二年になるんだから、いい加減、言葉遣いは直しましょうよ!」
もう一人……灰色の髪の細身の青年、ロイがあわてる。二人とも、一般兵の軍服に身を包んでいる。
「誰もいないときはべつにいいよ。……アランがいたら怒りそうだけど、ブリュノだってそこはうまくやっているんだから」
二人は二年前、クィルター伯爵の遠縁、下級貴族の養子ということにして軍に入隊した。カークという姓を名乗り、いちおうブリュノが兄、ロイが弟ということになっている。
長身でたくましい体つきのブリュノは隣に立っているだけで、護衛としての役割をはたせるほどの存在感。ロイは事務仕事の補助員としては非常に有能だった。
「殿下、クーの様子はほかになんと書いてありましたか? 殿下のことを、その……」
「……私のせいだと思ったことなど一度もないから、忘れて自由に生きてほしい、と……」
「忘れろ? ……きついな、それ。まぁ、あいつらしいけど」
忘れろ、という彼女の言葉は、マティアスのこの二年の行動を否定することにつながる。だからブリュノの言うとおりマティアスにとっては残酷な言葉だ。
一方で、クラリッサがあまり変わっていないことに、マティアスは安堵する。
二年半前、手紙で別れを告げたとき、彼女はアランになにも言わなかった。気にしていない風を装っていたとアランは言っていた。本当はどしゃ降りの雨に一人で打たれながら、泣いていたはずなのに。
だから、老神官からの手紙に書かれていたクラリッサの言葉を、マティアスは信じない。手紙から伝わるのは、今でもマティアスのことを気にかけている、ということだけだ。仲間を大事にする彼女の性格から考えれば、助けて欲しいと思っていても、それによって誰かが危険な目に遭うのなら、絶対に助けて欲しいとは言わない。だから、マティアスは彼自身のしたいことに誠実であろうと思うのだ。
「クーがなんて言っても、私はクーを直接守れる立場になるよ。……彼女が嫌がっても、愛されなくても、ね……」
クラリッサ……クーが好きだったマティアスという少年は、今はもうどこにもいないのかもしれない。青年と呼ばれる歳になったマティアスは、自分にとって都合のいい噂を広め、異母弟を出し抜こうとするずるい人間なのだ。あの頃の純粋さや素直さはもうどこかに行ってしまった。
「なぁ、クーが王太子サマの婚約者じゃなくなるってのはわかるんだけど、なんでマティアスの嫁になるってわかるんだ?」
「私が、反王妃派……つまり反ディストラ派の貴族と結びついたらまずいっていうのはわかるよね?」
「まぁな」
「クーが未婚のまま神殿にこもっていると、ジェレマイアと会いづらくなるでしょう? 彼はいつまでも妃を取らないわけにはいかないんだから、未婚の聖女と二人きりになることが立場上難しくなる。そうしたら、聖女は王家よりも神殿側に近い存在になってしまうと思う。王家側はそれを望まない」
クラリッサが臣としてジェレマイアに仕えるのならば“聖女”という身分ではなく、王宮で通用するなにかが必要だ。今まではそれが“王妃”だった。
簡単に考えられるのが、身分の高い者との婚姻。だが、王家としては、諸刃の剣のような聖女という存在を、いつ背くかわからない高位貴族に預けるわけにはいかない。
「王族で、後ろ盾ナシのマティアスに適当な身分を与えて、クーとくっつけとけば、王家はいざというときにクーを使えるってことだな」
ブリュノがぽんっと手を打って納得の表情を浮かべる。
「そうだね。クーは孤児だから、私が婚姻によってなんらかの力を手に入れることを防げるし、クーが神殿やほかの貴族と結びつくことも防げる」
それまでのマティアスはとにかく目立たないことだけを考えて生きてきた。クラリッサと離ればなれになって以降、マティアスは“無能”という印象を払拭するように振る舞っている。
理由はおもに二つあって、一つは国の中枢にいる者たちに「放置しておくのは危険な存在だ」と印象づけること。もう一つは、うまくクラリッサを取り戻したときに、少しでも彼女を守れる力を手に入れておく必要があったからだ。
それは同時に、マティアスがジェレマイアに取って代わる可能性があると周囲に思わせてしまう、危険な行為だ。
どうやっても、彼女を完璧に守ることなどできはしない。それでも、マティアスは限定的な力でもいいから、彼女を守れる力を欲した。
「あと、少しなのに……」
死を選ぶほどの苦痛を彼女に味合わせた状況のまま、まだ手が届かない。また、なにもできなかった。あせってもなにもならないと知っているのに、マティアスの心はクラリッサのほうへ行きたがる。
その時、執務室の扉がノックされ、少しあせった様子の軍人が入室してきた。
「王子殿下! 失礼いたします」
「ヘンリット副師団長、なにかあったの?」
副師団長、アイヴァン・ヘンリットは口ひげをはやした四十代半ばの男で、マティアスの指導役をしている。
一般兵のブリュノとロイは襟を正して敬礼する。
二人の敬礼に軽く応えたあと、ヘンリットはさっそく本題に入る。
「七番街およびその周辺の番外地区で火災発生、我が師団の中から部隊を編成し、消火部隊の援護および、取り残された者の救助を行うよう、王命が下りました」
ヘンリットがマティアスに差し出したものは命令書だった。
「番外地区……? 野良犬の巣!?」
ヘンリットがもたらしたのは、ブリュノとロイ、そしてクラリッサの育った場所が燃えているという情報だった。




