切り札と山百合編3
最奥の宮に連れ戻されたクラリッサには、常時二人の女官がついて、寝ている時間ですら監視されるようになっていた。
「聖女様、なにかお召し上がりください!」
アーシェラがめずらしく強い口調で言う。お盆に野菜のスープ、果実水を乗せて、それをクラリッサのベッドまで運んできたところだ。クラリッサは二日間、食事を拒否している。
「食べたくない……。ごめんね、アーシェ」
ベッドの中で布団にくるまったクラリッサは頑なだった。
「お願いです、せめてお飲み物だけでも」
「ごめんね……」
アーシェラ以外の女官の言葉は徹底的に無視し、アーシェラにも謝罪と拒絶をくり返すだけ。老神官が面会に来ても、寝室から出ない。クラリッサはとにかくすべてを拒んで、終わりにしようとしているのだ。
「聖女」
ジェレマイアの声がしても、彼女は布団の中から出てこない。もう女官たちの見ている前でジェレマイアに対し不敬なことをしても、咎める者はいなくなっていた。
「そのままでいいから聞いてくれ。……今から特別にイルマシェ殿を部屋に入れる。……アーシェラ・サーヴィスだったな? その者以外は下がらせるから話をするんだ」
寝室から出なければ、老神官と会うことはない。そう思っていたクラリッサは少し考えが甘かった。とにかく老神官には会いたくなかったのだ。彼に悲しい顔をされたら、きっとクラリッサの決意は揺らぐはずだから。
「おじいさまを巻き込まないで、前に約束したのに……」
小さなつぶやきをジェレマイアが無視し、しばらくすると彼が退室した扉の閉まる音だけが響く。
入れ替わるように、老神官が入ってきて、ベッドの横に用意された椅子に腰を下ろす。
「クーや……」
老神官は“聖女殿”ではなく“クー”と呼びかける。
ベールすらつけていない状態で、老神官に会うのは二年半ぶりだ。久しぶりにはっきりと見えるその顔は以前よりも皺が増え、やつれている。クラリッサの心は彼の顔を見るだけで、罪悪感で痛む。
「じいちゃん、もう疲れちゃったの。やりたくないことばっかりで、とってもつらいんだ。……べつに神様に罰を下されてもかまわないから、私のすることを、止めないで」
「かわいそうにのう。……わしはクーの枷になっただけで、助けにはならんかった」
老神官は目尻にたくさんの皺をつくり、必死に涙をこらえている。
「そんなことないよ、アーシェラとじいちゃんがいてくれたから……わた、し」
「酷なことをしておるとわかっているつもりじゃ……。わしはひどく卑怯な人間じゃな」
そう言って老神官がクラリッサに差し出したのは、山百合の花束。寝込んでいるクラリッサに花を持ってくることはおかしな話ではない。だが、彼はここでもクラリッサが特別に思っている花を選んだ。
「じいちゃん? なに、これ?」
「マティアス殿をおぼえておるか?」
「忘れるわけないよ! だって、だって、マティアスは私の……」
どくんとクラリッサの心臓が大きく音をたてる。その少年の名前は、きっとクラリッサが今、一番聞きたくない名前だった。
「約束を違えたことをひどく悔やんでおった。足の怪我のことも、聖女に選ばれたことも、すべて自分のせいだと言っておった」
「違う! 私、そんなこと思ってないよ。そんなのマティアスがどうにかできることじゃない。私が勝手に見晴台に行って、勝手に落ちただけでしょ?」
「彼はそう思っておらん」
クラリッサは聖女に選ばれたことが、マティアスのせいだなどと考えたことすらない。
「ブリュノに祭りを見に行こうって誘われて断ったのも、雨が降ってきたのに早く帰らなかったのも、私が決めたことだよ? なんでマティアスが、そんなふうに思うの……?」
「それでも……彼はひどく、落ち込んでおった。……もし、おぬしになにかあれば、あるいは……」
あるいは、責任を感じて彼も死を選ぶかもしれない。老神官の言葉の続きを想像して、クラリッサはぞっとした。
「マティアスは、どこまで知ってるの!?」
「聖女に選ばれた頃からすべてじゃ。足のことも、神託のことも、おぬしが塔でしようとしたことも、昨日まったく食事を口にしなかったことも、わしが伝えた」
知られていた。その事実はクラリッサにとって衝撃だった。二度と会うことのない少年には、せめていい思い出だけ残しておきたかったのだ。聖女のことだけではなく、昨日のことまで知られている。その事実に彼女はひどく動揺する。
彼が感じなくてもいい責任を感じてしまうくらいなら、クラリッサの教義に反する行動を軽蔑されたほうがよほどマシだ。
老神官はクラリッサの膝の上あたり、布団の上に小さなふた付きの籠を乗せる。
「……これ、お菓子」
かごの中には焼き菓子のようなものが入っている。一つはナッツがたくさん入ったもの、もう一つは上に栗のグラッセのようなものがまるごとのっているもの。
それはマティアスと出会った日に、半分にわけて食べたもの。マティアスの乳母が作ったという菓子とそっくりだった。そして、栗のグラッセはかつて「食べてみたい」とクラリッサが彼に話したもの。マティアスとクーしか知らないものが並べられ、老神官の話が嘘ではないと証明される。
「食べてやらんのか?」
「じいちゃん、ずるいよ。……ずるいよ! 私に、マティアスが悲しむから、死ぬなって言いたいの!? ひどいよ!」
「そうじゃ。……わしは卑怯なことをしても、娘には、先にいって、……ほしくない……。すまんの、クー。すまんの……」
「じいちゃん……」
しわしわの手がクラリッサの手を取り、その上には大粒の涙が落とされる。老神官の泣いている姿を見て、クラリッサも一緒に泣く。
なに一つ、クラリッサを取り巻く状況がよくなったわけではない。それでも、目の前の老神官、そしてマティアスを絶望させることが彼女にはどうしてもできなかった。
「じいちゃん、マティアスに伝えてくれる? 私は、マティアスのせいだなんて思ってない。だから忘れて、気にしないでいい……そう伝えてくれる? ちゃんとご飯食べるし、もうあんなことしないから。私、大好きな人まで不幸にしたくないんだよ。苦しくて、逃げたくて、すぐ近くにいる人の気持ち、考えてあげられなくなって……ごめんね」
老神官を安心させるために、クラリッサは焼き菓子を一口食べてみせる。甘さとなつかしさで胸がつまり、うまく飲み込めない。クラリッサは泣きながら時間をかけて、それを食べた。
聖女の自殺未遂という衝撃的な出来事は、秘匿され、一部の人間しかしらないことだ。それでも、国の中枢にいる者たちへの牽制にはなった。
野良犬の巣を取り壊し、新しい神殿を建てるという神託は出されることのないまま、うやむやになった。
ところが――――。




