いつわりの神託編2
最奥の宮の中庭、高い塀の近くに、まっすぐに茎を伸ばすもの。クラリッサが散歩中に見つけて、女官たちに抜かないように命じておいたそれは、山百合だ。
温かい季節となり、見るたびに背を高くするその野花には、四つの青く細長いつぼみが育っている。
人が水をあげなくても、手入れをしなくても、力強く育つ山百合の花。散歩中にその成長を観察するのがクラリッサの日課の一つになっている。
「もうすぐ花が咲くかしら?」
「きっと、あと数日もすれば咲きますよ。楽しみですね、聖女様」
膝を超える程度の高さに育った花を、クラリッサは少しだけかがんでよく観察する。あまり花に詳しくない彼女には、細かい品種の差がわからない。彼女がよく行った高台に自生していた山百合の花は、中央部分だけが黄色で赤い斑点のある種類だった。
クラリッサの目の前にぽつりと一つだけ育つ山百合も、同じ色の花をつけるのだろうか。まだ青く固いつぼみから、彼女がそれを知ることはできない。
もっとよく見ようと、つぼみに顔を近づけたとき、クラリッサはバランスをくずしてよろけてしまう。
「聖女様!?」
アーシェラが慌てて手を伸ばすが、クラリッサはその前に杖を支えにして立て直す。
「大丈夫。かがむ姿勢が一番苦手かもしれないわ」
左足の感覚が鈍く、うまく動かせないクラリッサは、同じ姿勢を維持することが難しい。かがむのは苦手で、そこからさらにしゃがもうとすると、すぐにお尻をついてしまう。
左足が今よりよくなることは、ないのかもしれない。けれど、健康な右足を鍛えて、杖の使い方をもっと考えれば、今より自然に動けるようになるとのことだった。
もともと身体能力は高いし身軽なのだから、希望はある。昔のように走ったり、木に登ったりは当然できないが、今の聖女という立場ではどちらにしてもそんなお転婆はできなかった。
「お椅子をお持ちいたしましょうか」
「いいの、まだ咲いていないのだから、咲いてからゆっくり見るつもり」
「花が咲いたら、花瓶を用意してお部屋に飾りましょう」
「そうね、そうしましょう。……ああ、でも種になるまでとらずにいれば、来年はもっと増えるかもしれないわ。そうしたら、とても綺麗だと思う」
力強く根をはる山百合を切ってしまうのは、少しもったいない。大神殿の中も、クラリッサの住む最奥の宮も、季節をとわず綺麗な花がたくさん生けられている。だから、ひっそりと庭の隅に根づくこの花まで手折る必要はなく、そのまま咲いているほうがいいのかもしれないと彼女は思う。
「聖女様は百合の花がお好きなんですね。……そういえば杖の持ち手にも百合が」
アーシェラはクラリッサの持つ白い杖に視線を動かす。持ち手の部分には滑り止めをかねた繊細な彫刻がされている。
「そうね。おじいさまがくださったものだから、私の好きな花を……あれ?」
「どうかされましたか?」
「おじいさまはなぜ私の好きな花を知っていたのかな、と思って。そんな話をしたことがあったかしら?」
マティアスと一緒に高台に行った日、あのときはたまたま山百合の花が咲く季節だった。花を買うお金のなかったクラリッサたちが、古き神殿に供えていたのはその季節に咲く野花。とくに山百合が好きなわけではなかった。
「そういえば、私はべつに百合の花が好きなわけじゃなかったみたい」
「みたい、ですか? ご自身のことですのに……?」
「花のことなんて、今まで気にしたことなかったの。花が嫌いなわけじゃなくて、花は好きだけど愛でる習慣がなかったというか……」
クラリッサが山百合の花を気にするようになったのは、聖女になってからだ。老神官から杖をもらったときに、心があたたかく、せつない気持ちになったから。
山百合の花を見て思い出すのはマティアスのこと。綺麗な亜麻色の髪を帽子に隠した少年の笑顔だ。彼が花を落としそうになりながら抱えていた思い出。
(真っ赤な顔で私の手を握ってたっけ……)
あの日から、二人の関係は少しずつ変わっていった。マティアスのほうから彼女の手を握ったことがきっかけになったのだ。
クラリッサにとって山百合の花はやはり特別だった。
マティアスはどうしているのだろうか。貴族であることは間違いないのだから、いつか会えるかもしれない。最初のうち、クラリッサはそんな期待を抱いていた。
けれど、人前に出るときはいつもベールで顔を隠し、ぼんやりとしか人の姿を見ることができない。これではすれ違っても互いに気がつかないだろう。
それに聖女はあらかじめ決められた人物としか、話してはならないことになっている。妾の子でむずかしい立場だというマティアスが、聖女と直接話をする機会などないだろう。
クラリッサにとって、マティアスとの距離は近いようで、野良犬だったときよりもさらに遠くなった。
「おじいさまは、知っていて用意してくれたわけじゃないんだろうな。もしかしたら、おじいさまの好きな花なのかもしれない」
こういった杖はおもに高齢の紳士が使うものだ。わりと小柄なクラリッサに合わせ、かつ女性らしい彫刻が彫られている杖は、特注品のはずだった。この国の聖職者は結婚できない。子供や孫どころか、恋人がいたかすらあやしい老神官が作らせたものにしては、趣味がいい。
「イルマシェ様の……?」
アーシェラは顔を引きつらせた。老神官が百合の花を愛でている姿を想像したのだ。マティアスのような繊細な美少年ならともかく、頭のつるっとした老神官が花を大切に抱えている様子は、クラリッサもあまりみたいと思わない。
「もう! アーシェラったら、おじいさまが花を愛でていたっていいじゃない!」
大きな声で笑うと、また教育係がとんできて、お説教の時間になるかもしれない。それでも彼女はつるっとした頭の老神官が花を見てうっとりしている様子を想像して、声を出して笑った。




