神託の行方編1
マティアスは一人残った神殿で、建国王ベリザリオの壁画の前に立つ。たくましく、迷いのない瞳で民衆を導き、国のかたちを創りあげたはずの初代国王。
クーは壁画に描かれた人物とマティアスが似ていると言っていたが、おそらく髪と瞳の色以外は、なんの共通点もないのだろう。マティアスは強く拳を握りしめる。
『兄上は意外と潔癖なんですね。……建国王ベリザリオと導きの聖女フィオレーナの子孫である私に、ネオロノーク神はきっと望む乙女を与えてくださるに決まっているでしょう?』
異母弟が聖女を選ぶのだと嬉しそうに話していたことを思い出していた。建国王の子孫であるというのなら、マティアスも同じだ。母の生家であるクィルター伯爵家は遠い昔に王族が降嫁したこともあるのだから、異母弟よりも濃くその血を引いているはず。
だというのに、伴侶どころか、自分の将来すら決められない。
「なぜ神は、僕にはなにもお与えくださらないのでしょう? それほどまでに父上と母上のしたことは許されないことなのでしょうか?」
なにも与えてもらえない、というのは嘘だ。異母弟と比べて自由がないというだけで、食べるものや住む場所に困ったことはない。そういう基準では彼は恵まれている。
それでも、与えられた身分に伴って本来あるべき義務も責任も自由も、なに一つ手にできないことは、彼にとってただ苦痛なだけだった。
「望んだだけで与えられるのであれば、僕はあの子を望みます。……どうせ叶わないことでしょうけど」
自嘲気味につぶやいたあと、マティアスは握りしめる手の力をさらに強める。そんなことをしても現実が変わることなどないのに。
琥珀色の瞳を潤ませて、必死に笑おうとしていた少女の姿が、マティアスの頭から離れない。ブリュノの言うように、二人のしていることは別れをよりつらくするだけの、意味のない行為なのだ。
ともに歩むつもりがないとはっきり告げたのに、それでも好きだと言って彼女を縛るのはひどく卑怯だった。
「どのみち、僕は彼女を幸せになどできないのに馬鹿げている」
きっともうマティアスがこの場所を訪れることなどないのだろう。そう思いながら、彼は古き神殿をあとにした。
***
王宮で一番大きな建物は、政に関わる者たちが執務をおこなう部屋のほか、公式行事で使われる大小の広間、謁見の間などがある公の場だ。そこから少し奥まった場所に、回廊でつながれた王族の私的な建物がある。リンデン宮と呼ばれている建物だ。マティアスの私室もその中にある。
マティアスは気分転換に外の空気でも吸おうと、中庭へ向かう。季節ごとに植え替えられている花壇には、小さな冬の花がにぎやかに咲いている。それを見ながら東屋で本を広げる。
天気のよい日中ならば、と思っていたマティアスだが冬の東屋は読書をするには寒すぎた。
「兄上、こちらでしたか。この寒空の下でなにをお読みになっていらっしゃるのですか?」
「ああ、聖典だよ。もうすぐ聖女選定の日だからなんとなくね。それに、僕は将来神官になるかもしれないでしょ? だから学んでおかなくてはならないと思って」
「勉強熱心でよいことだと思いますよ。……正直、遊んでばかりいらっしゃるのだと思い、心配しておりました」
「……心配をかけてすまない」
クーと会っていたのは遊びかもしれないが、それ以外の日もクィルター伯爵に頼んで教師を呼び、伯爵邸でこっそり勉学に励んでいた。
ジェレマイアからすれば、毎日王宮を抜け出している放蕩王子なのだろう。だが、彼の言葉を否定するわけにもいかず、マティアスは心にもない謝罪でごまかす。
「ねぇ、兄上。聖典の三章、気になる文章があるんですよ」
ジェレマイアは東屋のテーブルの上に置いてあった聖典をペラペラとめくる。
「ほらここ『再び乱れしとき、国を治めし覇王の直系、王となるべくして生まれた長子に加護を与え、ネオロノークが導となりし乙女を遣わす』ってあるでしょう?」
聖典の原文は現在のレドナーク語とは違う、古語で書かれている。ジェレマイアはすらすらと古い言葉で書かれた文章を訳しながら読み上げる。
「“王となるべくして”と“長子”ってあるでしょう? もう、そのことで半日も議論ですよ。本当に困りました」
つまり、王となるべくして生まれた王子が、現国王の長子ではないから、解釈でもめたということだ。
「でもね、そもそも長子だと姫も含まれますし、赤子のうちに亡くなってしまうこともめずらしくありません。実際に二百年ほど前に聖女を授けられた王は長子ではなかったとわかりまして」
「それは、大変だったね」
「本当に、父上や兄上の尻ぬぐいをするのも責務であると心得てはおりますが、あまり私や臣の仕事を増やさないでいただきたい」
ジェレマイアの視線はあきらかに異母兄を非難するものだった。父王の過ちによって、聖女選定に難癖をつけられたことに腹をたてているのだ。
親ディストラ派が政をほぼ掌握していると言っても、国は一枚岩ではない。
ディストラ出身の王妃にそっくりな容姿と、聖典に記された条件を満たしていないのではないかという懸念から、ジェレマイアの代での選定そのものを反対した者がいたのだろう。
「そうそう。その聖女なんですが、サリス侯爵家のマルヴィナ嬢に決まりました。私より二つ年下の十四歳ですから、三年後に十七歳。ちょうどいいでしょう?」
サリス侯爵家は親ディストラ派貴族の筆頭で、マティアスがそれについて驚くことはなかった。
「マルヴィナ嬢はとても賢いと評判の令嬢ですから、聖女……未来の王妃にふさわしい人物です」
ジェレマイアは異母兄に嫌みを言うときをのぞいて、あまり感情をおもてに出さない。それでも、妃の話をする彼の表情には、少しだけ感情が見え隠れする。彼は純粋に望む妃が手に入ることをよろこんでいるのだ。
「そう、おめでとう」
マティアスはいつもどおり無難な言葉を返す。彼の立場では、それ以外の反応はゆるされていない。物心ついたときからずっと、異母弟と争わないように、王妃の機嫌を損ねないように求められ、それに応えてきたのだ。
彼自身、そのことは習慣のようになっていて、今まで心が乱れることはなかった。だがジェレマイアが未来の妃を想って、少年らしくよろこぶのを見たマティアスの心中は、穏やかではない。
彼自身も驚くほど、心の中がどす黒く悪いものがうごめいているような気持ちになる。ジェレマイアに嫉妬しているのだ。
ジェレマイアの立場を羨み、そして自身の境遇を嘆くのはいつものことだ。それでもマティアスがこんな感情に支配されたのははじめてだ。
今まで自制できないほどの感情に支配されないために、最初からすべてをあきらめ、見ないようにしてきたのだ。
今のマティアスには、前よりも少しだけ外の世界が見える。もちろんすべてが見えるわけではないが、見えない場所になにかがあるということを、想像できるようになってしまった。それなのに、手の届く範囲は、一年前と少しも変わっていない。
それがひどく苦しい。だが再び目を閉じる方法は、彼には思いつかなかった。