野良犬の巣編12
「マティアス……」
立ち尽くしていたクーにマティアスが近づく。
「泣かせたのは、僕なんだね……? 本当にごめん。ブリュノも、ロイも」
「いや、その……、なんか悪ぃな」
ブリュノの謝罪は、こういったことに部外者が口をはさんだことへのものだろう。マティアスは小さく頷いたあと、ズボンのポケットから綺麗なハンカチを取り出して、クーの頬に優しくあてる。
「泣かないで」
今の彼女にとってマティアスの優しさは、もう心地のよいものではなくなっていた。だから差し出されたハンカチを奪い取るようにして自分でごしごしとこする。
「べつに、なんでもないから! それよりマティアスはなんで来たの? あぶないよ!」
虚勢をはっていないと、また涙がこぼれてしまいそうだ。
「君に話したいことがあって、どうしても話したくて」
「……わかった。じゃあ、ちょっと外に出ようよ」
いくら一年前と比べて、庶民にまぎれるのがうまくなったといっても、もともと治安の悪い地域だ。だから今までクーの案内なしで家までやってきたことはなかった。バザールの日なら五番街で会えるのに、その日まで待てないのだとしたらよほどのことなのだろう。
話を聞かれていても、いなくても、きっと今日が終わりの日だったのかもしれない。クーはそう考えながらマティアスの一歩先を歩く。
たどり着いた場所は、忘れられた古き神殿。マティアスがこの場所に来るのは二度目だった。
ギーと不快な音を立てながら重たい扉を開き、神殿の中へ入る。祭壇から離れたうしろの席に二人で並んで座る。明かり取りの窓から入り込む冬の日差しは弱く、神殿内は暗い。
「クーはこの場所が好きなんだね」
「べつに、そういうわけじゃないよ。ここは静かで二人きりになれるでしょう? こっそりつけてるマティアスの従者だって、ここまでは来ないしね」
「知ってたんだ?」
「私はともかく、ブリュノはそういうのにするどいから。敵じゃないってわかってるから、どうでもいいかなって」
彼の従者はここへは入ってこない、老神官も今はいないようだ。本当に二人きりになれる場所だった。
「本当に、ここは静かだね」
「…………」
「ねぇ、クー。僕はもう町へは行かない。……だから、クーとはもう会わない。ごめん」
マティアスは帽子を取り、迷いのない瞳で彼女に告げる。
「うん、わかった」
いつかこういう日が来るのなら、たいしたことではない、という態度で受け入れたいとクーは考えていた。マティアスは民や最下層のクーたちの生活を自分の目でみたいのだと話していた。彼女が案内できるのは王都のほんの一部だけ。最近のマティアスが、そういう目的で会いに来ているわけではないことは彼女も感じていた。
だから、なんでもないことのように笑顔で別れたい。そうするべきだと思うのに、いざその時をむかえるとクーの心がそれを拒否する。
「今日ね、ロイと甘い栗の話をしたんだ」
「栗?」
「そう、貴族が食べる栗は甘いって。ロイは食べたことがあるんだって」
突然出た栗の話に、マティアスは戸惑っているようだが、クーはかまわず話を続ける。
「私ね、ちょっと食べてみたいと思ったの。食べたことのあるロイがうらやましいって思ったの。でも……」
クーはマティアスの気持ちが知りたかった。だから彼の不思議な色の瞳をまっすぐに見る。
「知っていてもう手にできないのと、知らないままでいるのと、どっちが幸せなの? ……マティアスはどっち?」
クーは栗の話をしているわけではない。そのことはマティアスもわかっているようだった。
「僕は、知りたいと思う。だからそとに出たいと思った」
「私も、私も同じなの。もう一緒にいられないから、気持ちを伝えちゃいけないの? 一緒にいられる間だけ手をつないじゃいけないの? ブリュノは別れがつらくなるからやめろって言ってた。でも私はそんなのいやなの」
野良犬なんていつ死んでもおかしくないのだ。ほんの限られた瞬間だけ心が満たされていた経験は、その後の人生をよりつらいものにするのだろうか。クーにはとてもそうは思えない。
「私がしてほしいと思うことは、明日のマティアスを苦しめる? 忘れたいくらい嫌なものになるの? ……私は、私はっ!」
マティアスはクーの言葉をさえぎるように、彼女を自分の胸の中に閉じ込める。野良犬のクーとは違い、触れられる距離に入ると柔らかく甘い香りがする。外套越しに人のぬくもりは伝わらない。クーが温かいと感じるのは、少年の体温ではなく、抱きしめられたことで自身が発熱しているだけなのだろう。
「クー、僕は君のことが好きだよ。一緒にいるつもりがないのに、僕のほうが二つも年上なのに、無責任でひどいことをしているってわかってる。でも、クーが大好きだよ」
どくんどくんと鼓動が高鳴る。何か言葉を発したら、そこですべてが終わってしまう気がして、クーはただじっとしていた。
クーの真っ赤な髪を撫でていた少年の手が頬を伝い、顎にそえられる。少しだけ身体が離れてしまったことを残念に思いながら、彼女は少年の様子をうかがう。
紫を帯びた青い瞳は、いつもどおり優しい。そしてこの瞬間だけは自分のことだけを見て、自分のことだけを考えていてくれるのだとクーにはわかる。
ゆっくりとマティアスの瞳が近づいてきて、クーは自然に目を閉じる。マティアスの唇が触れたのは、クーの額だった。
マティアスらしいその行為をクーは少しだけ残念に思う。同時に心のどこかでほっとしていた。
口にした言葉だけが、クーの心をすべて表すものではない。今だけの関係を望んでいるのだと、それで後悔などしないのだと言っても、漠然とした不安はある。
この瞬間だけはすべてを忘れて幸せだけを感じていてもいいはずなのに、お互いそんなに器用なことはできないのだ。
ゆっくりと唇が離れ、クーが目を開くと泣きそうな彼の顔が目の前にある。うまく笑おうと思っても、できない。だからクーはもう一度マティアスに抱きついて、彼の顔を見ないようにする。
「五日後、一度だけ一緒にすごそうか? ……ちがう、そうじゃない。一緒にいたいんだ」
「五日後? 聖女様を選ぶ日でしょ? ……貴族ってひまなの?」
「僕は、跡継ぎではないから式典には出ないんだ。今まで一度も公の行事になんて出たことないし」
「わかった! 私、楽しみにしてるね? ねぇ、最後は楽しくすごそうよ! そういう情けない顔しないでよ、男の子なんだから」
「うん……練習してくる」
「私も」
向かい合ったまま、クーは両手を重ねて自身の胸の上にあてる。それは神に祈りを捧げる姿勢であり、約束を交わすときの姿勢でもある。
「主神と、国を守護したまうネオロノーク神に誓って」
「……主神と、ネオロノーク神に誓って」
それが、二人が交わした約束のなかで、最後になるはずの約束だった。
『この頃の私は、幸せな未来など夢にみたことすらなかった。幼稚で、愚かで、でもこの先に明るい未来などあり得ないのだとわかるくらいには大人だった。だから、自分の想いや欲望にとても素直な少女だったのだと思う。明日がわからないから、その時その時を大切にしたのだと思う。――――この頃の私には、自分の過ちが誰かの運命を変えてしまうことなんて想像もできなかった』