エピローグ
クーが目を覚ますと、古き神殿の壁画そのままの覇王が、彼女の手を握っている。亜麻色の髪、紫を帯びた青い瞳。彼が身にまとうマントは紫紺。マントの色は違うが、クーが想像していた覇王の姿がそこにある。
『誰? 誰、……建国王!?』
目が覚めたら、見知らぬ男性が手を握っていた。そんなことがあれば誰でも驚く。寝ぼけた頭で整理をしても、見知らぬ顔、見知らぬ部屋、ただ困惑するだけだ。
たしか、古き神殿の裏にある高台へ行くための階段から落ちたのだ。不思議なほど痛みは引いているが、クーの足には力が入らない。この人が助けてくれたのだろうか、そんなことをぼんやりと考える。
『おはよう。私は……僕は、マティアス……だよ』
『……え、ええっと、マティアス“様”ですか? あの、どうして私はここにいるんでしょうか?』
クーの寝かされている場所はありえないくらい豪華な寝台だ。半分だけめくられた天蓋の紗のそとに広がる部屋も豪華で、貴族の屋敷かなにかだとわかる。
だから、ここにいるマティアスという人物は貴族。クーは失礼のないように、敬語を使うことにした。知っている少年と同じ名前だし、瞳の色が同じ。成長したらこんなふうになるのかな、と思えるくらい容姿は似ている。
もしクーの知っているマティアスの兄だとしたら、同じ名前のはずはない。小汚い野良犬の手を握ったら、彼の手が穢れてしまいそう。それくらい輝いている青年の正体がわからず、クーは混乱する。
『君はクーだね?』
『はい、クーという名前です。あなた様は私のことを知っているのですか?』
誰から聞いたのだろうか。老神官の知り合いだろうか。わからないままできるだけ丁寧に、彼女は青年の言葉を肯定する。
『驚かせてしまうけれど、僕はマティアスだよ。さっき、名前を言ったでしょう?』
『へ……?』
まるで知り合いだとでも言うように、マティアスと名乗る青年がもう一度名前を告げる。彼女の知っているマティアスは、二つ年上の頼りない少年だけだ。
『君はどこまで覚えているのかな? まずはそれを教えてくれる? ……君は眠ってしまう直前、どこでなにをしていたの?』
マティアスの問いに、クーは意識を失う直前の記憶を正直に話す。話しているうちに、窓から差し込む光がとても強いことに気がついた。彼女が崖から転落したのは日暮れ直前の豪雨の中。いつのまにか激しい嵐は去っていた。いったい何時間眠っていたのだろうかと、冴えない頭で考える。
『そうか、聖女選定の日。……じゃあ、僕のことをすべて忘れてしまったわけではないんだね?』
そう言われても、クーにはこんなにきらきらした貴族の青年の知り合いなんていない。
『君は、聖女選定の日に大怪我をして……いろいろあって、もう四年以上経っているんだ。僕は君の知っているマティアスだよ。クー』
マティアスはクーの頬にそっと手をあてて、クーに正面を向かせる。彼女の知っている部分、少年時代から変わっていない瞳の色と髪の色……それくらいしか証明できるものがない。
『マティアス? 四年……?』
『急に言っても、混乱させるだけだね。でも、心配はいらない……僕が君のそばにずっといるから』
大人に見えるマティアスが、神秘的な瞳からぽろぽろと涙をこぼす。
『ど、どうしたんですか? 大丈夫ですか? ……え、えっと……どうしたの? 泣かないでマティアス。大人になったんでしょ? それなのに、おかしいよ』
クーは、大人のくせに頼りないその行動で、彼が本当にマティアスなのだと無理やり認識させられる。
四年間の記憶がないという自分自身に起こった出来事よりも、なによりもまず、目の前で涙を流すマティアスを、どうにかしたいと必死になる。
『あぁ、ごめん。……君が、君の目が覚めたことが嬉しくて』
大人になると、嬉しくても悲しそうな表情をするのだろうか。まだ子供のクーにはよくわからない。
『ごめんなさい。……全然思い出せないの。でもきっと大丈夫だよ! すぐに思い出すから、私! がんばるよ』
全てを忘れてしまったクーは、マティアスを励ますつもりで元気よくそう言う。
高貴な年上の青年にくだけた言葉で話すのは、クーにとって少し違和感がある。けれど、泣いている青年をとにかく安心させたくて、クーは普段通りに振る舞った。
みずから望んで記憶を手放したことも、決して戻らないことも、今の彼女は知らない。
マティアスだけが、それを知っている。
(――――あぁ、これで私、幸せになれるんだ。マティアスはきっと私を大事にしてくれる。でも……)
これはクラリッサがみている夢だった。夢の中のクーは、戸惑いながらも無邪気に笑っている。とても幸せな表情で。
『クラリッサ……』
夢の中で時が進む。今度は広い王宮の執務室のようだ。椅子に座ったマティアス。机の上にはクラリッサの日記帳と最後に送った手紙が置かれている。
(マティアス……)
クーの前では笑顔を見せていたマティアスは、一人で孤独に耐えている。何度も何度も日記を読み返し、耐えきれず嗚咽を漏らす。
『クラリッサ! すまなかった……すまなかった』
マティアスも覇王の力を知らなかった。知らないあいだにクラリッサを聖女に選んでしまったことを、一人で後悔しているのだ。謝罪することすら、許されずに。
(マティアス……マティアスにとってのクラリッサは、もう死んでしまったんだね?)
クーとクラリッサはマティアスの中ではもう別の人間なのだろう。クーというのは、マティアスが恋をした野良犬の少女。クラリッサは彼が愛した唯一の女性だ。
記憶を捨てたクーは、数年で消えたクラリッサと同じくらいに、心が成長するのかもしれない。けれどマティアスが愛したクラリッサは、突然望まれない聖女になって苦しみ、その後は予知夢と罪で手を汚し、それでもマティアスを守ろうと必死に生きてきた女性だ。
四年経っても六年経っても彼の想うクラリッサには戻らない。
(こんな、こんなこと望んでいないよ……!)
クラリッサの選びたい未来は、マティアスが彼自身の意志で選んできた四年の日々をすべて否定し、クーだけが幸せになる未来だ。
マティアスはクーをクラリッサとは別の感情で愛しむのだろう。娘か妹のように、愛しみながらこれからも妻として大切にしていくはずだ。
そして、なにも知らない少女に戻ったクーは、彼の親愛と愛の差に気づかず、幸せに暮らすのだ。
でも、そこに彼が愛したクラリッサはいない。
彼には乱れた国を元に戻す責任がある。愛する人の存在が消えても、どれだけ孤独でも、責任を放棄できない。
クーが笑うたび、きっと彼は苦しむのだ。彼が愛する人を幸せにしようとして選んできた道が、彼女を苦しませていたと。記憶を消し去りたいほど苦しめていたのだと。
クーが無邪気に笑うたび、消えたクラリッサを思い出すのだろう。
『ネオロノーク……』
ぼんやりとクラリッサの夢が終わりに近づく。けれど目が覚めるわけではなく、ネオロノークの支配する神の世界に入っただけ。
『今の夢は……?』
『我が呼んだのはたった今。そなたが夢を見ていたのなら、それはただの夢。我はいつわりをみせられない』
果てのない暗闇に、ふわふわと時のかけらがただよう世界。そこに変わらず、少年の姿の神が座っている。
『全てが終わった。ジェレマイア・ホレス・アスクウィスは死を選び、覇王が新たな王となった』
『死んで、しまった……そうなんだ……』
ジェレマイアはクラリッサを殺さなかった。そして、おそらくクラリッサのために、繰り返しを終わらせることを選んでくれた。
せっかく終われたというのに、クラリッサに喜ぶ気持ちはない。やりきれない想い、虚しさ。そして一つ前のジェレマイアの行動よりも、そちらのほうがよほど彼らしいと、妙に納得する気持ちだった。
『……願いは、決まったのか? どこまで記憶を戻す? 望みを、我に』
『まって。望みは、あなたにできることなら、なんでもいいのよね?』
『そうだ。だが、もう時を戻すことはできない。私の力は聖女を通してしか人の世に影響を与えられない。干渉できるのは、ここにいるそなたに対してのみ』
『人の世、そのものには干渉できない。……なら神の世は?』
『…………』
彼にしてはめずらしく、すぐに答えが返ってこない。
『願いがあればできる。役目を終えた聖女の願いを叶えることは、我に定められた規則。我は我自身の意志だけでは力が使えない。だが、そなたの願いならば……』
『あなたの時間を主神から命を与えられる前に戻せる?』
『…………我は父神から命じられていないことを思考しない。聖女の願いを叶えるために、今はじめてそれを考えている。…………答えは是だ。その命を与えられると、我は無となる。兄弟神と同じように』
『そう、じゃあ……私の願いは――――』
願いを口にした瞬間、人とは異なる存在、ネオロノークははじめて笑った。
***
目が覚めるとリンデン宮のマティアスの部屋だった。手を握っているのはマティアス。いったいどれほど長い時間、そうしていたのだろう。
「おはよう。私は……僕は、マティアス……だよ」
あれはただの夢で、予知夢ではない。けれど四年、過去のクラリッサたちが何万年もともに生きてきたマティアスの最初の言葉は、彼女の予想どおりの言葉だった。
記憶を失くしたかもしれないクラリッサを気遣って“僕”と言うマティアスの優しさが嬉しくて、クラリッサは笑う。それと一緒に涙があふれる。
「私は、クーだよ。……でも今は、クラリッサとも呼ばれているわ。あなたは二つの名前で私を呼んでいるでしょう? これからも……そう呼んでくれるでしょう?」
クラリッサの言葉にマティアスは目を見開き、しばらくそのまま彼女を見つめ続ける。
「……願わなかったの?」
マティアスはクラリッサの日記を読んで、予知の真相も、氷の聖女が記憶を失った理由も、すでに知っていた。そしてクラリッサも記憶を捨てると予想していたのだろう。
「だって、私だけ忘れて楽になったら、あなたに罪を全部押しつけて、あなただけが不幸になってしまうじゃない」
それはとても自分勝手な発想だ。誰かの命と引き替えにしてまで望んだマティアスの未来。彼を孤独にしないために、まだ生きていたい、忘れたくないと願ってしまった。
すべてが終わってクラリッサが思うのは、命を守ることだけでは意味がないということだ。王にするだけでも意味がない。クラリッサが一緒にいなければ、マティアスはどれだけ多くの人々から慕われていても、ずっと孤独なのだろう。
「クー、クラリッサ……!」
「泣かないでよ。きっと私たち、心から幸せにはなれない。なってはいけないと思うの。でも、一緒にいるよ。ずっと一緒にいる。それだけはできるから」
もし、クラリッサが全てを忘れた場合、本来二人で背負っていくはずの罪を、彼一人に背負わせることになる。罪の大きさは変わらない。それどころか、記憶を捨てたくなるほどクラリッサを追い詰めたのだと、彼は悩み苦しみ、余計に罪を重くする。
「私ね、ネオロノークに願ったの。ネオロノーク自身の時間を、役目を与えられる前に戻してって」
「ネオロノークの時間を……?」
「そう。人の世には、再び覇王が選ばれない限り干渉できないけれど、神の世界や彼自身に対しての制限はない。私の願いでネオロノークは消滅してしまったの。だから、次の聖女が選ばれることはもうないの」
国を守護する神の存在を消してしまった。もしかしたら、それこそクラリッサの一番の罪かもしれない。でもこれで、もう時に閉じ込められ何度も死んでいく聖女は生まれない。世界はもう、歩みを止めない。
「君は、私がなにを言っても罪の意識を抱え続けるんでしょう? ……私はもう、君を守って、幸せにするとは言えなくなってしまった」
それは二人とも同じだ。二人とも、人の理からはずれて、愛する人を苦しめたことを悔やみ続けるのだろう。
「……ただ、愛しているから。それはいつまでも変わらない。もう君に誓えることが、それしかないんだ」
マティアスはクラリッサを強く抱きしめた。マティアスにそうされると、あたたかくて確かに愛されているのだと感じる。けれど瞳を閉じると、必ず亡くなってしまった人たちの姿がクラリッサのまぶたの裏に浮かぶ。
あたたかくて、すごく苦しい。二人の愛は毒のようだとクラリッサは思う。そしてきっと、マティアスも同じ気持ちのはず。
きっと二人は、心から幸せにはなれない。苦しいままで、それでも一緒にいようと決めたのだ。
愛する気持ちも、罪の記憶も、忘れずにそのまま抱いて。
『これが、神様が創った理想郷の終焉です。私の選んだ未来は、間違ってももう取り返しがつかない、奇跡などどこにも存在しない世界。亡くなった人は生き返らず、私の罪も消えない。それでも、もがきながら、歩みを止めることのなくなったこの世界で、生きていこうと思う。――――大切な人と一緒に』
おわり