野良犬の巣編9
四人で神殿の建物から外に出ると、ちょうど正面から誰かが歩いてくるところだった。
「あ、神官のじいちゃんだ!」
剃髪しているのか、するまでもなくそうなのかは不明だが、つるっとした頭に白いひげをたくわえた痩せた人物は、クーたちがよく知っているイルマシェという名の老神官だ。
「おや、おまえたちか。……ん? はじめての者もおるな……」
「はじめまして神官様。僕はマティアスといいます」
「ずいぶんと礼儀正しい野良犬がいたもんじゃな」
少年は帽子を取ってから丁寧に頭をさげる。やはりこういうところが甘いとクーは思う。貴族によく見られる容姿だからといって、捨てられた庶子ということもあるのだし、それだけなら別にいい。丁寧な言葉遣いだけならロイだってそうだ。でもそれを組み合わせるのはどうかと思うのだ。
「この子は野良犬じゃないけど、私たちの友達なんだよ」
「この子って……僕は年上だって!」
「迂闊なマティアスは“この子”で十分だよ」
老神官に聞こえないくらいの声でそう言って、クーは不満そうにする少年を小馬鹿にする。
「ちょうどよかった。暇ならちょっと手を貸してくれんか? わしの住まいが最近雨漏りしての。それと上まで行って百合を何本か……祭壇に供える分が欲しいんじゃ」
老神官の足腰はしっかりしているが、さすがに屋根に上がるのは危険だし、見晴台まで行くのは疲れるらしい。
見晴台周辺には山百合の花が自生していて、暑い時期に沢山の花を咲かせるのだ。
「ああ、いいぜ。……クーとマティアスは上に行ってこい。どうせお前ら、大工仕事なんてできねぇだろ」
「わかった、まかせといて」
少年二人に大工仕事をまかせて、自分たちだけ遊びに行くようで少し気が引けるが、花を取ってくるという仕事をもらったクーは予定通り、王都を見渡せるその場所へマティアスを連れていくことにした。
***
神殿の敷地から出て、塀伝いに奥へ進むと、鬱蒼とした木々の隙間に、人の手で造られた階段が見える。雨に浸食されたり、多くの人が歩いたせいですり減っている階段。木で造られている手すりの部分はところどころ壊れていてかなり危険だ。
急な斜面を登れるように、ジグザグに設置された階段をクーが先導するようなかたちで進む。
中腹まで来ると、クーの息はすこしだけあがり、額に汗が浮かぶ。彼女がちらりと後ろを歩くマティアスを覗き見ると、意外なことに涼しい顔のままついてくる。クーにはそれが少し残念だ。
後ろばかり気にしていたせいか、クーが階段を踏み外してしまう。
「うわぁっ!」
足を滑らせて前のめりに倒れそうになったクーを、マティアスがあわてて支える。
後ろから抱えられるようにして起こされると、ほのかな花の香りがクーの鼻孔をくすぐる。
彼は出会ったときとは違い、町へ来るときには香油を使わないようにしている。それでも、すべてを消せるわけではないらしい。
「大丈夫?」
「う、うん……」
そう言って気遣うマティアスと視線が合うと、クーは涙が出そうなほど恥ずかしくなる。
彼の指導役のつもりが、逆に助けられてしまったからだろうか。そういう気持ちもあるが、大部分は違う。理解できないもやもやとした感覚と一緒に、心臓の音がうるさくなり、クーは耳まで真っ赤になった。
「どうしたの? 大丈夫?」
めずらしく黙っているクーに顔を近づけるマティアス。これ以上顔が近づいたら、クーは本当にどうにかなってしまいそうだった。だから、なんとか声を絞り出す。
「……離して」
「あ、ご、ごめん!」
視線をそらしたままクーが小さな声でつぶやくと、今度はマティアスのほうがあわてて真っ赤になる番だ。出会ったとき、女の子と手をつないだことがないと話していたのだから当然だろう。
「別にいいよ。……その、ありがと」
うつむいたままの状態で、クーは少年の少し先を歩く。互いに意識していることがまるわかりなのに、そのことを口にできないのは居心地が悪い。
当たり障りのない話題で、その場の雰囲気を変えることすらできない不器用な二人は、無言のまま見晴台をめざした。
高台の上は広場のようになっている。王都を望む方向には人の手で造られた見晴台が、頂上から少し突き出るような形状で造られている。
高台に立って最初に目に入るのは王都で一番大きな建物――――四本の塔と丸い屋根の真っ白な王宮、そしてその隣に寄り添うように建てられた大神殿だ。
「これが、レドナークなんだね……本当にここからは王都のすべてがよく見える。なんでこんな素敵な場所に誰も来ないの?」
「下の神殿も、ここも、建国当初の名もなき戦士、……えーれい? の眠っている場所だったらしいよ。神官のじいちゃんが言うには、その人たちに王都の繁栄を見せたいって意味でここにしたんだろうって」
神殿や高台へ上がる階段が設置された当時、国民は名もなき英霊たちに深く感謝し、国の繁栄をこれからも見守っていてほしいという思いで、当時としては立派な神殿を築いた。ときが流れるにつれて、戦士だけではなく、引き取り手のない死者をすべて受け入れるようになったことで、この場所は存在する意味を変えてしまったのだろう。
「今は左遷されたっぽいじいちゃんと、私たちくらいしか来ないんじゃない? 私たちはそのうちお世話になりそうだから……」
クーがここへ来るのは、仲間が眠る場所であるのと同時に、最後に自分がたどり着く場所かもしれないから。
遠い昔に亡くなった戦士のことは忘れ去られ、王都の民にとってはゴミ捨て場のようになってしまったこの場所。
マティアスは彼女の話を聞きながら、まっすぐ王宮を見つめている。
王宮の中央には、白い壁と相反する真紅の国旗が掲げられているのがはっきりと見える。旗の中央にはネオロノーク神と、古地図と同じこの国のかたちが金糸で描かれているはずだが、二人の視力ではそれは見えない。
「そういえば、ハール領がとられちゃったのに、あの旗はそのままだよね」
何度も繰り返されてきたヴェルダーシュ国との戦。一年ほど前に和平が結ばれた戦は、実質レドナークの敗北に終わった。国境にあるハール領は賠償としてヴェルダーシュ国のものになった。国のかたちは変わったのに、真紅の国旗はそのままだ。
「そうだね。これでもう、建国の歴史に残る五つの国は、すべて名前やかたちを変えたことになる」
「主神が覇王に与えたってやつ? 詳しくは知らないけど」
覇王の子孫とそれぞれの守護神が、主神が定めた領土を守っているだけなら戦など起こらない。けれど人間たちはいつもどこかで戦をし、国は名前を変え、かたちを変えていく。
レドナークは最後に残された古き神が守りし国だった。
「加護なんてないんだと、僕たちは証明してしまったのかもしれないね」
神様が本当にいればいいと思っているクーですら、奇跡なんて起きないと本当は知っている。心の底ではだれも信じていないのに、この国に加護が与えられるはずもないのだろう。