懐中時計と土人形13
「……今夜は星がよく見えんなぁ……」
なんて自分でも柄でも無いと思うことを呟きながら、砕いた宝石を散りばめたように瞬く夜の星空の下、熾乃は仰向けでソファに寝転んでいた。
探偵事務所のある四階建ての雑居ビル、その屋上。四月下旬の薄ら寒い夜風が鼻先を掠めていく中、吹きさらしであるこの場所の中心に置かれた、場に不釣り合いな四人掛けのソファ。そこに熾乃は横になっていた。
熾乃が以前から視聴している海外ドラマの中に、主人公が何もない草原にぽつんと置かれたソファに寝そべって空を仰ぎ見るという場面がある。
そのシーンを観て『格好いい』と感銘を受けた熾乃が、久遠に無理を言って事務所で使わなくなった古いソファを置いて真似したのがこの場所である。
以来、屋上にあるソファは熾乃だけの特等席となった。依頼が無くて暇な時、学校終わりの気だるい身体を休ませたい時や居眠りしたい時、
そして今のように……考え事をする時なんかには決まってここで空を仰ぎ見ていた。
(……にしても母親、か。どうやって捜したものか……)
時枝から正式に請ける事と相成った彼女の母親捜し。
人探しの案件は今までにも多々あった、だが今回のはそれらとは確実に毛色が違うものだった。
なにせ今回の依頼人が捜そうとしているのは、他界したと思っていた母親だ。
既に亡くなったとされていた人物を捜し出すというのは困難を極めるだろう、生前の情報が……母親に繋がる手掛かりが何一つ無いのだから。
(森の奥にあった屋敷にもう一度いくか? ……いや、あそこに何か手掛かりがあったなら家出娘が言ってる筈か……)
それにあの場所は既に土人形師に知られている。もっと言えばまだ居る可能性だってあるのだ。鉢合わせしてしまう危険を冒してまで戻る必要性はもうあそこには無いだろう。
そうなると……もう一人の依頼人から手掛かりを引き出すしかないか……。
「……時枝 郷三朗」
時枝の話からして熾乃がポツリと呟いたその人物は、確実に彼女の母親について何か知っている素振りをしていたそうだ。唯一の切り口はあの老人しかいないだろう。
だが、最愛の孫娘にもあからさまな拒絶反応を示していた人物が、血縁者でも何でも無い自分達に話してくれるとは到底思えない。
「……どうしたもんかなぁ……」
他に手は無いものか。そうため息混じりに呟いていると、
「――なに一人で黄昏てるのさ、熾乃」
いつの間に屋上にやって来たのか。不機嫌そうな声を発しながら、視界の端からスッと現れたアゼルが熾乃を見下ろしている。
「いや、どうやって家出娘の母親を捜そうか……ちと考えててよ」
「そう。まぁ僕には関係無い事だけどね」
そんな棘のある言葉を吐き捨てながら、アゼルは熾乃から背を向けるようにソファの背もたれに腰を下ろした。
……気まずい。何がそんなに気に入らないのか、腰を落ち着けてからというものアゼルは何一つ喋ろうとしない。
何か怒らせるような事でも言っただろうかと、内心で戸惑っていると、
「……ねぇ熾乃。熾乃はさ……時枝さんを危険な目にあわせたいつもりなの?」
「はぁ?」
あまりにも突拍子も無い内容の発言に熾乃は思わず目を見開く。
何時もの冗談……と言う訳では無さそうだ。背中しか見えないから表情は確認できないが、冗談ならばこんなにも真剣で……重苦しそうな声色の筈が無いだろう。
「……なんだよ、突然」
「さっき熾乃が言ってただろ。『夕方の事件で手一杯だから今の警察に相談するだけ時間の無駄だ。家出娘の話なんて相手にしない』って……アレ、まさか本気じゃ無いよね?」
「んな事をわざわざ言いに来たのかよ。別に間違ってはいねえだろ。向こうは酒場での事であんまし首が回らねえ筈だし、そんなクソ忙しい時に過去に自分達の手を煩わせた家出常習者の話なんて誰も信じねえよ」
今行ったって門前払いされんのがオチに決まってると言い切る熾乃。だがその言葉にアゼルは反論する。
「確かに君の言う通りかもしれない。けれども、それを楯野警部に伝えれば状況は変わるんじゃないかな。正義感が人一倍強い人だ、顔馴染みの僕らから事情を話せばきっと……いや、必ず彼女を保護してくれる筈だ。その事に君が気づいていない、なんて有り得ないだろ」
「…………」
「熾乃、君は……それに気づいていながら敢えてそれを言わなかったんだ。気づいていながら君はその選択を捨てて今を取った……時枝さんに危険が及ぶかもしれない可能性がある今を、ね」
まるでこちらの考えなんて見透かしているかのような的を射た言及に、熾乃はソファに横たわっていた身体をむくりと起こし、アゼルの後ろ姿に背を向けた……こちらの思惑をこれ以上悟らせないように、と……。
「……何が言いたいんだよ、お前」
「だから考えたんだよ……警察に保護してもらおうと言った所長さんの提案を熾乃が下げさせたのは……時枝さんを保護させたくなかったからなんじゃないかって」
軽快そうな口調で痛いところを突いてくる。
確かにアゼルの言うように熾乃は、時枝を警察に保護させたくなかった。正確に言えば、まだその時期じゃないと、考えていたからだ。
この様子だと、アゼルは熾乃の考えに気づいているようだ。
熾乃が時枝 時恵を警察に保護させたく無い理由……それは、
「時枝さんに夕方に発覚した事件の事を……もっと言えば、犠牲者が出た事を知られたくなかったから……違うかい?」
……やはり、気づかれていた。
観念したかのように熾乃はため息を一つ吐いて、重い口を開いた。
「……よく分かったな、お前」
「あからさまなんだよ。懐中時計の件だってそうさ。質屋で見つけただなんて、酒場の話を故意に避けてるんだって直ぐに分かったよ……どうしてあんな嘘をついたのさ?」
「……言う必要がねえと思ったまでさ」
「答えになってないから、ソレ」
冷たい言葉の刃が、求めていたものと違うと、熾乃の答えを切り捨てた。
コイツに隠し事は出来ないか。
足下に視線を落とし、アゼルの追及に少し間をおいてから熾乃は、
「家出娘、いや……時枝 時恵は今、闇の中を歩いてんだ」
「闇の……中?」
胸の中に抱いている今の想いをうちあけだした。
「なんにも見えねえ深い闇……そんなかに道があるんだ。人が一人やっと歩ける歩幅の……出口の見えない道。一歩踏み外せば奈落の底に落ちちまうような……そんな細長い道をあの人は一人で、誰の手も……助けも借りられずに、今も歩いてる」
熾乃が話すそれは、今の時枝の心情を指していたものだった。頼れる人も居ないまま、宛もなく街をさ迷い続けていた……彼女の心情を。
それに思うところがあったのか、アゼルはただ黙って熾乃の言葉に耳を傾けていた。
「永遠とも思える孤独な旅。けれどそんななかであの人は……ようやく光を見つけたんだ。ずっと捜し、乞い続けていた……一筋の小さな光を」
「……時枝さんのお母さん、だね」
「今のあの人はそれに向かって必死に歩を進めてる。やっと見つけた希望なんだ……オレはそれの邪魔をさせたくはねえ」
「だから事件の事を隠したの? ……そんな事をして何になるのさ」
何になる、か。
確かに、周りから見ればそんな事をしていったい何になるのかと、そう思う事だろう。
けどこの事実は……今の彼女にはとても背負いきれない、重すぎる事実なのだ。
「酒場での一件をあの人が知ったらどうなる。直接関わった訳ではないにしろ、時枝があの店に訪れたから今回の事件が起きたんだ。怪我人が出て、そして……死人も出しちまった」
「…………」
「それを知ったらあの人は……暗い闇の中で眼を閉じちまうだろう。罪悪感に押し潰されて……やっと見つけた小さな光が、まるで自分を責めるかのように急激に眩しくなったと、本当はそうじゃ無いのにそう錯覚して……そうなったらあの人はもう真っ直ぐには歩けない。自責の念っていう闇の底に……落ちていっちまう」
今の時枝は命綱無しで危険な綱渡りをしているような精神状態だ。ちょっとした気持ちの揺れで足を踏み外してしまうような……そんな脆さを抱えてしまっている。
落ちてしまったら最期、時枝 時恵という女性は二度と……前を向く事が出来なくなってしまうだろう。
「オレは……誰かが生きる希望を失う、そんなところなんて……見たくねえんだ」
――たとえそれが会ったばかりの……赤の他人でも。
「……熾乃、君の考えはよく分かった。けどね、言わせてもらうけど……君のそれは優しさなんかじゃない、ただの偽善だ。君は彼女を現実から背けさせて問題を先伸ばしにしただけに過ぎない……いずれは気づくよ、彼女」
「そんな事はオレにだって分かってる。だからこの件にケリが付くまで……あの人が光を手にするまでで良い。時枝には支えが必要なんだ。暗闇の中をどう進めば良いのか分からない彼女の手を引いて、支えてくれる家族が。独りぼっちの今の彼女に……この事実は重すぎる」
自分を産んでくれた母親に一目でもいいから見たい、逢いたいという一途な願い。
それに従って動いた結果、彼女の願いは周りの人を傷つけ、そして……死に至らしめた。
穢れを知らない無垢にも等しいその純粋な想いが、他者を不幸に陥れた引き金になった。その事を時枝が知る前に何としても母親を見つけ出さなくてはいけない。
そうでないと彼女は自分を追い詰めて自暴自棄になり……“何か”をしでかしてしまう可能性があるのだから。
「けどそれでもし……間に合わなかった場合はどうするの。僕達が時枝さんのお母さんを見つける前に真実を知ったら? 下手をしたらそのせいで……最悪の事態を招くかもしれない」
「だったら包み隠さず、あの人に全部話せって言うのかよ」
「僕だったらそうするね。今なら彼女が真実を知って取り乱しても僕達で取り抑える事が出来る……たとえ辛い事実でも彼女の身の安全を優先に考えて、楯野警部に連絡するのが一番だと……僕は思うよ」
……間違ってない。アゼルの言葉は何一つ間違ってなんかいない、正しいものだった……苛立ちを覚える程に。
……それでも、
「それじゃダメだ。その時に、事実を知った時に、倒れそうになったあの人の身体を支えてくれる人が側に居ねえと……ダメなんだ」
拳を作る手に思わず力が入る。こればっかりはたとえアゼルでも譲ることは出来ない。
「……悪いけど僕は熾乃の意見には反対だ。母親を捜している間にもしもの事が……取り返しのつかない事が起きてからじゃ遅いんだ。君が言わないなら――」
僕が彼女に伝える。きっとアゼルはそう言おうとしていたに違いない……だが、
「――やめろ」
――そんな事は許さない。
ソファから立ち上がった熾乃は振り向き、アゼルの背中を真正面に捉える。視線を鋭い釘に変えて刺し、そして押さえ付けるように睨み付ける。
「余計な真似をするんじゃねえ。あの人に何かいらねえ事を吹き込もうとしてみろ……その時はお前を……」
その先の言葉を紡ごうとして、熾乃は言うのを止めた。こんな時に内々で言い争っている場合ではないと思い止まったから。
そして次の言葉を発した瞬間……“荒事”へと発展してしまうと、直感したから。
「その時は僕を、なに? 力尽くで止める? ……良いんじゃない、ソレで。僕達は仲良しクラブをやっている訳じゃ無い。無理に相手の意見に乗っかる必要は無いんだ。……けどね、君と同様に僕も……引くつもりはないから」
――一歩も譲る気はない。
背もたれから腰を上げて振り返ったアゼルの瞳には……そんな敵愾心が込められていた。
これが熾乃とアゼルの関係性。二人はお互いに馴れ合う間柄ではない。相手の事を思って言葉を選ぶような事もしなければ、仲良く手を取り合うような事もしない。
自分が間違っていないと思えば言いたいことは全てぶつける。自分のしている事が正しいと、意見が相違する事があれば遠慮なく衝突する。
そして……その衝突が今、起きようとしていた。
「何だったら今ここで……“あの時”の続きでもするかい? 僕と君が初めて会った雨の日の続きを……」
アゼルが服の内側に忍ばせていた銃を引き抜く。
さもそれが当然の反応だというように、その一連の動作からは何の躊躇いも感じられなかった。
「あの時の……“殺し合いの続き”を、ここで」
カチャリと、冷たい金属同士を軽くぶつけあったような音……拳銃のシリンダーを回転させ、撃鉄を起こす音が響く。
その音が切っ掛け、元い、引き金となり、二人を包む空気をピリピリとした、張り詰めたモノへと一変させていった。
銃を携えたまま凝然としているアゼルの鋭い視線を真っ向から受け止めながら、熾乃も銀の短剣を取り出そうと右手を構える。
まさに一触即発の状態。最早、衝突は避けられないと……熾乃は腹を括っていた。
――その時だった。
「――伏箕先輩!」
勢いよく開いた階段室の扉の音と共に聞こえてきた人懐っこそうな少女の声。それは熾乃を呼びに来た楠野葉のモノだった。
「お待たせしました、伏箕先輩! 時恵さんの準備が整っ……て……」
二人を取り巻く殺伐とした空気を肌で感じ取った楠野葉は、まるでマッチの火が消えていくかのように、陽気に満ちていた声を段々と消沈させていった。
「あの……お二人共……どうかなされたんですか……?」
不安と恐れ……おずおずと問い掛けてくる楠野葉の声色からは、その二つが色濃く滲んでいるのが感じられた。
殺気立った二人が醸し出すただならぬ雰囲気に呑まれたのだろう、楠野葉は身を強張らせて戦々恐々としているようだった。
「……何でもないよ、楠野葉さん。ちょっとこれからの事について熾乃と話し合っていただけだからね」
そんな楠野葉を気にかけるように微笑みながら優しく言葉を返したのはアゼルだった。
何の心配もいらないよと笑顔で伝えるアゼルはその後ろで、楠野葉の視線に入らぬよう右手に持った銃を自分の影の中にへとそっと隠す。
「それよりも、熾乃に何か用事があったんじゃないの? 僕の事は気にせずにどうぞ」
「あ、はい……それじゃあ、あの……伏箕先輩、時恵さんの準備が整いました……一階の玄関口で所長さんとお待ちになってますから……その……」
言葉の端々に妙に歯切れの悪さを感じる……どうやら先程目にした熾乃とアゼルの様子がいまだに気になっているようだった。
ただ事じゃない雰囲気だった、しかし迂闊に立ち入った事を聞いても良いのだろうかと……不安げな面持ちで二人の顔に視線を交互に向ける楠野葉から、そんな心情が読み取れた。
「……分かった、すぐに行く。先に降りてろ」
自分達のいざこざで関係の無い人に心配をかける訳にはいかないと、少々冷然な言い捨て方だったかもしれないが熾乃はすぐにこの場から離れるよう楠野葉に促した。
はい、と浮かない表情で了承した楠野葉は二人に向かって一礼。後ろ髪を引かれる様子で屋上を後にしていった。
「悪いが聞いての通りだ。お前と談義する時間はもうねえ……オレは行くぞ」
これ以上余計なことは考えるなと釘を刺して、屋上から出ようと熾乃はアゼルの横を通り過ぎようとした……すると、
「……そう言えばさっきの問いにまだ答えてもらってなかったね。もしも僕達が間に合わず、彼女が事実を知った時……誰の支えもない彼女が闇の底に落ちそうになった、その時が来たら……君はどうするの?」
すれ違い様に投げ掛けてきた、こちらを試すような問いに熾乃は足を止めた。
どうするのか、なんて決まっている……そうなった時、自分の取るべき行動はただ一つだ。
「そん時はオレが……落ちそうになった家出娘の手首を引っ付かんで……もう一度道に立たしてやるさ」
たとえそれで時枝 時恵に苦渋の道を歩ませる結果になろうとも、彼女を救い上げる。
「それが闇の世界に迷う人を助ける任を背負った住人……闇の住人として“あの日生まれ変わった”オレの役目だからな」
――二年前に一度死に、そしてもう一度生まれ変わった……伏箕 熾乃というダンピールの覚悟だ。
その決意の答えだけを場に残して熾乃は、今度こそ屋上から去っていった。
屋上に吹く夜風に晒されながら黒い空の下にアゼルは佇む。
夜の静けさが殺気立っていた場の空気を沈静させ、静寂な余韻へと変えていく中、アゼルは一人呟いた。
「……たとえ時枝さんは事実を知ったとしても彼女は進むのを止めないと……心が折れないと、君はそう信じてるって訳か」
しかしそれは『そうあって欲しい』と願っているだけの……現実を見ようとしない理想論者が語る戯言に等しい台詞だ。
事実を知った彼女が絶望しない等と言う根拠は……何処にも無い。
「……やっぱり甘いよ、君は……」
そんなのはただの感情論にしか過ぎない。
……そう思っていたのに、アゼルは熾乃を引き止められなかった。
屋上から去ろうとする熾乃の肩を掴み、話を続ける事だって出来た筈だ。
……けれどアゼルは、そうしなかった。
「……僕も人の事は言えない、か」
自分でも意図せず、不意に溢したため息混じりの笑み。それが自嘲だったのどうか……アゼルには分からなかった。