懐中時計と土人形12
「いや~見れば見るほどべっぴんさんだな~! 写真と同じ、イヤっ! それ以上の美しさだ……ようこそ嵩嵩探偵事務所へ! 貴女が来るのを今か今かと待ちわびておりましたよ!」
「は、はぁ……ご丁寧にどうも……」
まるで騎士が忠誠を誓うかのように床に膝をつきながら、ソファに座る時枝の手を取る十蔵のキザッたらしい姿に、屋敷から戻ってきたばかりの熾乃達はうんざりとした表情を浮かべていた。
ずっとこの調子だ。時枝を連れて事務所に戻るや否や、彼女を一目見た十蔵は眼を輝かせながら、所長の久遠に何の断りもなく時枝を接客室へと通してしまったのだ。
しかしまぁ結局は、時枝から家出の理由を聞くため、落ち着ける部屋に通す予定ではあったのだが……時枝からまったく離れようとしない十蔵が邪魔で話をしようにも出来ない現状であった。
「とにかく貴女に怪我が無くて良かった。貴女にもしもの事があったら、俺は貴女を傷つけた相手を絶対に許さなかったでしょう。ご無事で何よりだ……さぞ怖かった筈だ、顔も怯えているし、美しい貴女の手がこんなにも冷たくなっているのだから……俺の手の温もりでゆっくりと、時間をかけて、暖めて差し上げますよ」
「いえ、あの、私……単に冷え症なだけなんですけど……」
いくらなんでも触りすぎである。そんなゴマをするみたいに手をすりすりと延々に撫で続けられていては、彼女の曇り顔も永遠に晴れることはないと言うのに。
なんという手癖の悪さか。おイタが過ぎる当事務所専属の公認会計士を見るに見かねて……と言うより、これ以上恥をさらしておきたくなかったのだろう。ため息をもらしながら弊社の最高責任者が動き出した。
「もう夜も深い……今は大人の時間だ。良かったらこのあと俺の家で二人の今後を語りながらしっぽりと酒でも……ってイタタタタァ!? 耳っ!? 耳が千切れるっ!?」
「いい加減にしないさいよ十蔵。アナタが居ると話が進まないじゃないの。邪魔になら無いように部屋の隅でおとなしくしてなさい!」
「いッ!? いい痛いって久遠! そんな耳引っ張んなよお!」
久遠に耳を引き千切らんばかりに引っ張られて部屋の隅へと追いやられる十蔵の姿に、時枝は口をぽかんと半開きにして呆けた顔を浮かべていた。
「アレは何時もの事だからアンタは気にしなくて良い……あと、耳を引っ張られて涙眼になってる男のさっきの台詞だが……ありゃあただの病気だから、もっと気にしなくて良いぞ」
「は、はぁ……」
時枝が少し困惑気味に返事をすると、彼女の前にある長机の上にふわりと湯気が立ち上る湯飲みがそっと置かれた。
「どうぞ、お茶です。良かったらこれを飲んで暖まってください」
「あ、はい。ありがとうございます……もしかして貴女も?」
「はい! この事務所の一員で、楠野葉って言います! よろしくお願いしますね、時恵さん!」
「ええ、此方こそ」
一頻り挨拶を終えてペコリと一礼した楠野葉は、何故か満面の笑みを浮かべながら部屋の角でアゼルと共に佇んでいた熾乃の隣にちょこんとやって来ては小声でひっそりと、
「ありがとうございますね伏箕先輩。あの時に私に言ってくれた事をちゃんと守ってくれて」
「……? オレ、なんか言ったっけか?」
「一緒に行けない私の分まで『時恵さんを守って連れて帰る』って約束してくれましたよ」
「そうだったか? ……覚えてねえよ」
「はいはい、そうですよね。伏箕先輩はそういう人ですもんね」
全部分かってますよと言っているような笑顔を向ける楠野葉に熾乃は頭を掻く。なんだか無理してツッパっているのを母親に見透かされてるようで、こそばゆい感じだ。少し照れ臭い。
「……ふふっ」
どうやら熾乃と楠野葉のやり取りが聞こえていたらしく、二人に時枝がクスリと小さく笑いを溢した。
ここにきて初めて彼女の笑っている顔を見た気がする。柔らかな微笑を浮かべているところから、少しは緊張の糸がほどけたようであった。
「……気分はどうです? ちょっとは落ち着けましたか?」
時枝と対面するように久遠が向かいのソファに腰を下ろす。その奥では、部屋の片隅で右耳を押さえながら、なにやら恨めしそうに久遠の背を睨み付ける十蔵の姿が。
「え、えぇ……おかげさまで」
「そうですか、それはなによりです……では早速ですが、そろそろお聞かせいただいてもよろしいでしょうか? 貴女が何故誰にも行き先を告げずに数日間も家を空けたのか。どうしてあの無人のお屋敷に一人で居たのか。そして……貴女が抱えているものを私達に教えてください」
「……そうですね……けど何からお話をすればいいのか」
ついに本題だ。彼女が親しい人物達の前から突如として消えた理由。それがようやく判明する……もしかしたら時枝が見に覚えの無い、土人形師に狙われている目的もこれで……。
神妙な面持ちの彼女から語られる言葉を、熾乃達は固唾を飲んで待っていた。
「……まずは皆さんに迷惑をかけてしまったその理由から……私が度々家を空けていたのは……私を産んですぐに亡くなったと“聞かされていた”母を捜していたからです」
「聞かされていた?」
まるで本当は生きているかのような台詞だと、声を出したアゼルは思ったのだろう。そしてそう感じ取ったのは彼だけでなく、隣で眉をひそめている熾乃も同じだった。
もしも、そう言う意図が含まれていた言葉だとしたら、彼女がその考えに至った根拠は……いったいなんなのだろうか。
「お祖父様や亡くなったお父様からは、母は元々身体の弱い人だったと聞いていました。だから私を産んでからすぐにこの世を去ったと……その為、私が物心ついた時にはすでに……母親なんて何処にも居ませんでした」
何処にも居ない……その言葉を口にするのは彼女にとって相当につらい事だったのだろう。先程浮かべていた笑顔が嘘のように、時枝の表情に陰りが差し、どんよりと曇っていた。
「父が亡くなってお祖父様と二人だけになってしまった私は、幼い時分ながらもよく考えていました……『どうして私にはお母さんがいないんだろう?』って。周りのお友達には、授業参観や運動会の時には必ず側にお母さんが居るのに……どうして私だけには、と。いったいどんな人だったのかも知らないから……だからお祖父様に一度だけ『私のお母さんはどんな人だったの?』って聞いたことがあるんです……けれど……」
その言葉の途中で時枝は口をつぐんでしまった。思い出しくない何かを頭に浮かべてしまったかのように浮かない表情の彼女に、久遠が声をかける。
「……なんと仰られたのですか? 時恵さんのお祖父様は?」
「何も……言ってくれませんでした。ただ黙っていただけで……けど、その時のお祖父様の顔は今でもよく覚えているんです。まるで胸を締め付けられているようにツラそうな……苦しそうな表情を。その時に思ったんです。お母さんの事を聞くのはもう止めよう……理由は分からないけど、聞けばまたお祖父様を苦しめてしまう。だから聞いてはいけないんだと、自分の心に蓋をして今まで……十九年間、生きてきました」
今の時枝の話から察するに、最初に熾乃が違和感を覚えていた通りやはり祖父の時枝 郷三朗は隠し事の多い人物のようである。
それも年端もいかない少女が自分を圧し殺す要因を覚えてしまうくらいの表情を作る、重要な事をひた隠しに……。
「それから中学、高校を経て、今の大学に入った頃には母親を知りたいという気持ちは無くなってました。私にはお祖父様や、世間知らずな私の世話を焼いてくれる執事の皆、そしてこんな私の事を友達だと言ってくれる学友が居る。それだけで充分私は幸せなんだ、って大学生活を送っていました……その時でした……私のところに“アレ”が来たのは」
……どうやらここからが最重要点。話の核心を匂わせる言葉に一同が息を飲むと、時枝の口から出てきたのは予想外の人物だった。
「去年の暮れあたり……私宛に手紙が来たんです。私の……“母親”だという人から」
時枝の言葉に熾乃とアゼルはギョッとした顔を見合わせた。
去年の暮れ。それは大学で得た『時枝の様子が変わった』という情報の時期と符合している。となるとその手紙が彼女を奇行に走らせる切っ掛けになったという事になるのだが、
「手紙は直筆ではなくワープロで作ったような文字で構成された味気無い文面でした。内容も当たり障りの無いものばかりで……ただ、その文章の一節に『母は時恵の事をいつも想っています』と書いてあって……それで……」
まさか……それを信じたと言うのか。なんの暖かみも感じられなさそうな電子文字の羅列の中に刻まれた“母”という単語を――誰が打ったのかも定かではない、全く信憑性の無いそれを……彼女は信じたと言うのだろうか?
「おい、家出娘。まさかとは思うが……アンタその手紙を信じたのか? 差出人が亡くなった筈の母親だって、本当に?」
怪訝な面持ちの熾乃の問いかけに、時枝は首を小さく横に振った。
「流石に私だって、そんな手紙は信じられませんでしたよ。もう居ない母の名を騙って出してきた質の悪い悪戯だ、って……そう思いました」
そりゃそうだと、熾乃は時枝の当然の反応に肩をすくめた。
しかし悪戯と分かっていたのなら、何故時枝はその事を警察に相談しなかったのか。そんな悪質なものを受け取ったら、彼女だって気分は良くないだろうに。
……そしてなにより、いったいその手紙の何が決め手となって、彼女は行動に移したのだろうか。
「それを境に家に、母だと名乗る方からの手紙が毎週届きました。決まって差出人の名前の無い、私の宛名だけが記入された封筒に入った手紙が。気味が悪いなとも思いましたよ。出してきた相手は本当に趣味が悪い人なんだな、って」
そう思うのが自然と言うものだろう。その手紙は故人を、亡くなった人の名を悪用している、その人物を貶しているといっても過言では無いのだから。
本来なら怒りに任せて手紙を破り捨てたっておかしくない筈だ……にも関わらず、受け取り手である時枝が発した次の言葉はとても意外なものだった。
「でも何故でしょうね? それでも私は、封筒から手紙を取り出す手を……止める事が出来ませんでした」
それは過去の自分へと向けた嘲笑だったのか。熾乃の眼には、手紙について語る時枝の顔がほんの少し微笑んだように見えた。
「それが一ヶ月くらい続いたある日、また手紙が届いたんです。けどその時の手紙はいつもの当たり障りの無い内容とは違う……私とお祖父様や亡くなったお父様……そして、母しか知らない事が書いてあったんです」
「知らない事……ですか?」
久遠の言葉に時枝はこくりと頷いて返事をする。時枝自身、延いては彼女の関係者しか知り得ない事実……それは、
「……懐中時計です」
「懐中時計?」
時枝の発言に熾乃は、自身のズボンの左ポケットの上に手を当てた。中に彼女を見つけられた手がかりとなった懐中時計が入っていたからだ。
「私が産まれる前に、時計技師をしていた当時のお父様から教わりながら、産まれてくる私の為に母が一から作ってくれたプレゼント……それが先程言った懐中時計なんです。父が亡くなった今、その懐中時計の事を知っているのは私と、事情を知っているお祖父様……それに……」
「家出娘の為に時計を作った張本人……アンタの母親って訳か。なるほどな、それが理由か」
「はい……探偵さんの想像通りです。その手紙には……こう書かれていたんです」
――私が時恵の為に作った懐中時計、今でも大切に持っていてくれてますか?
「その文面を見た瞬間に私、自分の心が跳び跳ねたような気分になったんです! この人は……本当にお母さんじゃないのか、って! 本当は生きていて、ずっとずっと!
私の事を見守っていてくれてたんだ、って! ……そう考えたら私……もう……居ても立ってもいられなくて……」
それで彼女は行動に出た、という訳か。
「気がつくと私は街の中をさ迷うように、宛もなく歩き続けていました。何処に居るかわ分からない、けど絶対に近くで見ていてくれてる筈だと……なんの確証も無いのにそう自分を奮わせて、お祖父様の命令を受けた行人に何度も家に連れ戻されても、それでも捜し続けた……けれど結局見つからなかった。私は一人じゃ何も出来ないという事を……酷く思いしらされた瞬間でした」
俯きながら話続ける彼女が、自分の無力さを痛感した後にどんな行動を取ったのか、安易に想像できる。
「一人で出来る事の限界に気づいたアンタは、途方に暮れながらも母親捜しを諦める事なんて出来なかった。だから切り口を変えたんだな。自分の近くに……街の何処かに母親が居ると信じていたアンタはそこで、この街に詳しい、精通している人物に協力を仰ごうとした……だろ?」
「精通している? ……あっ! 酒場に居た情報屋さん!」
熾乃の推測に合点がいったような声を楠野葉が上げると、眼を丸くした驚いた表情で時枝が顔を上げた。
「すごい……そこまで分かってらっしゃったんですね」
「そこまでは、な。けど分からねえのは、一介の大学生であるアンタがどうやって情報屋を……朴路矢って男の事を知ったかだ。いくら大会社の御令孫でも、そんなパイプは持ってない筈だろ……どうやって知った?」
「その……お恥ずかしい話なんですが、私を見つける為にお祖父様が警察の方に相談されて、それで何度か警察署の方でお世話になった事があったんです。その時に刑事らしきお人とその方が話ているのを偶然聞いてしまったんです。『また良いのが入ったらタレコミますよ』と……タレコミって確か情報を教えるっていう意味ですよね? だから私、もしかしてそういう事を生業にしている方なのかと……」
そう言えば、件の情報屋は仕入れた商品(情報)を馴染みの刑事へと流すため奏弦署によく出入りしていた事を、酒場で会った楯野が言っていたのを熾乃は思い出した。
時枝の推察通り、確かに男は情報を武器に生計を立てていた情報屋だ。しかも男は『S』と呼ばれる警察の協力者、警察署への出入りは頻繁にあっただろう。時枝も署に連行されたのは一度や二度では無い筈……そんな二人が署内の何処かですれ違っててもおかしくはない。
と考えると時枝の証言は……なるほど、辻褄が合ってくる。
「そんな方なら、私が捜している母への手がかりを見つけてくれるかも知れない……それで私はその方を訪ねました。事情を話すと思いの外、情報屋さんは快く私の頼みを引き受けてくれて……だけどその代わり、仕入れてくる情報の対価として、私の持っている時計を要求されましたけど……」
「時計、と言いますと……先程時恵さんが仰られた懐中時計の事でしょうか?」
「はい、所長さんのお考えの通りです。母から貰った大事な物だったので、いつも首から下げて肌身離さず持っていたのが、情報屋さんの目に留まったんだと思います……とても大切な物だったのですが背に腹は代えられず懐中時計をお渡ししました。そして後日、あの御屋敷の事を教えてもらったんです」
これも楯野が言っていた事だが、男は普段から『S』として培った技術を惜しみなく振るい、情報屋として稼いだ金を全て日々の酒代に注ぎ込んでいたという話だった。定職に就いていなかった男だ。常に大好きな酒をかっくらっていたい情報屋にとって、時枝のぶら下げていた懐中時計がとても魅力的なお宝に見えたのだろう。
なにせ彼女が産まれる前に作られた物だ。骨董品を彷彿とさせる年季の入りかたをしているだろうし、なにより手作りでこの世に二つとない特注品である。それが男の眼には大層値打ちのあるアンティークとして映ったと考えて間違いないだろう。
死んだ人間の事をとやかく言う悪趣味は持ち合わせていないのだが……朴路矢という男、相当にどうしようもない人物だったようだ。
「……それで、アンタが居たあの建物はいったいなんだ? あんな深い森の奥に、世間から隠れるようにひっそりと建ってた幽霊屋敷は? ……アンタ、情報屋に何て言われて彼処に行ったんだ?」
「あの御屋敷は以前に私の母が……と言っても確証は無いんですが、母らしき人が住んでいた家だと、情報屋の方は仰っていました。本当に母が生きているなら、そこに居る可能性が高いとも、流石にどうやって調べたかまでは教えてくれませんでしたけど。それで私はあの屋敷に向かい、そして皆さんとお会いしたんです」
これが今、私の話せる事の全てです……そう言って時枝は口を閉ざした。思いの外、彼女から色々な事が聞けた……予想外の話も。にわかに信じがたいものもあったが、時枝の口振りからして嘘を言っているようには思えなかった。恐らくは全てが事実。
――となると一度、情報を整理した方が良さそうだ。
事の発端は去年の暮れ、時枝 時恵の元に一通の手紙が届いた事から始まった。
差出人の名が無い封筒に入っていた手紙、だがワードプロセッサで作成された文章の中に、差出人と思われる人物を示唆させる一文が打ち込まれていて……それが時枝の行動を狂わせる要因になった。
――手紙の差出人は時枝 時恵を産んですぐにこの世を去ったと言われていた……母親からの物だった……。
最初の一通を境にしてそれから毎週、母と名乗る人物からの手紙が時枝の元に届く。その人物は時枝と、彼女に親いごく僅かな者しか知らない事実を……時枝がとても大切にしていた、母お手製の“懐中時計”の事を知っていたのだった。
もしかしたら差出人の人物は、本当に母親なのかもしれない……そう思った時枝は遂に行動に移した……まだ見ぬ母親に逢いたいという一心で、単独で動き始めた。
……だが、幼少期の頃から祖父に母の事を秘匿され続け、母の名前も顔も知らなかった時枝の母親捜索は当然のように難航していった。このままでは母親を見つける事なんて出来ない。そう気が急いていた彼女はひょんな事から、ある男の存在を知る。
奏弦市の全体をフィールドにしていた情報屋の男、朴路矢。偶然にも情報屋の存在を知った時枝は、母の形見である懐中時計を代償に男から、母親が以前住んでいたであろう古い洋館の場所を聞き……そこへ訪れた。
鬱蒼とした森の奥深くに佇んでいた無人の館。そこで母親へと繋がる手がかりを捜していたところを、彼女を捜しに来た熾乃達と出逢い、今に至る。
――彼女の行動の動機、そしてあの屋敷に辿り着くまでの経緯、そこまでは理解することが出来た。
だが一番肝心な……重要な事が、まだ何一つ分かっていない。
「……時恵さん。貴女が何故、皆さんの前から姿をくらませたのか、その理由はよく分かりました……ですが、それはもうこれっきりで終わりにしてください。目的は不明ですが時恵さんは狙われているんです、屋敷に現れたあの大男に。これ以上危険な真似をするのは止めていただきたいのです」
そう。久遠の言うように土人形師の目的がまだハッキリとしていない。時枝本人から話を聞ければ、大男の狙いの意図が見えてくるかもと思っていたが……それを匂わせる物は何もなかったような感じだった。
「警察も今、ある事件の最重要被疑者として大男の行方を追っています。男が捕まるまで時恵さんは警察に保護を求めた方が良いかと……」
彼女の身を案じての久遠の提案に対して、時枝の表情はあまり良い色を示さなかった。
「……ごめんなさい、所長さん。でも私……ここで止めたくありません」
「っ! 時恵さん、貴女は自分がどんな状況に置かれているのか分かっています!? 狙われているんですよ、訳の分からない輩に! あの場に熾乃クンやアゼルクンが居なかったら……もしかしたら、死んでたかもしれないんですよ!? それをちゃんと理解しているんですか!?」
「それは充分に分かっています。けどここで止めたら、二度と母に手が届かなくなる気がするんです……だから、止めたくないんです!」
時枝の中にある母親への想いは相当に強いらしく、気づけばその想いの大きさの前に、詰問口調で責め立てていた久遠は言葉を失っていた。
「手紙を見て、この人は本物のお母さんかもしれないって思った時……私、凄く嬉しかった。絶対に叶わないと思ってた夢がすぐ目の前にあるような気分で……手を伸ばせばお母さんの背中に届くんじゃないかって……馬鹿ですよね、私……そんな事あるはず無いって自分でも分かってるのに……それでも、止められなかったんです」
必死に笑みを作って取り繕う弱々しい姿の時枝に言葉が出てこなかった。久遠も、アゼルも、そして熾乃自身も、彼女にかける言葉を見失っていたのだ。
今の彼女にいったいどんな言葉を掛けられるだろう。
永遠に得られなかった筈の温もりが現れた事への喜びと、それがただの自分の願望でしかないという現実への哀しさが入り交じった……とても寂しそうな顔で笑う時枝に、熾乃はただただ胸を締め付けられる思いだった。
「母親を知りたい気持ちが無くなったなんて、本当は嘘だったんです……本当はお祖父様の事で心に蓋をした子供の時のあの日に、自分の気持ちに嘘をついて……ずっと……ずっとそれを見ないようにして、今まで生きていただけなんです」
その言葉が、彼女の全てを物語っていた。偽りだと感じていながらも手紙を開く手を止められなかった事、それを警察に届け出なかった事も……全てはそういう事だったのだ。
彼女は気づいてしまったのだ……自分の本当の気持ちに。
懐中時計の事を知っていたからなんて言うのは後付けだ。最初の手紙で心の何処かに、相手が本物の母親だと信じた自分が居た……だから警察に相談もしなかったし、手紙を読む事も止めれなかった。
先程手紙について語っていた時に浮かべていた笑みも嘲笑なんかじゃ無い。母親から届く手紙が本当に嬉しかったから……その時の気持ちを思い出していたから……。
「たった一度……たった一度だけで良いんです……私は、お母さんに……逢いたい。逢って、私の名前を呼びながら……抱き締めてほしい……それだけで私は……私は……!」
……十九年。それは目の前で涙ぐむ彼女の華奢な身体に積もっていた、母親への情愛が押し込められていた時間。
二度と手の届かない、叶う筈の無い願いだと、自分を殺し、直視してはいけないと心の奥に封じ込めていたものをたった一通の手紙が溢れ出させた時……時枝は自分の気持ちに歯止めがきかなくなったのだろう。
(……十九年、か……長いよな……)
彼女が暴走してしまうのも……今なら分かる気がした。
「皆さんは、お祖父様に私を捜すよう頼まれた探偵なんですよね……こんなこと言えた立場ではないと、分かっています。けれどお願いです、私の母を、死んだと思っていた母を捜しだしてくださいませんか……!」
「時恵さん!? 貴女……!」
「お願いします! 一度だけで良いんです! 母に逢うことが出来たら、私はちゃんと家に帰ります。お金も、今は払えないけど、その時には必ずお支払いしますから。だからお願いします、私に……私に皆さんのお力をお貸しください!」
頭を深々と下げて懇願する時枝の姿に、久遠は何も言えなくなってしまっていた。
あれだけの想いを聞いた後だ。一度火の点いた時枝がそう簡単に母親の事を諦めるとは到底思えなかった。
人間誰しも、死ぬほど逢いたいと乞い願う人物が一人ぐらいは居るだろう、彼女にとってそれは胸の奥にずっと秘めつづけていた……顔も知らない母親だった。
その気持ちが分からない訳でも無い。
しかし、時枝が今、危険な状況にいるのも、また事実。
それでも彼女はまた街に出るのだろう。母親を捜す為に。……自分の命を省みずに。
「……はぁ~。ったく、放っておいたら無茶するって事が目に見えてるしな……ホンット、サギだよなぁ」
「……探偵、さん?」
そうと分かっているのに『大人しく諦めろ』などと言う言葉で済ませて、はいサヨナラなんて無責任な事では終われない。
それに口には出さないが、寂しさに打ちひしがれている彼女を、このまま放っておくことなんて出来ない。
……だから熾乃は決断した。
「良いじゃんか、オレ達で捜してやろうぜ……家出娘の母親をよ」
彼女の力になろうと言う熾乃の言葉に、当の時枝は大層驚いていた。
思いもしなかったのだろう、自分でもただのわがままだと分かっている行動。それに一番非協力的な素振りを見せていた人物から助力を申し出てくれたという事に。
「そ、そうですよ! 私達でお母さんを捜してあげれば良いんですよ! そうすれば私達は常に一緒に居てあげれますから、時恵さんが危ない事に巻き込まれる可能性だって低くなるでしょうし!」
そんな熾乃の提案へ最初に乗ったのは楠野葉だった。
事務所の中で誰よりも時枝の事を心配していた楠野葉ならば、賛同してくれるだろうという予想はしていた。
「ちょ、ちょっと待って木ノ実ちゃん……熾乃クン、アナタ、私達の仕事を忘れたの? 私達が依頼されたのは時恵さんを見つけて無事に家に帰す事だった筈よ。それは案件に含まれて無いわ! それに土人形師がいつ襲ってくるか分からないし……やっぱり警察に事情を説明して協力を求める事が絶対にベストよ!」
それと同時に、予期しなかった熾乃の発言に、久遠が異を唱える事も、予想はしていた。
「……じゃあ聞くが、どうやって警察に説明すんだ? 狙われている理由もハッキリしてねえのにどうやって協力を求めるよ? 『大男に襲われるかもしれないから助けてくれ』って言ったって相手してくれねえだろ……家出常習者の女の言葉を向こうが信じてくれると本気で思ってんのか?」
「……それは」
言葉を詰まらせている久遠の様子を見る限り、彼女もある程度の予想はついていたようだ。
家出を繰り返し、警察の手を何度も焼いていた放蕩娘。
警察がそんな時枝の言葉を信じてくれる可能性は限り無く低いと、久遠も分かっていた。だから何も言い返してこないのだ。
揚げ足を取るような形を取ってしまって久遠には申し訳ないと思う。
だが彼女の言葉を借りるならこれがベストな選択だろう。土人形師の方は警察に任せ、自分達は時枝が抱えている物に向かっていくというこの状況は。
警察に母親の事を話しても取り合ってくれないだろう、時枝に協力出来るのは自分達だけなのだ。
……それに、
「警察だって夕方の事件で今は手一杯の筈だろ。こっちの話を聞く余裕なんてねえだろうから警察に相談するだけ時間の無駄だ……オレ達だけで動いた方が良いだろうさ」
今の彼女にはまだ知らなくていい事がある。まだ知る必要の無い事が。
「あの、探偵さん……夕方の事件というのは……?」
「アンタには何の関係も無い話さ。気にしなくていい」
今の時枝 時恵に“あの事”を知られる訳にはいかない。だから今はこれで良いんだ。
「それよりも、だ。一応アンタの気持ちを再確認しておきたい。本当にオレ達を雇うって事で良いんだな? 依頼の間はオレ達と行動を共にして貰うし、当然家にも帰れねえ。話を聞く限りだと、アンタのじいさんにバレたらそれまでっぽいしな。それでも良いならオレ達は全力でアンタに協力するけど……どうすんだ?」
時枝は少し間をおいてから、意を決したかのような、真っ直ぐな視線を熾乃に向けて、
「……私はお母さんに逢いたい。けれど一人じゃ到底見つけ出す事なんて出来ない。だからお願いします、皆さんのお力を私に……貸してください……!」
「……商談成立だな」
これで話は決まった。次は彼女の母親を捜す為にどう動くかだが……、
「ちょっと熾乃クン! なにを勝手に依頼なんか請けちゃってんのよ! しかも、お金がちゃんと入るかどうかの仕事なんて……ウチは慈善事業じゃないのよ!」
腕をグイッと引っ張られ、耳元で囁きながら、しかし怒気の籠った声の久遠のお小言が熾乃を咎める。
所長に何の相談もせずに話を進めてしまった手前だ、怒られるのは当然と言えば当然である。
だが依頼料の件なら……久遠を黙らせる口実を熾乃は既に用意していたのだ。
「勝手に決めたのは悪いと思ってるさ。けど放っておく訳にもいかねえだろ。家出娘を無事に家に帰す為にも、あの人の気が済むまで付き合ってやった方が良いってのは、久遠だって薄々は思ってた事だろ?」
「それは……そうだけど」
「それに金なら別に心配いらねえだろ? もう既に家出娘の身内から貰ってんだしさ」
なにそれと言いたげに怪訝な顔を向ける久遠、そんな彼女に熾乃は切り札を叩きつけた。
「あるじゃねえか……お・こ・こ・ろ・づ・け」
「んなぁ!?」
そう。依頼人の時枝 郷三朗から送られてきた依頼料とは別の料金。依頼料の何倍もの金額が封をされていた……所謂、袖の下の話を持ち出されては流石の久遠もぐうの音が出まい。
「っ~~~~あーもう! 分かった、分かったわよ! こうなったらとことんやってやるわよ!」
若干焼け気味に言い放つと久遠は熾乃を一睨み。それを熾乃は満面の笑みで返してやる……経営者様、ご苦労さん。
そして久遠は何時もの営業フェイスに切り替え、時恵に案件承諾の意を伝える。
「時枝 時恵さん。貴女からの御依頼、嵩嵩探偵事務所が御引き受け致します。かならずや時恵さんの御期待に添える働きをしてみせます……一緒にお母さんを見つけましょうね」
「……! は、はい! よろしくお願いします!」
これで正式な仕事として時枝に協力する事へと相成った。
依頼内容は死んだと思われていた母親を捜し出す事。
既にこの世に居ないとされていた人物を見つけるのだ、大分骨が折れる案件となるだろう。
だが彼女の力になると決めたのだ。やるからには最後までやり通さなければ。
だが、今日はもう夜も遅い。本格的な調査は明日からになるだろう。
……と、忘れる前に、
「ほらよ、家出娘」
熾乃はポケットに入れてあった時枝の大事な物を取りだし、彼女の手元に放り投げた。
熾乃から渡された物を両手で掴み取ると、彼女は驚いた表情を浮かべる。
「これ……私の懐中時計……!?」
「母親から貰った大切なモンなんだろ。だったら……二度と手離すんじゃねえぞ」
「あ、ありがとうございます……!」
懐中時計を大事に握り締める彼女はとても嬉しそうな顔で熾乃に礼を伝えた。その表情から、それが本当に大事な物だというのが強く伝わってくる。
だが喜びを噛みしめている時枝の表情はすぐに疑念へと変わった。
「でも……どうして探偵さんがこれを? 情報屋さんに対価として渡した物を何故?」
「それは……」
ばつの悪そうに久遠は言い淀んでしまった。
恐らく話して良いものか、悩んでいたのだろう。自分達がどうやって懐中時計を手に入れたのか……その経緯を。
「裏通りの質屋に置いてあったのをオレが偶々見つけてな。情報屋の奴が酒の代金に変えたんだろ。アンタの所有物だって写真で知ってたから買い取ったんだよ」
言葉を必死に探し続ける久遠を横に、当たり障りの無い体で熾乃が口を挟む。
勿論今のは嘘だ。時枝には知る必要の無い事だと判断した熾乃の作り話である。
しかしそれがお気に召さなかったのか、隣に居たアゼルは、まるで憎むべき者を見るかのような視線を熾乃に送っていた。
「そうだったんですね……あの、代金の方は私が……」
「いらねえよ。経費で買ったやつだから必要ねえ。それよりも……さっきも言ったが絶対にもう手離すなよ。それが大事な思い出っつんならなおさらな」
「はい、本当にありがとうございます。探偵さん」
「礼はもういらねえって。それよりも今日、アンタが泊まる所なんだけど……」
自宅が土人形師に割れている可能性があるのと、時枝からの依頼上、家に帰す訳にはいかない。となるとこの中の誰かの家という事になるのだが……、
「久遠、お前の家に泊めてやれよ」
「ちょ、無茶言わないでよ!? 泊めるのは構わないけどウチに土人形師が来たらどうするの! 私、戦え無いんだから!」
「そこは所長としての気概を見せろよ。じゃあ楠野葉……は危ない目にあわせる訳にはいかなねえから……」
「ちょっと!? 私と木ノ実ちゃんの扱いの差、違くない!?」
久遠の物言いを無視して、次の候補であるアゼルに視線を向けると……、
「……言っておくけど、僕が住んでいるのは魔術協会が管理している寮だ。協会関係者以外の出入りは禁じられているから、僕の方は無理だ」
まるで取り付く島の無い言い捨て方だ。
最後の頼みの綱の拒絶に熾乃が頭を抱えていると、アゼルから予想外の言葉が発せられた。
「……何を悩んでいるのか知らないけど、こういう時は言い出しっぺである君の家に泊めてあげれば良いだけの話じゃないのかい」
「……は?」
……なんですと?
「あ~確かに。伏箕先輩のお家なら、危険は無さそうですもんね」
「言われてみればそうね。なんと言っても“あの人”のお膝元な訳だし……うん、良いかもしれないわね」
「まてまてまてまてっ!? オレ抜きで話を進めてんじゃねえよ!」
冗談じゃない。楠野葉も久遠も何を勝手な事を言っているんだ。
家に人を……ましてや女性を泊めるなんて事をしたら、後で“あの人”がどれだけ拗ねてくる事やら……確実にめんどくさい状況になるのが目に見えていた。
それだけは勘弁してほしい。
そんな気持ちが表情に出てしまっていたのだろうか、熾乃の顔色を伺いながら時枝は申し訳なさそうに口を開く。
「あの所長さん……お気持ちは、その、嬉しいのですが……流石にそれは探偵さんにご迷惑が……」
「ご心配には及びませんよ時恵さん。弊社の伏箕の自宅は安全面にとても特化しております。ここ奏弦市で彼の家よりも安全な場所はそうそうありません。ですから安心して身体を休めていただけるかと……」
「あ、いえ、そうじゃなくて……男性の家にお世話になるのは……その……」
「あぁ、その点でしたら大丈夫ですよ。彼は家族と一緒に暮らしているので、二人っきりにはなりませんから。それに……仮に二人っきりになったとしても、伏箕には時恵さんに手を出そうという度胸なんて、これっぽちもありませんから……ねぇ? 熾乃クン」
まるでお返しだと言わんばかりに久遠から嫌味たっぷりの笑みと皮肉さ満点の台詞が浴びせられる……久遠お前、さっきのお心付けの仕返しかこのヤロー。
「なぁなぁなぁ! 熾乃が駄目ならよぉ、オジサンの家に来るっていうのはどうだ!? ウチは一軒家で一人暮らしだから部屋が余ってんだよ! オジサンの家、良いと思うけどなぁ~!」
そう意気揚々と割り込んできたのは、部屋の隅っこで事の成り行きを見守っていた十蔵だった。
自分を指差しながら浮かべる満面の笑みからは、隠しきれない程の下心が溢れだしている。
「……家出娘。今日の泊まる所、オレん家でいいか?」
「……はい。お願いします、是非」
「アレっ!? お、オジサン、スルーですか!?」
当然の反応だろう。日頃からの女性への振る舞い方で、こういう面では信用できない男だと熾乃は充分に理解していたのだから。
時枝もそんな女にだらしなさそうな十蔵の匂いを嗅ぎ取って綺麗に賛同してくれた。どうやら女性とはそういう嗅覚が敏感な生き物のようである。
「それじゃ今日は熾乃クンの家に決まった所で……時恵さん、替えの服持ってないでしょ? 書斎室に私の着替えがあるからそれも一緒に持っていってください」
「え!? 良いんですか……ありがとうございます!」
「同じ女性ですもの、困ったときはお互い様ですよ。木ノ実ちゃん、悪いけど服を鞄に詰めるの手伝って貰って良い?」
「はい! 喜んで!」
覗くんじゃないわよと、男性陣に(主に十蔵に)釘を刺しながら久遠は時枝達を連れて接客室を出ていった。
経験上、女性は買い物で服を買う際、相当な時間をかけて熟考するというのを熾乃は知っている。
借りる服を選ぶのも例外ではないだろう。恐らく長くなる。ならばこちらも適当に時間を潰した方が良いのかもしれない。
「あん? っうした~熾乃? 何処行くんだ?」
「屋上に居る。暇になりそうだかんな。悪いけど、女連中の仕度が終わったら呼びに来てくれるよう伝えといてくれ」
そう言って熾乃は接客室を後にした。部屋から出るその背中に、まるで刺し殺すような……アゼルの鋭い視線を受けながら……。