懐中時計と土人形9
久遠の追跡魔術が示した時枝 時恵の現在位置……そこは街の地図でいうところの北東、過去に時枝グループが買収した森林地だ。
実際に行ってみるとそこは会社の大きな本社ビルを建てるならともかく、子会社のビルを建てるにしては分不相応なくらいに広大な土地だった。
進入禁止の立札を無視して車で中へ進んでみても、これまたなかなかの奥行きであり、森全体が相当な深さであると見受けられる。
この森の何処かに時枝 時恵が居るのは確かだ。
だが乱立する天高く伸びた木々で構築された森の中から、おまけに夜の闇で見通し難くなっているこの領域から、月明かりだけを頼りに人一人を捜すのは恐らく至難の技。時枝 時恵の捜索は困難を極める筈であろう。
――という熾乃の懸念は……どうやら杞憂に終わりそうであった。
「なんだぁ……このバカでけぇ屋敷は?」
車で森の中の砂利道を進むこと十分弱。地図に灯った狐火の場所を目指して奥深くまで行くと、熾乃達の前に大きな洋館が現れたのだ。
全体を覆う蔦の蔓延り具合を見るからに、人の手が入らなくなって何十年になるかという年季の経った二階建ての木造屋敷。
「森の奥にこんなのがあるとは……驚きだな」
何故こんな森の中に建築物が。もしかしてずっと前から此処にあったのだろうかと、車から降りて屋敷を見上げる熾乃の隣で、
――ゴクリッ
……と、生唾を呑み込んで喉をならす音がハッキリと聞こえてきた。
フッと横を向いてみるとそこには、青ざめた顔で尋常じゃない量の冷や汗をかいている久遠が屋敷を見上げていた。
「……久遠」
「ファッ!? 何、熾乃クン! どうしたの!? 何かあったっ!?」
どうしたの、なんて言葉はこちらの台詞だ……。
「何かあったか、って……強いて言やあ、お前の身体がガタガタに震えてるぐれえだけなんだが……」
「はぁ!? 震えてる? 私が!? 何言ってるのよ! わ、私は別にこの屋敷がホラー映画に出てきそうな悪霊だらけの住み処みたいで怖いなとか帰りたいなとか、そんな事ちっともこれっぽっちも思ってないんだからねっ!」
……本音がだだ漏れである。必死に身振り手振りで誤魔化している姿がとても空しい。
「ねぇ、熾乃。所長さんが割り出した時枝 時恵さんの居る場所って、本当にこの辺りで間違いないの?」
「地図の火の位置はここら辺だから近くには居るだろうな。闇雲に森ん中を掻き分けて捜す前に、一番手近なこの屋敷から探ったほうが良いだろうぜ」
それもそうかと、納得したアゼルが屋敷を見上げると、
「……あれ?」
「どうした?」
何か気になるものを見つけたかのような声を出してから訝しげな表情で屋敷の二階の部屋を指差した。
「二階にある一番右端の部屋の窓の向こうで……何か動いた」
「ヒィッ!?」
……久遠。過剰に反応し過ぎである。しかし、そういう事であれば、
「……当たりかもな。行ってみるか……久遠も行くぞ。いつまでもビビってねえでよ」
「び、ビビってる!? 私が! そんな訳ないでしょ! ……な、なかなか探索しがいのありそうな屋敷じゃないの! 雰囲気も充分だし……相手にとって不足はないわね! うん!」
いったい何の相手だ……。
腹を決めた久遠を引き連れて、熾乃とアゼルが屋敷に入ろうと玄関のドアノブに手をかけようとした寸前に、
「……こいつは」
「熾乃? どうかした?」
熾乃はこの屋敷に人が出入りしていたであろう最初の痕跡を発見した。
「ドアノブの上……積もってた埃を落とした跡がある」
一階の外側にある窓の棧には塵埃が積もっていて灰にまみれたようになっているにも関わらず、玄関のドアノブの上には手で払ったような痕跡が見受けられた。
「こりゃあますます信憑性が増しやがったな」
扉を開いて屋敷内に入る。
高い天井に幅広い館内。建物内の外観通りであるその広さに驚きつつも、その中で熾乃はある事に気づいた。
「……空気がそこまで淀んでいない」
大抵こういった人が住まなくなって久しい木造の建物というのは、空気の入れ替えをする住人が居ないので埃やカビ等の饐えた臭いが空気に充満しているものだ。
しかし、そんな建物の扉を開けた瞬間、普通なら真っ先に出迎えてくる筈の異臭がそれほど香ってはこなかったのだ。それは、最近この屋敷の扉を開け閉めし、人が出入りしていた事を意味している。
……やはりここで間違いなさそうだ。
「予想はしてたけどやっぱり広いね。これは三人で固まって捜すより、手分けした方が効率が良さそうだ」
「だな。懐中電灯も三つ持ってきたし……ここらでバラけるか」
「なら僕は二階を見てくるよ。さっき何か動いた部屋も気になるし」
「了~解。じゃあ頼んだぞ」
熾乃から懐中電灯を受け取ると、アゼルは二階へと続く階段を上がっていった。
一階に残されたのは熾乃と久遠の二人。通路の奥まで続いている扉の数を見る限り、やはりこの階の部屋数はかなり多い……となると、
「久遠、オレ達は一階をしらみ潰しだ。かなりの広さだが二手に別れりゃ――」
なんとかなる。そう言おうとした瞬間、熾乃は服の左袖口をグイッと強く引っ張られるような不可思議な重量を感じた。
違和感を感じながら顔を横に向けると、へっぴり腰で今にも泣きそうな表情をした久遠が、藁にもすがるかのように熾乃の服をギュッと掴んでいたのだ。
「……何してんだ、お前?」
「べ、別に……なんでもないわよ!」
だったら何故、手を震わせながらそんな捨てられた子犬みたいな目でこっちを見る……。
「なんでもないんだったら服を掴んでるその手を離せよ……調べに行けねえだろ」
「アナタね! こんな不気味な所にか弱い乙女を置いていく気!? 冗談じゃないわ!」
「……あのさ、オレ達がなんの為にここに来たのか忘れたわけじゃねえよな? 人を捜しにきたんだぞ? それも急ぎで」
「だからってこんな真っ暗な屋敷の中で独りになるなんて心細すぎるじゃないの! そんなの絶っっっ対に許さないんだから!」
……コイツなんで付いて来たんだよと、熾乃の久遠に対する怒りのボルテージが悪い意味で鯉の滝登り、頂点まで一気に上り詰めていく。
「アゼルも言ってただろうが。手分けした方が良いってよ……それが一番効率が良いって久遠だって分かって……」
「何言ってんのよ! 熾乃クン、ミステリー小説読んだこと無いの!? こういう古びた洋館が舞台の話はね、皆から離れて独りっきりになってしまった女性から一番最初に消されていくんだから!」
「……誰に消されるんだよ……じゃあ、捜すのはオレが一人でやるから、久遠は車に戻って待ってれば……」
「馬鹿言わないでよ! アナタ、ホラー映画のお約束を知らないの!? 得たいの知れない恐怖に慄いて怖気づいたネガティブ気質満点の登場人物が『俺はもうここから一歩も外には出ないゼ!』って言って安全だと思ってた場所に隠れていたにも関わらず拍子抜けするぐらいアッサリとやられちゃう定番を! アナタは私をそんな目に遭わせたい訳!? この人でなしー!」
「だぁあああ! もう面倒くせぇなぁあああ! いったいどうしてえんだよ! お前はっ!」
――――んで。
「……結局こうなるのな」
変ないちゃもんをつけて最後の最後までバラける事を拒否していた久遠が出した提案(ほぼ強制の)は、二人一組になり協力して探索に当たろうと言うもの。
二人でなら部屋の一つ一つを隅々まで隈無く調べられる、何一つ見落とすことなく円滑に事を運べる布陣である……筈だったのだが、
「ちょっと! つべこべ言ってないでちゃんと前を見て歩きなさいよ! 後ろにいる私が閊えちゃうじゃない……それと何か危なそうなのが出てきたら、私の事をしっかりと護りなさいよね!」
「へいへい……了解しましたよ、ボス。ったく……」
……ご覧の通り。協力なんて言葉は名ばかりで、実際は熾乃を自分の前に立たせ、盾のようにして探索していくという……気づけば熾乃を生け贄に差し出すような隊列で進むことになってしまっていた。
(……こりゃあ貧乏クジ引いちまったかな)
こうなってくると、一人で二階を探索しに行ったアゼルが羨ましくなってくる。
「今頃アイツは、一人でのびのびとやってるんだろうな……」
だが熾乃の予想とは裏腹に、二階の探索は難航していた。
「――この部屋も何も無し、か……」
天井の隅っこに蜘蛛の巣が張り巡らされた家具も何も無い空き部屋。その中心で懐中電灯を片手に部屋中を見回していたアゼルは手応えの無さを痛感していた。
これで六部屋目。屋敷その物の大きさもあってか部屋自体もかなり広い。一部屋一部屋を隈無く調べていくのはかなり気が滅入る……それで何の収穫も無ければ尚更だろう。
「……となると、残るはあの部屋だけか」
屋敷の外から見た時から気になっていた部屋。二階の一番奥にある部屋に向かう。
アゼルは二階を探索する切っ掛けを作ったあの場所に足を踏み入れて直ぐに、その部屋の状態に違和感を覚えた。
「ここは……」
他の部屋と明らかに違う。広さは他と同じだが……この部屋には家具がある。
シングルベッドや両開きの洋服タンス、ドライバー等の工具が放置されている机に飾り気のない鏡台。
この部屋には見るからに人が使っていたであろう痕跡があり、恐らく使用されていた当時のままの姿がそこにあった。だが、
「どうしてこの部屋にだけ……?」
そう。この屋敷にはこんなにも部屋が多いのにも関わらず、生活感が辛うじて残っているのはこの一室だけ。全くもって不自然だ。
一階を見ていないからハッキリとは言えないが、もしかするとこの屋敷に住んでいたのはほんの数人……いや、一人だけなんじゃないだろうか。
それも、化粧道具のある鏡台が置いてある事からして、この部屋を使用していたのは女性である可能性が高い。
女性がたった一人でこんな大きな屋敷に住んでいた。それも人目から遠ざかるかのように森の奥に居を構えたこの場所で。
しかしながらこの部屋には誰も居ない。先程の窓の近くで動いていたモノはなんだったのかと窓辺に近づいてみると、ひゅーという鳴き声のような音と共にカーテンが小さく靡いた。よく見ると窓がほんの少し空いている。
「……さっき外から見えたのはコレか」
どうやらこれがアゼルの見たモノの正体だったようだ。窓の隙間から流れ込んでくる外の風で揺れ動いたカーテンを、何かが動いたと勘違いしてしまっていたのだ。
となるとこの部屋も空振り。二階は全滅という事になる。こうなってはあとは熾乃達に期待するしかないようだ……それにしても、
(人が住むような感じには……到底思えないな)
なんとも物寂しい部屋だ。置いてある家具は必要最低限の物だけ。娯楽という娯楽なんて物は一切無い。
部屋というのは、そこに住んでいるその人の個性や“色”が如実に表れるモノだが、この部屋からはそんなモノはまるで感じない。言うなれば無色だ。生活の息吹きが全く感じられない。
こんな監房のような部屋に人が住んでいたなんて、アゼルには思えなかった。
「……ここに住んでいた人は、いったいどんな気持ちで暮らしていたんだろう」
窓際に設置された鏡台。この部屋の主はここに座り、どのような思いを馳せながら、代わり映えしない窓の外を眺めていたのか……。
「……あれ? これって……」
と、ここでアゼルは鏡台に置かれていた写真立てに注目した。
写っていたのは麦わら帽子を被っている美しい女性と幸せそうに微笑む男性の、仲睦まじそうな二人のツーショット写真。
一見何の変哲も無い写真なのだが……アゼルはこの写真の女性が気になってしかたなかった。
「この人……」
似ている。時枝 時恵に。
他人の空似かと思い、写真立てを手に取って懐中電灯で照らしてよおく目を凝らして見てみたが……やっぱり似ている。
帽子の下から伸びる髪色こそ黒くて違うが、目許や顔の輪郭がソックリで……瓜二つだ。
もしかして、この部屋の住人は。
そう考えあぐねていたその時だった……背後からその“物音”がしたのは。
「っ!?」
木の板の上に何か物を落としたようなカタンっという軽い音だった。
この部屋に居るのは自分だけの筈。そう思い後ろを即座に振り返ってみてもそこには誰も居ない。
……あるのは部屋の隅に鎮座する木製の洋服タンスだけ。
(もしかして……)
確証はない。だが人一人くらいなら隠れられる大きさではある。
悟られないよう忍び足でそっと近寄り、タンスの両開きの取っ手に手を伸ばしたその瞬間、ガバッと勢いよくタンスの扉が開き、
「うわっ!?」
タンスの中から人が飛び出しきたのだ。アゼルは押し退けられた際にチラリと見えたその人物の横顔に、目を見開く。
写真に写っていた女性だ。しかしその写真とはこの部屋で見つけた物に非ず。顔は似ているが、髪は栗色で何よりも若い。
その女性は熾乃に見せてもらった……時枝氏から借り受けた写真の女性だった。
「待ってください!」
ついに見つけた。アゼルは逃げ去ろうとする彼女の腕を掴んで引き留めようとしたが、
「嫌! 離してっ!」
「ちょっ!?」
どうやら彼女はアゼルを空き家に忍び込んだ賊か何かと勘違いしているようで、手を振りほどこうと彼女は必死に腕を振り回し暴れている。
だが手を離すわけにはいかない。ここで彼女を見失えば土人形師から彼女を守る事が難しくなってしまう。
とにかく今は、彼女を静めなければ。
「落ち着いてください! 僕は貴女の味方です……時枝 時恵さん!」
その名前を口にした途端に、暴れていた彼女の動きがピタリと止まった。
「……ど、どうして……私の名前を……?」
彼女からすれば、何故会ったことも見たことも無いこの青年が自分の名を知っているのかと驚いている筈だ。表情を強張らせ、驚いた様子でアゼルの顔色を窺ってしまうのも無理もない。
けれどこれで話が出来る。
「僕はアゼル=クラウリー……貴女を迎えに来たんです……僕達は」
「迎えに? ……それに、僕達って……?」
「僕の話……聞いてほしいんです。貴女に」
これまでの事。そして一階で探索を続けている熾乃達の事を――。
「――お~……この部屋はけっこう広いな。見た感じ、リビングってところか」
浴室、御手洗い、物置等の様々な部屋を経て、熾乃達が次に訪れたのは、声がよく響く広々とした居間。
ここまでしらみ潰しに一階を調べてはみたが何も見つけられていない。ここに居るであろう目的の時枝 時恵の姿は一向に無かった。
「ね、ねぇ熾乃クン。中に誰も居ない? 入っても大丈夫そう? ……悪霊とか飛び回ってない……?」
そんなわけないだろ。
そんな有りもしないモノに怖れて、何時までも廊下から居間を覗き見ていないで、少しは所長らしいところを見せてほしいものだ。
「大丈夫に決まってるだろ。ってか誰も居ないじゃオレ達が困るだろうが。お前、ここに来た目的忘れてんじゃねえだろうな……肝試しに来たわけじゃあねえんだぞ、オレ達は」
「わ、分かってるわよ! それくらい! ちょっと確認の為に聞いただけじゃない!」
フンッと鼻を鳴らして居間へずかずかと足を踏み入れた久遠は、部屋の中を見回した。
「けっこう綺麗に片付いてるわね。ここで暮らしてた人は几帳面だったのかしらね……フフン、私と同じでね!」
果たして最後のそれは今ここで言うべき事なのだろうか……それも得意気な顔で。
しかし久遠が几帳面かどうかはさておいて、確かに埃が被っていることを除けば綺麗ではあるかもしれない。
大きさごとの皿が綺麗に積み重なった食器棚に面積ピッタリのテーブルクロスが敷かれた六人分の席が設けられた食卓、そしてローテーブルを囲む、寸法を測ったかのように並べられた複数のソファ。
片付いていると言えば片付いているように見えはする……見えはするのだが……なんというか、
「……綺麗に片付けられてる、ってよりも……使われて無かったんじゃねえかな、って感じの方がオレはするな」
これは今まで見てきた部屋にも言える事なのだが、この居間には人の手が入ったような感じがまるで無い。
他の部屋ならまだしも、くつろぎの場所であるリビングですらこの様子から……なんだかそうでは無いような気がしてならなかった。
「なにそれ? いったいどういこと?」
「別に。ただ何となくそう思った、ってだけの話だ……それにしても、何処にも居ないな、家出娘。これだけ捜しても見つかんねえとなると……」
当てが外れたのか、もしくは移動したか。
こうなると一度、地図を確認したほうが良いのかもしれない。そしてそう思ったのは熾乃だけでは無いようだ。
「ねぇ熾乃クン。もう一回、地図と懐中時計で位置を見ましょうよ」
「そうしたいのは山々なんだがご覧の通り、持参してんのはライトだけでな。その一式は車ん中だ」
「何よそれ。使えないわね!」
そこまで言うことだろうか?
しかしこのままでは埒が明かないのもまた事実……仕方がない。
「こりゃあ捜索範囲を見直す必要がありそうだな。一旦アゼルと合流して地図をとりにいくか……」
「と言うことはこの屋敷から出るってことね! それ賛成! 早くここから出ましょ!」
そんなにここに居たくなかったのか、顔を綻ばせながら同意する久遠の姿に熾乃は、真面目に探す気があるのかと少々呆れてしまう。
「ほら! 急いで熾乃クン! 置いてっちゃうわよ!」
生き生きとした表情で居間を出ようとする久遠。
……だがそんな彼女の表情を一瞬で歪めてしまう姿をした、この屋敷の“住人”が天井からツツーっと久遠の目の前に吊り下がって来た。
「…………え?」
こういった人気の無い建物というのは往々にして、人以外のモノが住み着く傾向がある。
それは誰もが見たことのあるであろう、黒光りしていてカサカサと床を這いずる生理的に受け付け難いアレ。
そして天井の隅っこに“糸”を張って住居を作り、時偶、視界の外から(主に上から)現れては人の……久遠の思考を一発で停止させてしまう程のインパクトをした八本脚のアイツなどなど。
「い……い……い……!」
つまり何が言いたいのかというと……、
「いやぁああああ!? くもぉおおおお!」
ご覧の通り、久遠の目の前に糸を引いて現れたのは蜘蛛、という話でした。それもかなりデカイの。
「嫌っ! イヤッ! いやっ! いぃやぁあああ!?」
先程の嬉々とした表情はどこへ消えていったのか。それほどショッキングだったのか今では顔を真っ青にし、何かを追い払うように腕を振り回しながら後退していく始末。
故に気づけなかったのだろう。直ぐ後ろにあった食卓に。
「ふぇっ!?」
その食卓の足にガタッという音を立てて自分の足を引っ掛けてしまったのだということに。
「っ! 久遠っ!」
まるでバナナの皮を踏んでツルンッと滑ったかのように後ろに倒れそうになった久遠を、熾乃は間一髪のところで抱き留めた。なんとも世話の焼ける所長様だ。まさか蜘蛛一匹であんなにも取り乱すとは。
しかし間に合って良かった。取り合えず怪我をしていないかどうか、それを聞こうと抱き留めている久遠に声をかけようとしたところ、
「っ~~~~!」
……なんだか様子がおかしい。妙に身体をワナワナと震わせている。まるで怒っているかのような……。
と、ここで熾乃は自分が今、どんな体勢で久遠の身体を支えているのかをようやく思い出した。後ろに倒れる久遠を抱き留める為に背後から、両腕を久遠の身体の前へ回して抱き締めるようにしていたことを。
そして気づく。その際に熾乃の両の掌が、柔らかくて弾力のある、大きくて揉み心地の良いムニュっとした久遠の豊満な胸を鷲掴みしていたことに。
「いぃいいいいやぁああああ!」
そうなれば後の顛末はヒドイものだった。
蜘蛛と目が会った時よりも大きな悲鳴をあげた、羞恥で顔を真っ赤に染めた久遠の怒りの鉄拳が熾乃の顔面を一直線に打ち抜いたのだから。
「ブふェ!?」
まるでノックアウトのゴングが聞こえてきそうな見事な右ストレートだった。そのあまりの威力に、自分でも情けないと思う程の声をあげながら後ろへ吹っ飛ばされてしまった熾乃は、受け身を取る事すら出来ず床に倒れてしまう。
「あ、あ、アナタね! 何どさぐさに紛れて私のむ、む、っ~~~~! どこ触ってるのよお!」
「ふ……不可抗力だろ、今のは……てか、お前、ぐ、グーは止めろよ、グーは……顔にめり込んだぞ……」
「うるさい! このスケベ! チカン! エロガキぃ!」
女性の神聖な部位をむんずと掴んだ、顔を両手で押さえて踞る不埒者への糾弾と憤りは止まる所を知らない。
そしてその罵声はどうやら屋敷中に轟いていたらしく、
「……どうしたんですか二人共? 何かあったんですか?」
二階に居たはずのアゼルが、久遠の声が気になったのか居間にひょっこりと現れた。
「あ、アゼルクン!? なんでここに……!?」
「なんで、って……あんな叫び声を聞いたら誰だって様子を見に来ますよ。いったいどうしたんですか? 所長さん顔が真っ赤ですよ? それになんで熾乃は膝をついて顔を押さえてるんです?」
「な、なんでもない! なんでもないのよ、ホントっ! オホホホ……」
苦し紛れに笑って誤魔化そうとしている久遠にアゼルは訝しげな表情を浮かべる。言えないだろう、蜘蛛一匹で大騒ぎしていたなんて。そんなこと久遠のプライドが許さない筈だから。
「……何が『なんでもねえ』だよ、ったく! ……んなことよりアゼル。お前、二階の探索はどうしたんだよ? もう終わっちまったのか?」
「それなんだけど……」
熾乃の問いにアゼルが意味有りげな返事をすると、まるでそれが登場の合図かのように廊下から一人の女性が現れた。
「……は」
「……え」
現れた女性を見た熾乃と久遠の口から素っ頓狂な声が溢れた。
無理もない。薄汚れてはいるが、時枝氏から借りた写真に写っていた人物と同じ服装をした同じ顔の人物がそこに居るのだから。
今、目の前に居るのは……紛れもなく熾乃達が捜していた彼女――、
「「あーーーー! 時枝 時恵!」」
――本人であった。