プロローグ
「暗ぇし眠ぃし……あ~、帰りてぇよぉ」
自分でも惨めだと思うくらいの悲しい気分に腐りながら、少年、伏箕 熾乃は足下に転がっていた小石を蹴り飛ばした。
石は無機質な太い道路の上を跳ね、カチカチッ、というアスファルトを弾く音を真夜中の峠に小さく響かせる。虚しい音がより一層惨めさを増幅させ、しまいには熾乃に特大のため息をつかせた。
「なにが悲しくてこんな夜遅くに……しかも、こんな人気のない山奥にある道路の真ん中に居なけりゃならんのだ」
いくら“仕事”とは言え、深夜に現役の高校生を呼びつけるとは、なんて横暴だ。あの女所長め、マジ許さん。
おまけにこの道路を利用する車なんて一台もないじゃないか。
街灯も少ない上に機能していないのが殆んど。街から遠く離れ、市民の大半に「そんな道ありましたっけ?」並みにその存在を忘れ去られてしまった残念な国道。
この静けさは、もはやもう心霊スポットレベルの不気味さだ。
こんな場所に一人取り残されるこっちの身にもなれと所長に(独裁者に)、声を大にして耳許で――言えるモノなら――言ってやりたい。
「ご機嫌斜めだね、熾乃。そんなぶうたれた顔してると、ただでさえ悪い目付きがさらに悪くなるよ……あと目の下の隈も」
……ああそうだ、そうだった。
所長への不平不満ですっかり忘れていたが、ここに居るのは自分一人だけでは無かった。
大人しそうな顔をニコやかに、本人の自慢でもある翠色の髪をサラサラと夜風に靡かせて佇む少年。
――“相棒”のアゼル=クラウリーも呼び出されていたのだった。
「この隈も、目付きが悪いのも生まれつきだ。つか今何時だと思ってんだ……深夜の三時だぞ、三時。お前の国じゃあどうかは知らんが、この日本じゃこんな時間に出歩いている未成年者がいたら即補導モンだぞ?」
そんな時間に駆り出されれば目付きも悪くなりますよと、熾乃は悪態ついた。
「それもそうか……まぁ文字どおり、あの所長さんに捕まったのが運のつきだと思って諦めるんだね」
「他人事だと思いやがって、ったく。本当なら今頃、深夜に放送してる海外ドラマを観ていた筈だったのによぉ……にしても」
辺りを見回して改めて思うが本当に車が一台も通らない。まぁこの道の先にあるのは使われなくなってから随分と経つ、廃れた小さな港だけ。
そんな何も無い場所に行こうとする人なんて誰もいないだろうが、
それじゃあ困る。
「なぁアゼル……ホントにここを通るのか、そのトラック? 小一時間待ってはいるけど車のエンジンなんか一つもしねえぞ?」
聞こえてくるのは眠くなるフクロウの鳴き声と、風で虫みたいにカサカサ音をたてる樹の枝だけ。
「……感付かれたんじゃねえのか?」
「さあね。けど警察の調査ではこの道路を密輸ルートにして利用してるのは間違いないみたいだよ。この先にある港から船で『商品』を海外に横流ししている。今回は警察との共同捜査だから失敗は許されないよ……所長さんも地元の国家権力とのコネクションが出来る、って気合い入ってたみたいだし」
……だとしてもなぁ。
「今日ここを通るとは限らねーだろ……それで駆り出されるオレらの身にもなれってんだ。こんな薄気味悪ぃ場所、さっさとオサラバしてえよ」
「なに? もしかして熾乃、怖いの? まさか幽霊が出そうって子供みたいな事を言わないよね?」
意地悪そうに笑うアゼル。それに対して熾乃は、
「言うかバカ。オレは早く帰って寝たいだけだ……それに」
「それに?」
「今の御時世、幽霊の存在を“信じていない奴なんている訳ねえ”、だろ?」
「まぁ……それもそうか」
アゼルに言った通り、幽霊という存在は別に珍しくもなんともない。
普通に街でも見かけるし普通に生活している。誰でも普通に接する事が出来る。本当に“普通”の隣人だ。
だがあえて補足させてもらうとすれば、彼等は昔で言う霊魂であったり、恨みをもって化けて出る悪霊……とは全くもって別物だ。
――彼等は産まれた時から『幽霊』という一つの種族である存在なのだから。
人間とは異なる種族。そういった別の生き物が今の世の中、溢れるくらいに存在し、人と共存している。
熾乃たちが住む街『奏弦市』(そうげんし)』には、それが如実に表れている。人間を含めた、複数の種族が暮らす都市。
多少なりとも衝突はありはすれど、それなりに仲睦まじく共存をはたしているが――、
「ん? ちょっと待ってて……所長さんから電話だ」
――まぁ、今はその話しはいい。それよりも進展があったみたいだ。アゼルの携帯から着信音が鳴り響いた。
どうやらあのワンマン所長からのようだ。
上着の胸ポケットから電話を取り出してからのやり取りした時間はほんの数秒。通話を切ったアゼルは神妙な面持ちで口を動かした。
「……当たりだよ。峠の下に配置していた検問所にいる所長さんからの連絡。警官の職務質問を振り切った大型の4トントラックがこの国道に進入したって……もうじきここに来るね」
アゼルの報告に熾乃は「ようやくか……」と肩をすくめた。
とりあえず待った甲斐はあった。出来る事なら早く終わらせたいものだ。
自分は明日……というか、正確に言えばあと数時間もしたらだが、学校がある。遅刻なんてしたくない。
――だから。
今、遠くに見える猛スピードで峠の坂道を駆け上ってくるコンテナを積んだ大型車両を迅速に止め、犯人を速攻で捕まえ、積み荷を確保しなければならないのだ。
「さて、お仕事の時間だね。まずはあの暴走マシンさながらの勢いで走るトラックを止めないとだ。任せたよ……“ダンピール”」
「……うっせぇよ」
そう悪態をついて、熾乃は道路の中心に立った。距離は離れているがここからでも充分にトラックを認識出来ている。
……だとすれば、それは向こうも同じ筈だ。
にも関わらず、積み荷を乗せた車両は一向に減速する様子はない。
「止まる気はサラサラない、って訳か。積み荷を運ぶ為なら一人くらい轢いてもいい、って腹みたいだな」
「言っておくけど、積み荷の事もあるから出来るだけ穏便に止めておくれよ?」
「……そいつは向こうの出方しだいだ」
けどまぁ、やることは変わらない。少し手荒になるがああいう手合いにはちょうどいいやり方だ。
トラックが目と鼻の先にまで迫る。
熾乃は後ろに下げた左足に軽く力を入れ、開いた右手を前に突き出した。
こっちの準備は整った。あとはこのまま待てばいい。そうすればトラックと自分が接触した時――
――こっちの強度に耐えきれずに向こうが勝手にブッ壊れる。
「っ!」
そしてついに暴走車両と熾乃の右手がぶつかり合った。
静寂の夜空に轟く衝突音。
それは硬度の高い壁にでも激突したかのような、ガラスが砕け、金属がひしゃげる音。
そう……熾乃の予想通り、大破したのはトラックの方だった。
熾乃は身一つで、推定時速100キロは出ていたであろう4トンのトラックを止めたのだ。
激突の衝撃で浮いていた後輪がガタンッと大きな音をたてて道路に荒々しく着地する。
壊れたクラクションが静かに鳴り響くトラックの前面部は大きく凹み、中心には熾乃の右手が突き刺さっている。
「あいよ、一丁上がりっと」
トラックから右手を引き抜き、腕を軽く振って感覚を確かめながらアゼルのもとへ戻る。
特に目立った外傷というものは無いが、強いて挙げるとすれば右腕がピリピリ痺れてるくらい。
――まぁこの程度なら気に留める必要もないだろう。
大破したトラック。
底に穴が開いたバケツみたいに、燃料タンクからジャバジャバとガソリンが漏れ出す壊れっぷり。
その惨状に流石のアゼルも苦言を呈した。
「あ~あ……派手にやっちゃってまぁ。穏便にって言ったはずなんだけどな、僕は」
「向こうの出方しだいだって言ったはずなんだけどな、オレは……それよりも、奴さんのお出ましだ」
トラックの歪んだドアを内側からぶち破って、車からヨロヨロと二人の男が降りてきた。
一人はラフな格好で鼻ピアスにスキンヘッドの、熾乃が思うに粋がっちゃってる系の若人。もう一人はしわくちゃのローブを羽織る、だらしなく伸びきった無造作な髪型の初老。
出てきた男たちは共に、膝をふらつかせて足取りがおぼつかないでいる。どうやらぶつかった時の衝撃が足にきているようだった。
「うっ……クソぉどうなってんだよ……て、テメエら……いったい何をしやがった!? 俺達の邪魔しやがって……どこのモンだテメエらはっ!」
スキンヘッドの男は敵意をむき出して熾乃とアゼルに噛みついてくる。
だがどんなに凄んでいても両足を小刻みにガクガクと震わせていては、それも滑稽だ。
「どこのモンだ、って言われてもなあ……まぁ強いて言うとオレらは、下にいるお巡りさん達にアンタら密輸犯を捕まえるお手伝いを頼まれた業者……ってとこかな」
「業者だぁ!? っざけんな! ようはサツの仲間だろうがっ!」
「まぁ間違っちゃいねえわな。何の因果か警察の手先ってヤツだ。悪い事は言わねーから大人しく捕まった方が身の為だぞ。アンタだってつまんねえ事で怪我したくねえだろ?」
「っ、テメエ……!」
熾乃の忠告にスキンヘッドの男の形相が更に険しくなる。
男は熾乃をキツく睨み付けたまま右手を後ろに回すと『何か』を引き抜き、それを熾乃に向けた。
「このクソガキ!」
激昂する男の手には自動式拳銃、9ミリ口径のベレッタが握られていた――恐らくは護身用にズボンの腰回りにでも隠して持っていたのだろう。用意周到な事だ。
銃口を向けるスキンヘッドの男の表情からは何の躊躇いも感じない。本気で熾乃を撃とうとする狂気じみた意思だけが如実に表れていた。
「ナメてんじゃねえぞゴラァアアアッ!」
男が引き金に指をかける。
――だが男が発砲するよりも先に熾乃は動き出していた。
服の内側に忍ばせておいた刃渡り40センチの細長い、銀で造られた短剣を袖口から滑り出して右手へ。そのまま一気に接近し男の持つ拳銃を狙って――、
「――っ!?」
――一閃。
振り下ろした短剣が、まるで溶けかのバターにナイフを入れるようにスッと、狙い通りに拳銃の砲身を切り落とした。
一瞬の出来事に男の表情が凍る。あんぐりと開いた口からは一片の言葉も紡げず、見開いた両目に写るのは、自分を絶望の淵に蹴り落とした……人の皮を被った“恐怖”の姿だった。
「だから言ったんだ……大人しく捕まった方が身の為だって」
人の忠告は素直に受け取れバカ野郎。その意味合いを込めて、熾乃はスキンヘッドの男の胸部を力一杯蹴り飛ばした。
熾乃が放った蹴りは大の男が宙に浮くぐらい凄まじく、後方にある破損したトラックに叩きつける程の威力だった。
身体が吹き飛ぶ蹴りとトラックに激突した衝撃。その二つの要素が合わさった結果、スキンヘッドの男は崩れるように道路の上に倒れて気絶した。
「さて、まずは一人、っと。あとはアンタだけだぞ。おっさ……ん?」
密輸者の片割れに視線をやると、足をふらつかせながら、しかし急いで走る初老の男の後ろ姿が映った。
この期に及んで逃げる気か。
とも思ったがどうやら違う。
初老の男が向かった先はトラックから漏れたガソリンで一杯の、鼻にツンとくる黒い水溜まり……元い、油溜まりだった。
初老の男は油溜まりの前で膝をついた。そしてローブのポケットから折りたたみのナイフを取りだし、それを使って左の掌を徐に切りつけた。
「くっ!」
初老の男が切った手をギュッと強く握りしめると、手の内側を伝って血が油溜まりの中にポタポタと滴り落ちていく。
いったい何をしているんだ、あの男は?
「へぇ、そう……“そうやって”やるんだ」
隣にいたアゼルが何か納得したかのように言葉を漏らしているが、こっちは全く腑に落ちていない。と言うか何を傍観に徹しているんだお前は。こっちが一人黙らせている間に捕まえておけよ。
「ナニ一人で分かっちゃったみたいな顔してんのかなお前は……あのオッサンの事を知ってんのかよ?」
「知らないよ? けど顔は前に見た事があってさ。今の今まで分からなかったけど……ようやく思い出せたよ。あの人、『協会』に貼られてた『手配書』の顔とおんなじだ、って」
「キョウカイ? テハイショ? ……っ! おいまさか!」
協会。
そして手配書。
その二つの単語が、他の誰でもないアゼルの口から出たことに、熾乃は驚いた。
アゼルの言っている事が正しければ、この男はただの密輸者じゃない。警察だけでは手に負えないとても厄介な相手。
であるとすれば、男が今やっている事は……反撃の下準備だ。
「――ギグイ・マゴゥ・デュロース(生まれよ、我が忠実なる僕)!」
初老の男が“呪い(まじない)”を唱える。
男の――『使役者』の――血という触媒を孕んだ油溜まりは、意思を持たない生き物へと形を変え、新生していった。
生まれてきたのは男よりも身の丈が大きく、顔の無い、岩のようなゴツゴツとした体躯のヒトガタの怪物。元の名残か、身体はドス黒く、指先からは濁った油が次々に地面へと垂れ落ちている。
――初老の男の、いや……『魔術師』の従順な使い魔が誕生した瞬間だった。
「マジか……あのオッサン魔術師かよ。よりによってメンドクセェ。っつかアゼル! お前、思い出してたんならさっさと止めろよ!」
「いやぁ。顔は知ってたんだけど、どんな魔術を使うか知らないから興味があってさ。見てみたくなっちゃってつい見逃しちゃったよ」
「見逃しちゃったよ。じゃねえよ! っんな満面の笑みで言える事じゃねえだろ!? 余計に仕事が増えちまったじゃねえか!」
お前は! ホンットにお前はっ!
「ヒ、ヒッヒッヒ……潰せ! そいつらを捻り潰せっ!」
勝利を確信したのか、狂ったように笑う使役者の指示に使い魔は跳躍をもって答える。
熾乃とアゼルの方へ飛び跳ねてきたヒトガタの使い魔は、金槌のように膨れ上がった腕を鞭を振るが如く大きくしならせ、二人目掛けて振り下ろしてきた。
「おわぁ!?」
――咄嗟に後ろへ飛び退く熾乃とアゼル。
二人がいた場所に振り下ろされた拳は道路を陥没させた。
アスファルトを砕き、破片と轟音を撒き散らすその威力。直撃していたらと思うと正直ゾッとする。
「だぁークソ! デケェ図体のくせして身軽で馬鹿力とか、ますますメンドクセー! こう言う手合いはお前の領分だろ……何とかしろよアゼルっ!」
「う~ん、もう少し観察してたかったけど……仕方ないね」
そう言ってアゼルは上着の内ポケットから、年季を感じさせる一挺の古式銃を取り出した。
銃身に銀色の刻印が刻まれた回転式拳銃――アンティークのリボルバーを。
アゼルはヒトガタの使い魔に狙いを定め、撃鉄を起こし、引き金を引く。
カチンと金属を弾く鋭い音と共に発射された銃弾は漆黒の怪人の左胸に見事命中した。
「ヒヒ、馬鹿共が。そんな鉛玉一発で私の使い魔を倒せると思ったか!」
初老の男の言うようにヒトガタの使い魔は特に何の反応も無く、依然として健在していた。
――だが熾乃は何の心配もしていなかった。アゼルの持つ能力がいったいどんな力なのかを……知っているからこそだ。
「そっちこそ。今撃った銃弾が銅を被せただけの、ただの鉛玉だと本気で思ってる?」
「……は?」
アゼルの問い掛けに、初老の男は間の抜けた返事で答える。当然と言えば当然だが、まるでその意図を理解出来ていない顔をしている。
「“これ”を撃ち込まれた時点で……貴方の負けは決まってたんだよ」
銃弾は使い魔の身体を貫通していない。体内にまだ残存している、という事だ。
――となればここからが、アゼル=クラウリーという“魔術師”の真骨頂だ。
「――ヒュギュロス・スィダ・アラギ(水銀よ、鎖へと姿を変えよ)!」
アゼルが呪いを唱えた途端、ヒトガタの使い魔の様子が激変する。
撃たれた胸を掻きむしり、身体を上下に激しく揺らして苦しみだしたのだ。声を出せるのであれば、奇声を上げて藻掻いているだろう荒れようである。
そして――その苦しみの元凶が左胸を突き破って姿を現した。
使い魔の撃たれた胸の内側から四方八方、先の尖った銀の鎖の尖端が身体を突き破り、道路に突き刺さったのだ。
「な、な、なにぃいいい!?」
初老の男が驚愕の叫びを轟かせる。それもそうだろう。自慢の魔術で生み出した渾身の力作が、まるで張り付けにされたかのように鎖で拘束されている。どんな魔術師でも眼を疑いたくなる光景の筈だ。
ヒトガタの使い魔は鎖を引き抜こうと必死に暴れる。
だが地の根に深く刺ささった鎖の尖端がそれを良しとはしない。どんなに足掻こうがそれを引き抜く事は出来なかった。
「驚いた? 今のは水銀を加工して僕が自作した特製の銃弾でね。ちょっと呪いを唱えればどんな形状にでも変化させる事が出来る……僕だけの触媒さ」
アゼルの自慢気に垂れる御高説に、初老の男は重大な事実に気付いたが如く、呆けていた表情をハッとさせた。
汗を吹き出し、唇を震わせながら必死に言葉を紡いでいく。
「す、水銀を使う、銃使いの魔術師……! おお、お前、まさか……『魔術協会』の“魔弾の射手”アゼル=クラウリーか!?」
「へぇ、意外。君みたいなお尋ね者でも僕のことを知ってるのか。魔術を私利私欲で悪用する人に覚えられてもさ――嬉しくないね、ソレ」
「っ!?」
アゼルはまるで敵を見るような眼で初老の男に掃き捨てた。
軽蔑とは違う、殺意に満ちた暗い火が灯る双眸で睨み付けられ、男は思わず息を呑む。
「それに僕のことばっかり気にしてるけど、魔術師だったらもう少し視野を広くした方が良い……僕の相棒もけっこうヤる奴だからさ」
「な、何を言って――」
アゼルの言葉に初老の男は戸惑いを隠せないでいる。その言葉の真意に男が気付くよりも先に、
「――そう言うこった」
熾乃の振るう銀の短剣が、ヒトガタの使い魔の首を跳ねた。
宙を舞う頭に電池が切れたように動かなくなった胴体。
二つに枝分かれしたかつての使い魔は、程無くしてその活動を停止させた。
「失せろ、デカブツ」
だがそれは熾乃にとって予期せぬ事態を招く引き金だった。仮初めの命を失った使い魔は、元々の形へと姿を還る。となれば当然、
「……へ?」
残骸は元の形である、悪臭を放つ炭化水素の液体……つまりは車のガソリンに戻る訳だ。
パシャンと水風船が弾けるみたいに目の前で首と胴がガソリンに巻き戻る光景に、熾乃はなんだか不幸な予感がした。
その予感は大当たり。何故なら、使い魔からの最後っ屁とも言えるガソリンを、バラエティー番組でバツゲームを受ける芸人よろしくで、滝のように頭から被ってしまったのだから。
「くっさっ!? くっせっ!? うぉお鼻キッツッ! くっさぁああ!?」
案の定、と言うか当然。
ガソリンを全身に浴びてしまったが為に、服にまで鼻の奥をズンと刺激する、アルコールランプを発酵させ過ぎたような酸っぱい臭いがこびりついてしまった。
ある意味この状況は拷問だ。
臭い。
もう全てが臭い。
最後の最後でなんて一撃をかましてくれたんだ。こんな隠し玉を持っていたなんて。
――と言うか、
「いや~見事に油まみれだね~。まさかこんなことになっちゃうとは僕も予想出来なかったよ。ホント災難だったね~」
……わざとらしすぎる。口では案じているが、身体が心配していない。
アゼルは一歩も近付こうとしてこないのだ。それどころか一定の距離を保ち、こちらから近づいてもサササッと遠ざかっていく。
「おい、アゼルっ! お前こうなる事が分かっててオレにトドメを刺させるような台詞を吐きやがったな! 見ろよコレ! 服にまで染み付いちまったじゃねーか!」
「イヤだなあ、ヒドイ言いがかりだよ。僕にだって、こうなる事が起きるとは予期出来なかったさ……あと、出来るだけ近付かないでくれる? 臭いから」
「お前はぁあああ! ホンッッッットにお前はぁあああ!」
熾乃の魂の叫び! ……しかしアゼルには効果がないようだった。
熾乃を無視して歩き出したアゼルの先には初老の男の姿があった。
男は四つん這いになってソロリソロリと、自分達に気づかれぬようにトンズラしようとしている最中だった。
「――何処に行くのかな?」
「っ!?」
だがそれをアゼルが許さなかった。後頭部にリボルバーの銃口を突きつけて男から自由を、命の決定権を奪う。
「君達の負けだよ。警察の人達が来るまで大人しくしててもらうからそのつもりで……それが嫌なら……」
「い、嫌なら……?」
アゼルは口角を吊り上げてニヤリと笑う。
「そうだな……君の両足を撃って動けなくするっていうのも良いかな。あとは……さっきの使い魔とは違うけど、そのどてっ腹に弾を撃ち込んでハリネズミみたいに変化させる、っていうのも悪くないね」
「じょじょ、冗談だろ!?」
「冗談でこんな事は言わないよ。君が馬鹿じゃなければ僕がさっき言った言葉の意味が分かると思うけどさ……」
アゼルの口から出た言葉はとても暗く、とても冷たいモノだった。
「……僕はね、魔術を、魔術師の力を、自分の利益の為だけに使う奴が大っ嫌いなんだ。大衆の為ではなく自分だけの為に使って人々を不幸にする。そんな奴はいなくなってもいいと、死んでもいいと思ってる。それくらいにだ……だから」
アゼルがゆっくりと古式銃の撃鉄を起こす。死刑執行の合図を後頭部で感じとった男の顔から大量の汗が吹き出し、それと同時に大粒の涙が零れ落ちた。
――そろそろ限界だな。
これ以上この膠着状態が続けば本当にアゼルは引き金を引いてしまう。男に助け船……と言う訳ではないが、最後の一押しといくか。
「おいアンタ、悪い事は言わねーからコイツの言う通りにしておいた方が良いぞ……コイツ、ホントにヤるから」
「っ!? わ、分かった! 言う通りにする……だからい、命だけはっ!」
「……だとさ?」
「……最初っから素直にそうしてれば良いんだよ」
そう言ってアゼルは銃を下ろした。どうなる事かと思ったが、とりあえず最悪の事態は回避する事はできた。
――そして、
「仕事完了、だな」
「……そうだね」
何はともあれ、これで警察から請けた依頼は……『嵩嵩探偵事務所』が請けた密輸犯の捕獲と国外への物資横流しの阻止は無事完了。あとは下にいる警察が来るのを待つだけだ……にしても、
「…………油くせぇ」
この臭い、はたして落ちるだろうか?