京への旅路
「総司!」
ふと私は目を開けた。すると、土方さんが腕を組みながら私の顔を覗きこんでいた。私はといえば、どうやら壬生寺の境内の木陰で居眠りをしていたらしい。そこまで長い時間居眠りをしていたつもりはなかったけれども、どうもお尻が湿っぽい。地面の湿り気が伝わってきたのだろう。
土方さんに気づいた私は、にこりと微笑むと「なんです?」と声をかけた。
「なんです……じゃねぇよ。何やってんだ、こんなところで! いくら非番だからって、無防備すぎやしねぇか?」
「えへへ……」
「何が、えへへ……だ!」
土方さんが迎えに来てくださった。それも、私のことを心配してくださっている。そのことがとても嬉しかった。加えて、先ほどの夢だ。実に懐かしい夢を見た。まだ江戸に居た頃の夢。あのときは、まさか浪士組を募った清川八郎が裏切り、私たちと芹沢鴨一派だけが京に残るなんてこと、想像もしなかった。道中芹沢先生とは色々あったし、今も芹沢先生の暴挙ぶりには、土方さんは頭を悩ませているけど。
「土方さん、昔の夢を見ていました」
「あぁ?」
土方さんは、一向に立とうとしない私を見下ろす形で、未だ腕を組んでいる。私と違って男前だ。二本差しも実によく似合っていると、こころから思った。
「試衛館、最後の夜です」
「縁起でもねぇことを抜かすな。試衛館はずっとある。江戸にも、志なら、京(此処)にも」
私は、はっとなって目を見開いた。そうだ。土方さんの言うとおりだ。何を私はのんきに構えていたのだろう。何を憂愁に浸っていたのだろう。
「すみません、土方さん! 私、どうかしてました!」
「お前がどうかしているのは、今にはじまったことじゃない」
今度は土方さんが笑って見せた。その笑みにふと安堵した私はようやくその場から立ち上がった。
そういえば、土方さんが屯所から出てくるなんて珍しい。何かあったのだろうか。何かあったとすれば、また芹沢先生の関係なんだろうけど……私は土方さんの目をじっと見てたずねてみた。
「土方さん。ただ私を、迎えに来たわけではないのでしょう?」
土方さんは、神妙な面持ちで私に耳打ちした。それは、決して隊内に漏らしては、いえ、漏れてはいけないことだった。
「……わかりました」
私は、短くそう言うと、足早に壬生寺の隣にある屯所に戻った。動揺しているつもりはないが、おそらく自覚がないだけで、少なからずはしたのだろう。でも、覚悟はしていた。いつかは、こうなるときが来ると……。
『芹沢を斬る』
今のこの浪士隊には、ふたりの局長が居た。私の大好きな近藤先生。そして、芹沢先生だ。芹沢先生は天狗党の一派らしくて、腕は確かに立つ。強引なところもあるけれども、強さでいったら、押しもあるしなかなかのものだ。私のような近藤一派がいるように、芹沢さんにも新見さんを筆頭に、芹沢一派がいる。そんな芹沢先生一派をこの度、綺麗に洗い去ろうというんだ、土方さんは。
芹沢先生は、隊で禁じられている金銭の貸し借り(……というより、借りる一方)並びに、あるときには関取と斬りあいまでしてしまうひとだ。京の警備という守護職ならぬ働きぶりといったらもう、拍車がかかる一方。近藤さんは、芹沢さんの腕も買っていたけれども、土方さんとしては、さぞ面白くなかったであろう。これまでよく耐えていたというものだ。
しかし、隊の多数のひとが芹沢先生を嫌っていたけど、私はそこまでこのひとを嫌いになることは出来なかった。それは、私の甘さなのかもしれない。でも、芯から悪いひとではないと思うんだ。
「おう、総司!」
「芹沢先生」
屯所に戻るなりいきなり、今一番会いたくなかったひとに声をかけられ、一瞬どきっとした。でも、決して顔には出さない。それが誠の武士だと私は思っている。
「お前も一杯やらんか?」
まだ昼下がりだ。そんな時間からかなり出来上がっている模様。これを見て、土方さんは嫌気が差し壬生寺まで来たのだろうか。でも、こんなことだって日常茶飯事だ。むしろ、平穏なときがあるほうが珍しい。
「私はお酒はあまり……甘味が好きなんです」
「そうだったな。ならばこっちで饅頭でも食べていろ」
芹沢先生は、近藤一派であるのにも関わらず、私には優しかった。
京に上がる途中、近藤先生が芹沢先生の宿だけを取り忘れてしまったという事件があった。もちろん、意図的なものではなく、本当にただ取り損ねてしまっただけなのだ。しかし、芹沢先生は気分を相当に害したのだろう。夜風に当たりながら外で一夜を明かすと言い出したのだ。それだけならまだしも、周りの家の戸板やらを燃やし始め、盛大な炎を巻き起こしてしまった。
そんな中、近藤先生も土方さんも事態の収束に策をめぐらせていたようだけど、私はそのことにはてんで気づかず、ただ盛大にやっているなぁ……と、芹沢さんに近づいてしまったのだ。
「やぁ、見事な炎ですねぇ」
「なんだぁ、お前は!」
炎は思いのほか大きく燃え上がっていた。このままでは、大火事にもなりかねない。そんなことをきっと、近藤先生方は心配されていたのであろう。しかし私は、その場に座り込んで手を火にかざした。
「あったかいですねぇ。でも、部屋の中の方があったかいですよ?」
「無礼だぞ! 貴様、何奴!?」
芹沢先生の腹心の新見錦さんだった。私は、炎をぼんやり見上げながら名乗った。
「近藤先生をお慕いする、沖田総司といいます」
「沖田……聞かぬ名だな」
「総司、下がれ!」
土方さんの怒声が響いた。何をそんなに怒っているのかが、私には理解できない。私は芹沢先生の顔を見上げた。別に意味はない。こんな至近距離で会話したことなどなかったから、どんなひとなのかとふと見てみただけだった。無邪気に笑みを浮かべる私を、芹沢先生は面白い奴だと捉えたらしい。
「剣の流儀は?」
私は誇らしげに答えた。小さな道場で、名も知れない流儀だろうけど、私が九つから学んでいた剣術だ。恥じるものでは決してない。むしろ誇りだ。
「天然理心流ですよ」
「同じくして聞かぬ名だな」
「でしょうね」
私はくすくすと笑いながら炎の先端を見上げた。このままだと、空まで届いてしまいそうだ。燃えあがる炎は、これから京都で会津藩御預かりの浪士組を結成しようとする若者たちの情熱を表しているようにも見えた。
「炎は確かに綺麗です。でも、そろそろ止めにしませんか? 本気で風邪を引かれますよ? 私は部屋に戻りますから」
そういって立ち上がると、私の首もとに冷たい感触を感じた。ついでに殺気も感じ取る。けれども、いたって私は冷静だった。
「沖田とやら。芹沢先生に対して無礼であるぞ! 斬り捨ててやる!」
私はうっすらと笑みを浮かべると、無駄のない動きで新見さんの刀から距離を置くために左足を軸に回転すると、同時に柄に手をかけ抜刀した。その切っ先は新見さんの刀を退け尚且つ刃を滑らせ相手の喉もとに刃を付きたてた。もちろん、殺す気なんてない。
「総司、いい加減にするんだ!」
大慌てで飛んできたのは、血相を変えた近藤先生だった。それを見て、ついつい私もやりすぎてしまったと反省し、潔く刀を鞘にしまい、新見さんにまずは一礼し、ついで芹沢先生にも頭を深々と下げた。
「すみません、つい……あの、やっぱり不快でしたか?」
芹沢先生は、興味深いといった目つきで私を見ていた。芹沢先生の目に私がどう映ったかなんて、興味はないけれども、腰をどっかりと下ろしていた芹沢先生は急に立ち上がり、私の方に歩み寄ってきた。
「近藤さん。今回の件は水に流そうではないか。大人しく新たに用意されたし部屋にて休もう。しかし、この沖田くんを借りるぞ。それが条件だ」
「えっ……しかし」
私は、こころから喜んだ。何も考えてはいなかったけれども、どうやら事がまるく収まりそうではないか。芹沢先生と部屋をご一緒するくらい、別に私は何とも思わないし、それで近藤先生の手配ミスが水に流されるのならば、私にとってこれほど嬉しいことはない。近藤先生のお役に立ちたくて、ずっと傍で生きてきたのだから。
「近藤先生。一晩芹沢先生にお仕えするだけですよ」
私はうろたえる近藤先生に向かって、心配は要りませんとお伝えすると、今度は芹沢先生に向かって、笑みを浮かべた。
「私はお酌程度しか出来ませんけど、それでもよろしいですか? 芹沢先生」
「構わん、構わん。さぁ、宿に行くぞ!」
土方さんは、何だかぶつぶつと毒づいていたけれども、それはまぁ、いつものこと。私はへらへらと芹沢先生の後について、宿へと入っていった。
この盛大な焚き火の火消しの役割は当然というのか、近藤先生筆頭に、試衛館のみんなでしたということを後になって聞いた。
私はというと、本当にただひたすらお酌をしながら、芹沢先生が宿主に運ばせた干菓子をあむりあむりと口にほおばっていた。お酒が進むと芹沢先生は上機嫌になるらしい。次第に私のことを「総司、総司」と呼び始め、一緒に酒をと勧められた。
しかし、私は本当にお酒はあまり飲めないのだ。全くの下戸というわけではないのだけれども、酒に酔って剣の腕が鈍ることを恐れていたのかもしれない。
「芹沢先生。芹沢先生はどうしてこの浪士組に志願されたんですか?」
酒から逃げようと、私は話題を変えてみた。夜風が戸の隙間から流れ込んできて、少々冷え込むが、やはりあのまま外で焚き火をして過ごしているよりは、ずっとよかったとしみじみ感じた。
「恐れ多いぞ、沖田!」
「えぇ? 普通の会話じゃないですか」
芹沢先生は、完全に出来上がっていた。顔は真っ赤。私の肩に腕を回して杯にもっと酒をと言わんばかりに目で訴えてくる。芹沢先生は私なんかよりもずっと体格がよく、力も強い。私はよく優男のひらめ顔と言われるが芹沢先生は実に男らしい。しかし、そんな芹沢先生も、今はいつもの威厳ある顔立ちではなく、どこか優しい雰囲気を持ち合わせていると私は感じ取っていた。
「構わん、錦。この荒れ狂う天下の中、名声を挙げてやろうという魂胆さ」
「わぁ……立派な夢ですね」
私は思わず感心した。名声を挙げるだなんて、私は考えたこともなかった。ただ、近藤先生と土方さんの夢を護ろうと、そう思って付いてきたようなものだったからだ。己の意志がないといわれれば、そうなのかもしれない。
思ってみれば、私はこれまで自分の感情というものを、あまり考えてもみなかった。目の前に、背中の大きなふたりが居るから、その後をついていけばいいのだと、そればかり思っていたのだ。もちろん、それが私の生き方であるし、剣術を通して身につけた私なりの武士道だとも思っている。だからこそ、私は私の気持ちなんてどうだっていいんだとも、このとき覚った。
「ありがとうございます、芹沢先生」
「何を礼など言っている、総司」
愉快そうに芹沢先生は笑っていた。そんな先生を見て、私もにこりと微笑み、自分の分の杯も取り出した。
「一杯だけ、いただきます」
そうして、夜は更けていきました。