第漆話「ロリババア、冷める。」
「出てくるな……邪竜……!」
必死に力を抑え込もうとしている少年に対して瑟は抗議の声をあげる。
「何をしておる小僧! 力を弱めるでないわ!」
瑟の桜花結界の最後の五枚目にもひびが入り、いつ邪竜に食われてもおかしくはないのに、この妖狐は力を弱めるなと言う。だが、少年の頑張りがあってか、瑟の希望とは逆に邪竜の力が弱まり、彼の体の中に戻っていく。
『あーあ、もう終わりかよ』
邪竜が完全に少年の中に戻ると、辺りには木々のざわめきや心地よい風の音が戻ってきた。もっとも、彼女らの周囲の木々や草花は吹き飛んでしまっていたが。瑟が桜花と呼ぶ鉄扇を畳んで袖にしまうと、最期に残った五枚目の結界も桜の花びらとなって散っていく。
睨むように少年を見るが、彼は意識を失って倒れていた。今なら簡単に殺せるだろう。
だが瑟は彼に手を出さず背を向ける。
「……興がさめた。引き上げるとしよう」
瑟が後方にいるゴブリンたちに呼びかけると、残った森から観戦していたゴブリンたちがおずおずと出てくる。
「私たちは、勝ったのですかリン?」
「そうじゃ。勝ちも勝ち。大勝じゃ」
瑟としては煮え切らない物があったが、ゴブリンたちの自衛としては成功しているのだ。これは立派に勝利であろう。
「でもオレたち、瑟に任せっきりだったリン……」
自分たちは何もしていないと肩を落とすゴブリンたちに瑟は優しく微笑みかける。
「何を言うか。確かに異世界の戦士とやらを退けたのは儂じゃ。だがな、その儂を味方に引き入れたのは誰じゃ? あやつの正面に立たせる気にしたのは誰じゃ? 見ず知らずの儂に酒と飯を振る舞ってくれたのは誰じゃ?」
諭させるように言う瑟の声には母性が宿っていた。こんなお子様な形だが、これでも二児の母なのだ。
「強さはなにも武力だけではない。他人を気遣う心もまた強さじゃ」
優しげな黄玉の瞳でゴブリンたちの肩を軽く叩く。
「さあ、帰ったら酒盛りじゃ。昨日とは違う勝利の宴じゃぞ。豪勢な食事が必要じゃ。おぬしらは先に戻って準備をしておいてくりゃれ」
凱旋する彼らを見送ると、瑟は剣を持ったまま気絶している少年の襟首を片手で雑に掴み上げ、引きずりながら浜へ向かっていく。
〜・〜・〜
「隊長……。さっきの黒い竜はなんだったんですかね……」
「知るか。それよりもあのクソガキはまだ戻ってこないのか。『俺一人に任せろ』とか大口を叩いていたが、森の中でくたばっているんじゃねえのか」
そんなことを言いながら浜で待機していた五百人は、森の中から現れた見慣れぬ格好の褐色幼女とそれに引きずられる少年を見てひどく驚いた。
「儂は倉稲瑟という妖狐じゃ。此奴は儂と戦って敗れた。貴様らは此奴を持ってさっさと帰れ。そして、貴様らの主に伝えよ。二度とこの島に近寄るなとな」
混乱している兵士たちに向かって乱暴に少年を投げ渡し、踵を返す瑟を呼び止めるものがいた。
「待ちな」
瑟の足が止まる。
「お前がこのクソガキを倒しただと? クソガキより子供のお前がか?」
野太い男の声に、瑟は面倒くさそうに振り向く。
「そうじゃ。なんじゃおぬし、不服なのかや」
「ああ、不服だな」
「隊長、止めましょうよ……。そうやってあいつにも負けたじゃないですか。それにさっきの黒い竜みたいな化け物が出てきたら……」
「黙ってろ!」
部下を殴りつけて黙らせると、瑟の方へ大股で近づいてくる。
「儂の住んでいる国にはこのような諺があってな、おぬしのような奴を独活の大木というのじゃ。図体ばかりでかくて何の役にも立たんという意味じゃ」
その言葉に激怒した男は剣を抜き放ち、瑟に切りかかる。先ほどの少年より圧倒的に鈍い剣だ。目を瞑っても当たるはずもない。避けるのも面倒なので手刀で剣を叩き折る。
「儂が好きなのは強者との戦いじゃ。雑魚に興味はない。いいから早う帰れ」
しっしっと手を振って瑟は背を向けてゴブリンたちの待つ宴の会場へと足を進める。
するとその時。後ろから鉤爪の付いた縄が飛んできて瑟の小さな体を雁字搦めに縛り上げた。
「お?」
そのまま引っ張り上げられ、身動きが取れぬまま空中に放り投げられる。
「調子こいてんじゃねえぞ! アースクラフト・アックス!」
男が魔法で地面の土を巨大な斧の形に錬成すると、引き寄せた瑟に向かって思いっきり振り抜く。しかし、およそ体を切断したとは思えない、まるで大岩でも切断しようとして失敗したかのような衝突の音が鳴り響く。
信じられない光景に彼らは目を見張る。それもそのはずだ。切断されるはずの褐色幼女が、白い八重歯が覗く小さな口を開けて土の斧に噛みついて止めているのだから。
「ふふい」
瑟は土の斧を噛み砕き、自身を縛る縄を力任せに引きちぎる。着地したかと思うと即座に飛びかかり、男の兜を蹴り飛ばし、勢いを殺さぬまま空中で回転して返す足で男の顎も蹴り抜く。彼の脳は激しくシェイクされ、一言も発せずに砂浜に倒れ込む。
「まずは内面から磨くことじゃな。相手の力量も測れぬようでは話にならん」
浜の太陽に似合う褐色肌の幼女は、固まったままの兵士たちを一瞥する。
「帰れ。二度と近づくな」
「は、ハイ!」
瑟の命令に素直に従って彼らは異世界の戦士と隊長らしき男を大きな帆船に乗せて海へと逃げていった。
帰る場所、か。
そう呟いて瑟は浜を踏み締めて森の中へ戻っていく。
「というか、儂はいつになったら帰れるのじゃ?」