第拾陸話「ロリババア、逃げる。」
二人の姿が消えた瞬間、闘技場内に爆音と暴風が吹き荒れ、観客たちは残らず吹き飛ばされて場内を土埃と桜の花びらが支配する。王のいる場所は、魔道師たちの結界に守られているので、吹き飛びこそしなかったものの、彼のたるんだ肉が揺れるほどの強い風を受ける。
「棗君!」
「瑟さん!」
二人はお互いの仲間に呼びかけるが、もうもうと立ちこめる砂埃の中から声は返ってこない。
桜の花びらが消え、砂埃が晴れると、先程まで頭上にあった月も無く、ぼろぼろになった闘技場には太陽の光が降り注いでいる。
そして、闘技場に両の足で立っていたのは、白耳と黒尾に巫女装束と鎖を纏った褐色幼女の倉稲瑟だった。
「素晴らしい!」
王が興奮した様子で席から立ち上がって拍手を送る。
「やはり余が見込んだ通りだ」
アナスタシアが、元の黒髪に戻って倒れている棗と、人の姿になって折り重なるように倒れているカリンを抱き起こし、二人の心臓の鼓動を確認すると安堵の息を漏らす。三角帽子も瑟に歩み寄っていく。
「やりましたねリン!」
「もちろんじゃ。あの様な若造が儂に敵うものか。こいつらも頑張ってくれたしのう」
『……楽しかったけど、疲れた』
『姐ぉ。俺も久々に暴れて疲れた。さっさと帰って酒でもかっくらって寝ようぜ』
「お前たち、ここに来たもう一つの理由を忘れておるのか。あの豚と話をつけねばならんのだぞ」
瑟は壇上から見下ろしてくる王に一瞥をくれる。
「人の王よ。約束は守ってもらうぞ。もう二度とゴブリンたちの島には近づくな」
瑟は桜花を袖に、月光を鞘に収めて腰に佩いて身なりを整える。
「ああ、もちろんだとも」
王が嫌らしい笑みを浮かべて指を弾くと、側に控えていた魔道師たちが瑟たちに向かって手を伸ばす。
すると、瑟たちを包むように白い魔法陣が展開され、アナスタシアと三角帽子は地面に押しつけられてしまう。
「キャ!」
「グッ!」
膨大な魔力で押さえ込まれ、指一本すら動かすことができない。
「こ、これは封縛陣……。棗君を拘束したものと同じ……」
「ハメられたのですねリン……」
「ふん。どうせこんなことだろうと思っとったわ」
棗ですら押さえ込められた結界の力を受けても平然と立っている瑟に王は目を見開く。
「この程度の結界なぞ、主様のに比べたらそよ風以下じゃ!」
腰に佩いている月光を鞘ごと抜いて鐺(鞘の先端部分)で地面を一突きすると、今まで彼女たちの周りに展開されていた白い魔法陣が霧散し、押さえつけていた束縛が消える。
「なにっ!?」
王が驚いている間に瑟は既に闘技場から飛び出し、VIP席の前まで来ている。
「王をお守りしろ!」
大臣が指示を飛ばして近衛兵に剣を抜かせ、魔道師たちに守護の結界を出させるが、瑟が袖を振って桜花を取り出して一振りすると、結界もろとも魔道師と近衛兵は桜吹雪に吹っ飛ばされる。
大臣が落ちている剣を拾って王と瑟の間に立ちはだかった。
「近寄るな化け物!」
「……人を呼びつけておいて寄るなとは何じゃ。儂は主様から人の礼儀を教えられたが、そんなことは聞いたこともないぞ。お前たちは、人ではないのかや?」
「――王様、お逃げください!」
なおも近づいてくる瑟に向かって大臣は切りかかるが、当然ながら軽くあしらわれて横に蹴り飛ばされる。王は段を上ってくる瑟だけをただ見つめている。
「人の王よ。お前は約束を違えた。人としての礼節を忘れ、やってはならぬことをした。その報いは受けてもらうぞ」
桜花を袖に仕舞い、月光を抜いて一振りすると空気の斬れる音がする。その光景に王は恐怖するよりも、褐色の肌を持つ巫女装束を纏った瑟と冷たく輝く月光の美しさに心を奪われていた。
「なんと、なんと美しいんだ……。その剣も、お前も!」
太陽を背にする瑟の顔には翳りがある。
「……お前は醜いな、王よ」
「欲しい! なんとしても欲しい! 余の物になれ!」
目の前まで迫ってきた瑟に指輪を散りばめた太い手を狂ったように伸ばす。しかしいくら手を伸ばしても瑟に届かない。不思議に思う王が自分の腕を見てみると、意志とは関係なく垂れ下がる腕に違和感を覚える。
「臭い手を近づけるな。鼻が曲がる」
攻撃の瞬間すら見えずに折られた腕からは白い骨が飛び出して骨髄から液体が染み出ている。
「アヒ、ひっひいいいいい!」
情けない声を上げてのたうち回る王を瑟は黄玉の瞳で見下ろす。
「殺しはせん。お前に月光で斬る価値などないからな。だがな――」
月光を鞘に収め、今度は足を蹴ってこちらも骨を外気に曝させる。
「ぎゃあああああ!!」
「儂はな、冷めた鍋物と約束を破る奴がこの世で一番許せん。一度結んだ約束は死んでも守り通せ。できぬ約束なら軽々しくするな」
仰向けになって弱々しく息を漏らす王の顔のすぐそばを、白足袋に漆塗りの下駄を履いた足で階段にめり込む程に踏み締める。
四肢を折られた痛みと絶対的な恐怖で王は今にも気を失いそうだ。しかし、それでも意識を保っているのは、瑟が欲しいという飽くなき強欲のなせる力なのだろうか。
「欲しい……お前が、欲しい……」
「……二度とあの島に近づくな。お前の後の世代にも必ず言い伝えろ。もっとも、後の世代につなげられるかは分からぬがな」
瑟は足を階段から引き抜いて一歩下がると、醜悪な面の王の股間を思い切り蹴り上げる。明らかに何かが潰れた感触が足の甲に伝わる。一個潰れたのか二個潰れたのかは分からぬが、運が良ければ残っているだろう。
叫び声すら上げられずに白目をむいた王が泡を吹いて倒れ込むと、瑟は踵を返して闘技場に降り立つ。そして、三角帽子とカリンを小脇に抱え、アナスタシアを背負い、棗を口でくわえて闘技場の外へ一足で飛び出していく。後ろで起きあがった大臣が近衛兵達に瑟を捕らえるよう喚いているが、四人を抱えたまま屋根の上を軽々と飛んでいく彼女を捕まえることなどできなかった。
17/04/02 文章微修正(大筋に変更なし)
17/04/05 文章微修正(大筋に変更なし) 長いので分割。




