第十話 囚人のジレンマ
囚人のジレンマとは、自己の利益を優先する者が複数いた場合に、個々が最終的に不利益を被るように設定したゲーム理論である。
ソラは、よく引き合いに出される囚人に対しての司法取引を、チャフ達に説明した。
「なんだか良く分からんな」
ゼズが困惑顔で唸る。ゴージュやコルも同様だ。
チャフは諦めずに腕を組み、難しい顔をしていた。
対して、リュリュは理解したらしい。
「なるほど、囚人達に餌を見せて疑心暗鬼に陥らせ、口を割らせるのか」
「流石、リュリュは理解が早いな」
──時々、俺と同じ転生者かと思うぞ。
ソラは内心で呆れつつも、賞賛を送る。
「囚人とは町官吏の連中だ。不正が発覚している者も多いから、毒麦を混入した犯人に仕立て上げる」
町官吏をスケープゴートにして、ベルツェ侯爵領に向かう矛先を逸らす。
それがソラの計画だ。
未だに考え込むチャフを気にしつつ、サニアが挙手して注目を集めた。
「証拠はどうするの? ソラ様は教会に目を付けられてるから、証拠が自白だけだと、町官吏の側に付くかもしれないよ」
サニアが懸念を口にすると、ラゼットとゴージュが同意するように頷いた。
教会は、魔法使い派と懇意にしているソラを敵視している。
しかし、ソラは善政を敷いているため、信者以外からの人気が高い。
目立った失敗もなく、信者の不満は未だくすぶっているにすぎなかった。
問題は、官吏に罪を擦り付けたことが発覚すると、ソラを批判する大義名分を教会が得てしまう事だ。
くすぶっていた火種に、ガソリンを注ぎ込む結果となりかねない。
「だから、囚人のジレンマを使うんだよ」
ソラは囚人のジレンマを応用して、教会の動きを止めるつもりでいた。
意味を理解しているリュリュだけが、納得顔で頷いている。
眉間にしわを刻んで唸っているチャフを後目に、構想は進んでいく。
「子爵領における教会の権力を弱め、町官吏に首輪をかける。同時に町官吏からスケープゴートを選出する」
既に手段を考えてあるソラは、チャフに顔を向けた。
「チャフ、お前はどうする?」
ソラの問いかけに、チャフは不愉快そうに眉を寄せる。
「……不正を働く悪人相手とはいえ、罠にはめる手伝いをオレがすると思うのか?」
チャフは視線でソラを咎めた。
真っ向から受け止めながら、ソラは口を開く。
「領民を救うためならするだろう」
「領民を一時的であっても見殺しにする決断を下しておいて、綺麗事を口にするな!」
チャフが怒声を張り上げる。
目つきを鋭くしたリュリュが動こうとするが、ソラに視線で制され、不満そうにそっぽを向いた。
ソラは聞き分けが悪い子供を見るような目で、チャフを見つめ返す。
「お前の言うことは正義だな。確かに、俺は間違っている。だが、これが最善手である事実は覆らない」
正論を容易く切って捨てたソラをチャフは睨む。
微動だにせず受け止めるソラを見て、問答は無用と察したチャフは、苦々しく溜め息を吐き出した。
「……今回だけは、目を瞑ろう」
代案があるわけでもなく、ただ否定し続けるだけでは駄々をこねている子供と変わらない。
チャフは見過ごす事を約束して、ゆっくりと拳をソラに向けて突き出した。
「だが、クラインセルト子爵の間違いを正すのは、相談役であるオレの役割だ。必ず、貴様が切って捨てた正義の政策で、貴様より大きな成果を出してやる!」
チャフの宣戦布告が部屋に響き渡った。
ほう、とソラは小さく吐息を漏らした。
不意に挑戦的に笑んだソラが、部屋の面々を見回した。
「全員、今の言葉を聞いたな?」
突如、真剣な顔で立ち上がったソラは、宣言する。
「チャフとの件に関しては、各々の裁量で以って動け。俺への報告義務はない。……意味は分かるな?」
突然、自由裁量を許したソラに、チャフは怪訝な顔をする。
しかし、家臣団の反応は違った。
仕方ないなと苦笑するラゼットとゼズ、面白くなさそうに盛大なため息をつくリュリュ、困り顔ながらも「そうこなくっちゃ」と独り言を呟くサニア。
ゴージュは何故か張り切っているし、コルは自分に何が出来るか考えている様子だった。
だが、意味を理解していない者は誰一人して存在しない。
ソラは静かに握った拳をチャフの拳にぶつけた。
「やってみろ」
ソラが受けて立つと、チャフは拳を引き、無言のまま部屋を出ていった。
閉まった扉を見つめたまま、ラゼットがソラに声を掛ける。
「当てが外れましたね」
「特効薬の事か? そこまで期待してはいなかったさ。それに、これはこれで良かった」
主語が抜けたラゼットの台詞に、ソラは的確な答えを返した。
魔法がある世界ならではの治療法があるかもしれないと、ソラは期待していた。
チャフの態度を見れば、魔法治療などという都合の良い物はないと分かる。
ソラは場の面々を見回して、指示を開始する。
「ゼズは近隣の村や町を回り、麦角病の発症者の分布を調べろ。疫病調査の名目で隔離も検討する」
「了解。船を一隻と自警団から何人か借りて行くぞ」
「あぁ、持ってけ。くれぐれも、麦が原因だと悟られるなよ」
ラゼットから地図を渡されたゼズが、部屋を出ていく。
ソラはコルに視線を移した。
「料理コンテストを開催する。麦の類を使わない主食がテーマだ。宿料亭組合を使って伝達しろ。開催期間中はテーマに沿った料理を作る場合に限り、食材の購入費を俺が一部負担する」
麦角病の原因である小麦やライ麦の消費を抑える案だ。
しかし、子爵領の財政は厳しく、長期の開催は難しい。
延命処置の範囲を超えていなかった。
コルが緊張の面持ちで部屋の扉に手をかける。
知らぬ事とはいえ、ソラに麦角を食べさせていたのだ。責任を感じているのだろう。
「コル、まだ誰も死んでいない。やるべき事は何だと思う?」
ソラは静かに、コルの背中へ問いかける。
「分かっています。この仕事は僕の領分です」
いつもの気弱な様子が微塵も感じられない、しっかりとした声が返って来た。
「よし、仕事してこい」
ソラは笑顔でコルを送り出した。
残った者を見回して、ソラはベッドから腰を上げる。
「領主館を建てる際に使った職人達に会いに行く。計画に必要な物を既に作ってあるからな」
先回りして準備されていたらしい。
サニアが不思議そうに首を傾げた。
「何で、もう完成してるの?」
「……元々、官吏達を捕まえるつもりだったからな」
視線を逸らしたソラの言葉に、サニアは納得した。
だが、ラゼットはソラの口調に違和感を覚えた。
何か隠していそうだと思いつつ、ラゼットは追及しない。
──面白そうだから、後でつついてみよう。
どんな状況でも、ラゼットだけはマイペースだった。




