第四話 時限式の問題
一階にある被害の少ない部屋で、ソラはチャフと共に行商人を待っていた。
後ろにはラゼットが控えており、行商人をここまで案内するのはリュリュの役目だ。
行商人が現れる。
リュリュの豊かな胸が形作る魅惑の谷間へちらちらと視線をやっていたため、床に空いた穴に足を取られて、転びかけていた。
見た目が良いのは武器である。例え中身が科学バカだったとしても。
部屋に机や椅子はない。立ち話になることを詫びながら、ソラは行商人を観察する。
若くはない。中年にさしかかった男だ。
細面にギラリと目立つ青の瞳、整えられた髭が顎を覆っている。行商人らしさを感じる動きやすい服装ではあるが、羽織った外套の飾りボタンに注目すれば、金が掛かっている事が分かる。
その嫌みのないセンスからも、目利きのできる相手との商談が初めてではない事が見て取れた。
しかし、瞳を濁らせる欲の色を隠し切れていない。
一流か二流か、いまいち判断がつかない。それすら、行商人の筋書き通りなら、厄介な相手といえる。
──まぁ、取り繕っただけの二流だな。
握手の感触から、次に繋げるつもりのない一見客への対応をされたのを感じ取り、ソラは心の中で笑う。
この建物を見れば、修繕に資材が必要なのが理解できるはず。それは商機に他ならず、見逃してしまえるような欲のなさではのし上がれないのが行商人だ。
果たして、笑顔のまま口を閉ざすソラにじれた行商人は、生唾を飲んで口火を切る。
「本日、クラインセルト子爵の多忙を承知の上でわたくしが参りましたのは、先日この町の官吏と交わした契約の履行を求めるためだと言うのは、お聞きおよびの事と思います」
世間話をすっ飛ばし、いきなり商談に入った行商人にソラは内心で呆れていた。
前の官吏が勝手にやったことだからと、契約を反故にされるとでも考えているのだろう。
反故にされると、行商人として立ち行かない規模で損失が出ると予想出来る。
商談相手に弱みをさらけ出すなど、二流も良いところだ。
とはいえ、すでに契約は結ばれている。
権力を用いてこれを反故にするのは簡単だが、それをしたなら世の中の商人は子爵領を逃げ出してしまう。
契約とは商人の矛であり盾だ。通じない場所で商売をするのは裸で猛獣を相手取るのと同じ、それを人は蛮勇と呼ぶ。商人とは対極に位置する“お褒めの言葉”だ。
これから子爵領を復興するにあたり、商人の活動は必要不可欠である。
どんな契約かは知らないが、無碍にはできない。
「それでは、念の為に契約内容を確認しましょう」
傍目には涼しい笑顔を浮かべたまま、ソラは切り出す。
──さて、何が飛び出てくるのやら。
ソラは町官吏と行商人が交わしたという契約の内容を知らない。実際に交わされたかどうかすら、分からないのだ。
重要な書類は全て持ち出されたらしく、見つからない。不正の証拠隠滅を図ったか、嫌がらせかのどちらかだろう。
今も探索が終わっていない二階部分をゼズ達が探しているはずだ。
行商人の顔に初めて明るい色が混じった。
「確認と申しますが、契約書をお持ちではないようですね?」
舌なめずりせんばかりの獰猛な営業スマイルだ。
前町官吏が逃げ出した事を聞いていたため、ソラの様子から引き継ぎが行われなかった事を推測したらしい。
一方的な言い分を並べ、契約書を改ざんしておけば大儲けできると踏んだのだろう。
ソラは笑顔から一転して深刻そうな顔を作って頷いた。
「実はその通りです。引き継ぎもせずに行ってしまってね。打ち壊しに遭うかも知れないから、書類や契約書の類は信頼できる人物に託したとの報告は既に受けている。先にこちらに来てみたが、ほら、この有り様だ」
ソラは大仰に腕を振って周囲の惨状を示した後、肩を竦めた。
報告云々はもちろん嘘である。
後から契約書を受けとる用意があると匂わせて、行商人を牽制したのだ。
「もちろん、君が信頼されていただろう事は想像に難くない。だが、なにぶん急いでいたようだから、手頃な人物を選んだのだろう。気を悪くしないでくれよ」
「……恐縮です」
嫌みまで飛んでくるとは思わなかったか、行商人の口元がひきつった。
どうやら見た目通りの子供では決してないようだと、行商人も気を引き締めたらしい。
再び緊張と焦りの見え隠れする表情で契約書を取り出し、文面を読み上げる。
──おいおい、冗談じゃねぇぞ……ッ!
読み上げられる内容に、ソラは心の底から湧き上がる怒りを必死に堪えていたが、彼の隣にいた正義感の塊には堪えがたい物だったらしい。
チャフが、吠えた。
「ふっざけるなッ!!」
あまりに大きな怒りの雄叫びに、行商人が震え上がる。
頭に血が昇ったチャフが、行商人へ大股で詰め寄った。
「先ほどから聞いていれば、なんだその馬鹿げた契約は! この町の備蓄材木をまとめて売るだと? 金額もおかしい。材木豊富なベルツェ侯爵領でも五倍の値は付くはずだ。あまつさえ、ここはクラインセルト領だぞ? 買い叩くにも程がある!」
チャフの怒りはもっともだ。ソラが抱いているものと寸分も違わない。
行商人は鬼気迫るチャフの怒声に青い顔をしながらも、なけなしの勇気を振り絞って契約書を突きつける。
「そ、そうは言われましても、こちらは前金で町官吏様に払っているのですよ! それにこの契約は個人契約ではなく、町官吏としての権限でもって結ばれた物なんです。この町のみならず、子爵領全体の管理権限を持つ以上、監督者としての務めもあるはず。担当者が変わったから契約は反故だ、などという理屈はありませんよ!?」
半ば悲鳴が混じった行商人の言い分は正しい。
行政組織として官吏が持つ権限内で結ばれている以上、この契約は内容に関わらず正当なものだ。
無理矢理でも納得せざるを得ない。
契約の履行義務は確かにソラに存在する事を。
──とんでもねぇ置き土産して行きやがったな、あの屑野郎……!
こうして、町は一時間と経たずに、強烈な材木不足に陥った。