第一話 趣味はうきうきと。
明日、王太子の誕生日祝賀会が開かれる。
しかし“賑やかし”の自覚があるソラは新たに仕立てた礼服の試着もそこそこに護衛数人とラゼットを連れて街に繰り出した。
店先に並ぶ珍しい商品を見つけては店員に質問する。
産地はもちろん、輸送経路やかかる日数などを熱心に聞きいる姿は本当にあのクラインセルト伯爵の子供かと、街の住人に疑念を抱かせた。何かの手違いで別の子供と入れ替わったのではないかと、そんな噂が流れる始末だ。
ソラにとってはむしろ好都合である。豚領主と同一視されると人気が地の底に落ちるだけでは飽きたらず、めり込んだまま上がってこない。
クラインセルト領に届けとばかり、ソラは愛想を振り撒いて散策していたが、道の先に見えた集団につい足を止めた。
近くにいる人物の陰口でも叩いているのか、同じ方向へ視線を向け眉を顰めてこそこそと話している。
その視線が自分に向けられていないのが不思議でたまらないソラは視線を追った。
「……王都警備隊か」
王都警備隊は王国近衛隊の下部組織である王都守備隊の更に下に属する組織だ。心ない者の中には、近衛に入れる見込みのない落ちこぼれ等と揶揄する者もいる。しかし、並の領主軍より練度が高く装備も金が掛かっている。
だが、視線の先の王都警備隊士は装備のあちこちが煤けたり焦げたりしており、所属を表すマントも端に焼けた後がある。道を曲がる隊士の横顔が見えるが、こめかみから頬までに酷い火傷の痕があり、すれ違った行商人が怯えて道を開けていた。
「荒事専門の隊士なのか?」
それにしては余り筋肉がついているようには見えなかった。
「ソラ様、そろそろ邸に戻りましょう」
「ん? あぁ、そうだな」
来た道を戻り、クラインセルト邸に着くまでの間にこの数日で仲良くなった街の住人に挨拶していく。
律儀だけど親しみ易い、そんな評価を得るための打算的な行動だが、ゼズ達が仕入れた街の噂話から察するに案外好評らしい。
クラインセルト領に帰ったなら機会を作って同じ事をしてみるつもりのソラだった。
そんな涙ぐましい努力をしつつも帰宅したソラは出迎えた執事に両親の居場所を訊ねる。
「旦那様は教主様の下へ参りました。奥様もご一緒です」
「そうか。今日の夕食は王都の有名シェフの店と聞いて楽しみにしてたのにな」
「時間までには戻られると思います」
執事の返答にソラは内心で舌打ちする。両親が外出すると面倒事になるのは目に見えていた。
しかし、ソラはおくびにも出さず満面の笑みを浮かべて嬉しそうな振りをする。
「それなら安心だな。時間まで部屋で遊んでいるよ。ラゼット、行こう」
無邪気な振りでラゼットの手を引き歩き出す。
クラインセルト領の領主館とは違い、王都にあるここ、クラインセルト邸の使用人はソラの本性を知らない。またミナンのような裏切り者を引き込みかねないのでソラは極力演技を崩さないでいる。
特に先程の執事が曲者だと、ソラは肩越しに盗み見る。
街でソラの護衛を務めていた者達と執事が話し合っているのが見えた。
ベルツェ侯爵の邸宅に行って以来、ソラが街を散歩する時には護衛という名の監視が付くようになった。
クラインセルト家と教会の力関係が逆転した今、可能な限り教会を刺激したくないのだろう。
ソラも軽率だったと少々反省している。今度やる時は偽装工作とアリバイ工作を完璧に施すことを決意しつつ、自室に入った。
空気の入れ換えをするラゼットのそばで秘密箱を引っ張り出したソラは机の上にそれを置く。
テキパキと板をスライドさせて箱を開いたソラは中から二冊の本を取り出した。
「また計算ですか?」
よく飽きないものですねとラゼットが呆れ混じりの視線を向けるが、当のソラはお気に入りの玩具を抱えた年相応の嬉しさがにじむ表情で本を開いた。
開いたページには複雑な図形と無数の数式で構成される魔法陣が書かれている。
そう、この本はソラ念願の魔法書だ。因みに煮炊きにつかう加熱魔法の魔法書である。
ほぼ全てのページに渡って魔法陣を構成する図形一つ一つの意味と数式の解き方が書かれており、まるで数学の教科書に見える。
ゼズ達が買って秘密裏にソラへと渡したものだ。
既にペーパーウェイトの魔法書と合わせて読み終わった後であり、ソラはこの二つの魔法陣の簡略化を試みている。
「沢山の魔法使いが長い時間をかけて編み出した物を素人が簡略化できるはずがありませんよ」
ラゼットはそう言うが、生憎とソラは只の素人ではなかった。前世で高等教育を受け、数学知識は豊富なのだ。
この世界の魔法使いは教会により迫害されている。天才と言われた魔法使いは必ず非業の死を遂げるとされる程に弾圧が苛烈を極めた時代もある。
教会によって破棄された貴重な魔法書も多いため、魔法陣に直結する数学は発展しにくかった。詠唱に関わる古典文学の研究も滞っている。
そして、ソラは煩雑な数式をぶつぶつと何かを呟きながら縮めていく。
ラゼットが聞き耳を立ててみると、「微分しろ」だとか「文字式を使え、隣の式は使ってんだろ。統一しろ」だとか意味不明の単語が聞こえてくる。
「……呪文ですか?」
「違う」
首を傾げるラゼットの予想を即座に否定しながらソラは図形に視線を向ける。
魔法陣は構成する図形の総面積や角の数が数式に代入され、得られた解の大きさによって発動する魔法の威力が増減する。解が間違えている場合や構成する図形を正確に作図できていない場合は発動しない。
数学知識を総合的に使ったパズルのような物だ。
「コンパスと定規があれば何でも描けるのさ」
ラゼットがドン引きする勢いで図形の配置をずらしたり置き換えたりしていく。
空を覆う白雲が沈む夕日に照らされて朱に染まる頃には従来の三分の一の大きさとなった魔法陣が完成していた。
この場においてのみこの世界の数学が優に百年は発展しているのだが、その事実にソラはまるで興味がない。教会派貴族の父を持つ以上、この功績を喧伝できないので完璧に趣味だ。
爵位を継ぐまで日の目を見ることはないだろうとソラは考えていた。
そんな彼の予想を大幅に裏切る事態が翌日に迫っているとも知らず、次はペーパーウェイトの魔法陣を簡略化しよう魔法書に手を伸ばした時、部屋の扉が叩かれた。
どうやら、豚領主が帰って来たらしく、王都の料亭に出かけるらしい。
名残惜しそうにソラが抱える魔法書を奪い取り、ラゼットは出かける準備をし始めた。
12月6日修正