第六話 気狂いのベルツェ
気狂いベルツェ。
教会派はもちろん、魔法使い派の貴族からもベルツェ侯爵はそう呼ばれている。気狂いの枕詞は何時しか貴族のみならず庶民までもが使うようになった。
しかし、貴族が侮蔑の意味を込めるこの枕詞にベルツェ領の人々は多大なる信頼と敬愛を込める。
その違いが生まれたのは遡ること十年前のベルツェ侯爵に関する、あるエピソードが原因だ。
かつて、ベルツェ侯爵領はクラインセルト伯爵領から多数入り込んだ難民が賊に身をやつした影響で荒廃した。当時は治安や産業を復興する途上にあったのだ。
襲爵してからの全てを復興に費やしたベルツェ侯爵だったが、領民の中には市井の人々の努力によってのみ復興が成功したと自負する者がいた。
その者はベルツェ侯爵の領主館がある街で堂々と批判を展開する。ベルツェ侯爵は何一つ役に立たなかったのだと声高に叫び、あろうことか領主館の壁に侯爵が指をくわえている姿を落書きしたのだ。ご丁寧にもその視線は眼下に広がる街に向いている。指をくわえて見ていろ、という意味だろう。
大概の貴族はこれほど馬鹿にされたなら激怒して首謀者を処刑するだろう。身体をバラバラにして街中に晒してもおかしくない。むしろ、家の尊厳を重んじる貴族という人種ならそれが普通の反応だ。
事態を王都で耳にしたベルツェ侯爵はすぐに領地へと戻った。
領主館の壁画を見て激怒した彼は街の中央広場に犯人を連れて来させて、こう言った。
「題名を付けろ、愚か者」
この言葉は本心からだったらしく、犯人が恐る恐る壁画に題名を付けるとベルツェ侯爵はとても嬉しそうに大笑いした。後日、犯人には絵筆と絵の具が送られたという。
馬鹿にされても笑って済ませる貴族にあるまじきベルツェ侯爵の行動を他家の者は侮蔑した。
馬鹿にされても笑って済ませ、絵の道具を送る懐の広さに領民達は敬愛の念を抱いた。
以来、ベルツェ侯爵は気狂いと呼ばれている。
この話を豚領主から聞いたソラはすぐさま手を振りほどき、ベルツェ侯爵に歩み寄る。
豚領主が連れ戻そうとするが、ちょうどソラとの間に子供達の集団があったため太い身体が災いして追いつけない。
「伯爵が怒っているようだが、良いのかね?」
試すような瞳の色にソラは心からの笑みを返す。
「十年前の話を聞きました。気狂いベルツェ侯爵」
「ほう。それで?」
ソラの笑顔が嘲笑ではない事を見て取るとベルツェ侯爵はますます面白そうに先を促した。
ベルツェ侯爵は試しているのだ。ソラが一般的な貴族か否かを。威厳に拘る貴族や視野が狭い市井の民が気付かなかった、十年前の侯爵の真意を悟れる器があるのかを、試している。
ソラは親しみのある笑顔で尊敬を込めるちょっとした離れ業をしてのけた。
「一度、ベルツェ侯爵領で書かれた絵を見てみたいです。“色々な”絵を」
「……クックック」
ベルツェ侯爵は額に手を当て、静かに笑う。
初めての理解者が七歳にもならない子供、それも脂豚ことクラインセルト伯爵の息子だ。
ベルツェ侯爵は思う。十年前のあの日から本当に気が狂ったのかもしれない、と。
だが、同時に思うのだ。気が狂っていたからこそ、今のベルツェ侯爵領があると。
それは誇るべき事だとすら思えてしまうのだ。
「あぁ、いつでも我が邸宅に来るといい。“様々な”絵をお見せしよう」
だから、ベルツェ侯爵はソラを対等と認めて握手を求めた。小さな手がそれを受ける。
十年前のあの日、ベルツェ侯爵は領主館の絵を見て沸き上がる歓喜を必死に押さえたものだ。
襲爵当初の荒れ果てた領地と疲れ果てた領民から、誰が想像できるだろう。
領主を公然と馬鹿にする絵を描ける余裕を領民が持てる日がくると、きっと誰も思わなかったはずだ。
ベルツェ侯爵にとって領主館の壁画は自身の功績の象徴だった。領地を立て直した証だったのだ。
その歓喜を分かち合えたソラを認めるのは当然だった。
だからこそ、
「ベルツェ侯爵は心を痛めている」
ソラの言葉がベルツェ侯爵を過去から現実に引き戻した。
ベルツェ侯爵の瞳に映るソラは深刻な顔をしていた。
「林業都市の一件、手を焼いておられるのでは?」
ベルツェ侯爵の眼が僅かに見開かれた。
ソラが王都への道中で林業都市に立ち寄った事はベルツェ侯爵も知っている。
しかし、やり手の貴族が冷静に影響を分析しなければでない懸念を、共通の話題として七歳の子供が振ったのだ。
クラインセルト伯爵では考えつきもしないはずで、ソラに入れ知恵した者をベルツェ侯爵は想像するも、候補が一切浮かばない。
ベルツェ侯爵が問い詰める前に、豚領主がソラを無理やり連れて行った。
ベルツェ侯爵は遠ざかる小さな理解者の背を見送りながら、別れ際に小声で伝えられた言葉を反芻する。
「それではまた、近い内に……。」
ベルツェ侯爵とソラが別れたちょうどその頃、ラゼットはサニア達と王都の喫茶店にいた。
「魔法書ってそんなに高いものなの?」
半信半疑でラゼットがゼズに確認するのも当然だ。
王都に着いてからずっとあちこちを探していたが、一番安い魔法書でも一家族が王都の高級宿に一年は宿泊出来る金額が付けられていたのだ。
「どうも教会が禁書扱いして買い占めてるらしくてな」
弱り切ったゼズが頭をポリポリと掻きながら弁解する。
魔法は元来、軍事技術としての意味合いが強い。
そのため魔法書はなかなか市場に出回らないのだ。また、偽物もよく混ざっている。
必然的に入手出来る魔法書は一般人が煮炊きに使う加熱魔法だったり、ペーパーウエイトの代用魔法だったりする。
これらは精密な魔法陣を描かなければ発動しない物で攻撃性にも欠けるため戦場では使用されない。
「ソラ様ならきっと納得するよね……?」
「無理だろ」
サニアの希望的観測をゼズが一瞬で打ち砕く。
実際のところソラは魔法を使いたいだけで、例えそれがどんなにくだらなくても喜ぶ。
普段の不遜な態度ばかりを見てきた一同は、ただ魔法を使いたいと子供染みた考えをソラが抱いているとは思ってもみない。
「もう一回探して、ちょうど良いのが見つからなかったらソラ様に相談しましょう」
ラゼットが会話のかじを切り、全員の賛同を得た。
そして、揃って喫茶店を出た一同はある商会を見つけて足を止める。
「なんで、こんな所に店構えてるの?」
リュリュが柳眉を逆立て睨む先には商会の看板。
文字が読めなくともその看板には見覚えがあり、掲げる商会の名も想像がつく。
商会の名はウッドドーラ。
五年前に宝くじで街を薪不足に追い込んだ、仇敵だった。