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杏は、待ち合わせ場所のホテルのロビーで1人で待っていた。
そこに黒いスーツ姿の女性が現れた。
「夏海 杏さんですね。こちらへどうぞ」
杏は頷いて言われたとおりに着いて行く。
もう、どうでも良い気持ちでいっぱいだった。
どうせ私は商品でしかないんだと。
ホテルの部屋の前に着き女性がノックをする。
中にはいると1人の男性がソファーでこちらに背を向けてすわっており、その横の席には歳の割には若く見える年配の女性が座っていた。
「こっちにいらっしゃい」
「はい」
杏は女性の前に座った。
「始めまして、私はここの親会社の相談役をしている皐 椛と申します」
「はい、私は……自己紹介するまでも無く判っていますよね」
杏は俯いたまま言った。
「そうね。とりあえず、契約書にサインをしてちょうだい」
杏は契約書には目もくれずに椛に質問を浴びせた。
「私をいくらで買い取ったのですか?」
「そんな事を聞いてどうするの?」
「私にいくらの値が付いたか気になるだけです」
「1億よ、これは私達が提示した金額じゃなく、あなたの居た事務所が提示した金額よ」
「そのお金を返せば自由にしてもらえますか?」
「ええ、構わないわよ。でも返せるの?」
「働いて返します」
「強情ね」
「強情じゃなければこの世界では生きて行けないんです」
「それじゃ、契約成立でいいわね。契約書にサインを」
「判りました」
杏も契約書を読まずに、サインをした。
「読まなくっていいの?」
「結構です」
杏が俯いたままで返事をすると相談役の椛が杏の事を舐めるようにまじまじと見た。
「ふ~ん。あなたが。まだまだ子どもって言う感じかしら」
「もう、20歳です」
杏が唇を噛み締める。
「一応、大人なのね」
「…………」
杏は何も答えなかった。
「それじゃ、脱いでもらえるかしら?」
椛が冷たく言い放ち腕組みをしてソファーの背もたれに寄りかかった。
杏は俯いたままで膝の上に置いた握り締めた手が震えていた。
「どうしたのかしら? 出来ないの?」
「判りました。脱ぎます」
杏が立ち上がり、少し戸惑いながら着ていたシャツのボタンを外そうとした。
その時、横に座っていた男が静かに立ち上がり杏の前に手を出して杏を止め。
椛を真っ直ぐ見て言った。
「相談役、もうそのくらいでいいでしょ」
それはとても力強い口調だった。
杏は首もとのボタンを外そうとしたまま男と逆の方を向き俯いた。
「代表は黙りなさい。橘!」
椛が秘書の橘を呼ぶと橘が近づいてくる。
「はい、畏まりました。夏海様こちらへ」
杏の肩に手を置き橘が別室へと杏を連れて行った。
凛が立ったまま、椛の眼を真っ直ぐ見ていると椛の瞳が少し揺れた。
「お義母さん、やりましたね」
凛は直ぐに思い出した、椛が悪戯好きな事を。
「あなたのその真剣な真っ直ぐな眼、大好きよ。双樹を貰い受けに来た時と同じ眼だわ」
悪戯っ子の様な目で椛が言った。
「その話は……」
凛が窓の方に歩いていきしばらく外を眺めていた。
「双樹と桃香の事を忘れろとは言えない。でもね2人に縛られないで2人ともそんな事は望んでいない筈よ。私達の望みは会社を継いでもらう事じゃない、あなたに幸せになってもらいたいのよ。その為には、あの子がどうしても必要なの。あなたは約束の為に約束以外の事を総て切り捨てようとしている、でもそれは相反する事だった。だからあなたの心が悲鳴を上げてしまった。違うの?」
「それは……」
凛が振り向くとドアの所に橘に連れられて着替えを済ませた杏が立っていた。
杏の表情から椛の言葉を聞いていた様子なのが直ぐ判った。
杏は製作発表会から着替える間もなくここに連れてこられたので映画の衣装のままだったのだ。
今は、真っ白なノースリーブの夏らしいワンピースを着ていた。
メイクも落とされてナチュラルなメイクになっていた。
「あら、着替えが終わったのね。素敵よ杏さん」
椛の顔には先程の厳しさは微塵も感じさせない優しい笑顔だった。
「そこに居るのは凛なの?」
窓を背に立っている為に逆光になっていて顔が見えなかった。
「悪者になった気分だな。隠し事ばかりで」
その声は紛れも無く凛の優しい声だった。
凛の声を聞いた途端、杏の瞳から再び涙が零れ落ちた。
「凛は悪者じゃない。オーディションの時も私を励まして見守っていてくれた。製作発表の時も今まで一切表に出てこなかったのに私の為に公の場所に出て来てくれた。そして今も私を守ろうとしてくれたじゃない。マネージャーにばれないようにカンパネラとして花束を贈ってくれた。訳があって言えなかっただけなんでしょ……凛がどんな事をしていようが凛は凛でしょ」
「そうだな。ゴメンな」
「謝らないで……凛!」
杏が凛に抱き付いて泣いた。
「これで、今日2度目だな」
「うん」
杏は凛に抱きついたまま頷いた。椛が優しく2人を見つめている。
「あらあら、私は蚊帳の外かしら」
「す、すみませんでした」
杏が凛から離れて涙を拭いて言った。
「良いのよ、2人の事は亜紗から聞いているから」
「凛、椛さんって……」
「杏さん、私は亜紗と双樹の母親よ」
「オーナーのお母さん?」
「ええ、そうよ。そしてこの会社の相談役なの」
杏に名刺を渡す。
「皐コーポレーションって、あの大企業の相談役?」
「そして、皐コーポレーションの現・代表取締役つまり社長が凛さんなの映画の製作発表会と同じホテルで就任会見を今日したばかりだけどね」
「凛が皐コーポレーションの社長……」
「そして、杏ちゃんの新しい事務所『オフォス AQUA』の社長も凛さんよ」
「私の契約者が凛なの?」
「そう言う事になるな……って、まさか」
凛がテーブルに置いてあった契約書を手に取り確認する。
「まんまと填められた。はぁ~」
凛が頭に片手を当てて溜息をついた。
「久しぶりにワクワクさせて貰ったわよ。凛さん」
「どう言う事ですか?」
「後で判るわよ。杏ちゃん、早速、仕事を頼めるかしら」
「はい、何をするんですか?」
「これにサインをして欲しいの」
椛が3枚の色紙を取り出した。
凛は契約書を持ったまま立ち尽くしている。
「サインをするだけですか?」
「そうよ。朋君、力君、昴君へと入れてちょうだいね」
杏がスラスラとサインを書いた。
それを椛が手提げとリュックにもなる可愛らしい茶色い革のバッグに入れる。
「凛さん、いい事。必ずこのサインを本人達に直接渡す事。これは命令よ、判った」
サインの入ったバッグを凛に渡す。
「はい、もうお任せします」
凛は今にも倒れそうなくらい力が抜けていた。
椛が凛の手から契約書を取り杏に渡した。
「今日、2人を試させてもらったわ。あなたが凛さんに相応しいか、それと凛さんの本当の気持ちを。どちらも合格よ、キツイ事を言ってゴメンなさいね」
「もう、気にしていませんから」
「そう言って貰えると嬉しいわ。その契約書はあなたからしか破棄する事が出来ない契約書になっているの、決して凛さんを離しちゃ駄目よ」
「はい、ありがとうございました」
「何時までそこで突っ立って居るの? 杏ちゃんを自由にするのに1億じゃ安かったかしら? 凛さんなら命まで掛けちゃいそうだものね。契約書は良く読んでからサインするものよ」
「お義母さん、もうこれ以上は勘弁してください。でもやっぱり不利益にはならない物じゃないですか」
「うふふ、そうだったわね。これは私からのプレゼントよ、今日のお詫びの印。地下の駐車場に置いてあるから、それを使って行きなさい」
椛が凛に鍵を放り投げると凛が片手でキャッチした。
「判りました。直接届ければ良いんですね」
「そうよ、頼んだわよ。橘、周りでコソコソと嗅ぎ回っている記者を何とかしなさい」
「はい、畏まりました」
橘が部屋から出て行った。
「さぁ、お2人さん行ってらっしゃい」
「面倒くせえなぁ」
「面倒くさい言うな。行くよ、凛」
「杏ちゃん、今度は皆でお食事でもしましょうね」
「はーい」
杏はとびっきりの笑顔で返事をして、凛を引っ張りながら部屋を出た。
杏と凛はエレベーターでホテルの地下駐車場に向かっていた。
「凛、あの契約書って本当に有効なの?」
「あの人の事だから弁護士にでも作らせたんだろ」
「それじゃ、有効なんだ。でも」
「でも、何だ?」
「私を石垣島に居させる為にした凛と亜紗さんが交わした約束ってこんな大変な約束だったんだね。その為に凛の心が壊れかけてしまった、私の所為で」
「杏の責任じゃないよ、俺が弱かったからだ。義姉さんに殴り飛ばされたよ、昔のお前なら総て手に入れようとした筈だって」
「そんな事があったんだ。この契約書、仕事の事には一切触れてないけどどうしたら良いの?」
「俺が小さな会社ですねと聞いたら、自由でいられるでしょと答えたんだ。それで良いんじゃないか。本社の仕事は任せろと言っていたし」
「それじゃ、これから2人で決めれば良いんだね。凛はずーと一緒に居てくれるし」
「サポートするとしか書かれていないはずだが」
「同じ意味じゃん」
「サポートは支援すると言う意味だぞ。一緒に居ると言う意味じゃないだろ」
「でも、生涯って書いてあるもん。それに凛にも不利益にはならないんでしょ」
「そんな事、よく聞いてたな」
「だって大好きな人の言葉だもん、一字一句聞き逃さないよーだ」
契約書には甲の欄には桜木 凛の署名が乙の欄には夏海 杏の署名がされていて『私、甲は。乙を生涯サポートする事を次の通りに契約いたします。』と書かれていた。
2人が地下駐車場に着くとそこには黒い大型バイクが止められていてサイドにはヘルメットが2つ繋がれていた。
「Lightning XB12Ssだな」
「凛、このバイクって」
「グランパで登場するバイクだよ。相変わらずミーハーだな」
「椛さんも読んでいるんだね」
「杏、これを着てくれ」
「うん」
凛が自分の上着を杏に着せ袖を捲くる。
「それとこれを持っていてくれないか」
「分かった」
杏が茶色い革のバッグを受け取り、椛から渡されたバッグの中に契約書をしまいバッグを背負った。
「ほら、ヘルメットだ」
杏がヘルメットを被ると凛がヘルメットのスイッチを入れ、自分もヘルメットを被った。
「杏、聞えるか」
「うん、良く聞えるよ。まるで主人公達みたいだね」
「そうだな」
凛がバイクにまたがりエンジンを掛ける。
杏が後ろに乗り凛に抱きついた。
「スカートで大丈夫か?」
「大丈夫だよ。見えたりしないから」
「それじゃ、行くぞ」
「うん」
凛がバイクを出す。
地下駐車場を出るとそこには記者達の姿はなかった。
おそらく橘が記者を影武者でも使っておびき出したのだろう。
それでも何台かの車が気付いて着いてきた。
高速に乗る、それでもまだしつこく着いてきていた。
「凛、どこまで行くの?」
「サインを届けにだよ」
「どこに?」
「埼玉だ。杏、怖いか?」
「凛が一緒だから怖くないよ」
「それじゃ、飛ばすぞ。後をつけている奴等を巻くからな」
「うん。分かった」
凛がアクセルを開けるとあっという間に後ろの車は着いて来れなくなった。




