otto.1
3日後。
凛はARIAに帰って来る予定になっていた。
ARIAでは……
「ねぇ、柚葉。杏ちゃん帰ちゃって凛さん落ち込んでないかなぁ」
「そうだね、あんなにラブラブだったのにね」
「楓にもまだ、チャンスがあるって事じゃないのか?」
「見習い! てめえ! 絶対に殺す! 私は2人を応援しているんだ」
「まったく、訳もわからずにカリカリしやがって」
葛城がぶつくさと文句をたれる。
「楓、そんな言葉使ったら駄目でしょ」
そんなやり取りを見ていた亜紗が声を掛けた。
「は、はい。オーナーすいませんでした」
「素直で宜しい。でも実は私も心配なのよね。あの子、一途だから」
そこに、凛が出勤してきた。
「おはよー。今戻りました……って、あれ? 皆どうしたのかなぁ?」
凛はいつもに増して元気だった。全員肩透かしを喰らった様にポカンとしていた。
「そんな、鳩が豆鉄砲喰らった様な顔をしていないで仕事開始!」
「ほら、オーナーもそんな顔しない老けるぞ」
何も言わずに亜紗は事務所に消えて行った。
「なぁ、葛城。皆どうしたんだ?」
「凛さんのせいですよ。八つ当たりはされるし。皆、杏ちゃんが帰ったんで凛さんの事を心配してたんです。そうしたら凛さんがあんまり元気良く出勤したんで」
「面倒くさいなぁ。2度と会えなくなった訳じゃないだろう、同じ日本に住んでいるんだぞ」
「そうですけど、離れ過ぎじゃないですか?」
「たかだか3時間だぞ」
「もう、いいですよ。凛さんが元気ならそれで良いんです」
ゴールデンウィークも終わり石垣島は梅雨の時期になる。
凛は精力的に仕事をしていた。
新しいメニューやドルチェを幾つも考えてお客に提供していた。
葛城にも細かく指示をしていろんな事を覚えこませた。
「なぁ、楓。ここしばらくの凛さん元気過ぎやしないかぁ」
「葛城の考え過ぎじゃないの。杏ちゃんに出会って変わったんだよ」
「そうかなぁ、私はなんだか無理しているようにしか見えないんだけど」
「柚葉まで、でも言われて見れば最近殆ど休んでないもんね」
「そうそう、これ見てくれよ」
葛城がお店のノートパソコンでブログを開いていた。
「何なのそれ?」
「じゃーん。夏海 杏のブログだよん」
「はぁ~? ずいぶんミーハーな事で」
「何だかそっくりの杏ちゃんに会って他人の気がしないんだよね。最近何だか変わったって言うか凄く明るくなった気がするんだ」
「葛城はそんな事していないでそろそろ1人前になってくれよ」
「凛さん、キビシー」
「仕事しろ」
「はい」
そろそろ梅雨も終わり本格的な夏が始まろうとしていた。
凛が携帯で頻繁にどこかとの遣り取りが増え始めると、凛の心を徐々に締め付けはじめていた。
そしてまた夢を見るようになった。
顔のよく見えない髪の長い女性が「約束したのに、約束したのに」と呟く。
すると突然車の急ブレーキの音が鳴り響いて目の前が真っ赤に染まる。
そこで目が覚めた。
「凛、凛?」
「はぁ、はぁ、はぁ…… 義姉さんか。ここは?」
「ここはお店よ。大丈夫なの? もの凄く魘されていたけれど」
「少し、夢を見ていただけだよ」
「また、あの夢を見始めたんじゃないでしょうね」
「久しぶりに見ただけだから大丈夫だって」
しかし、凛はその後も同じ夢を見るようになっていった。
梅雨明けになろうかという頃、1本の電話が凛に掛かってきた。
「根岸か? もしもし、どうしたんだ。珍しいな」
「凛さん、オーディションの件でちょっと」
「その件は任せたはずだぞ」
「凛さんに様子を見るように頼まれていた、夏海 杏がオーディションを受けているんですが」
「事務所の圧力かそんな物は無視して構わない」
「いえ、そうではなく。気持ちがいまいち入っていないようで、このままだと明後日の最終選考には残れないと」
「そうか」
「はい、どうしましょう」
「本人次第だな。仕方が無いそっちに顔を出すから」
「本当ですか? それじゃ次回作の打ち合わせも」
「その件もそろそろ話さないとな」
「それじゃ、お待ちしています」
凛が一点を見つめて何かを考えこんでいた。
「凛さん、最近考えこむ事多くなったなぁ」
葛城が独り言を言い凛を見つめている。
そこに柚葉が店に飛び込んできて凛が気付き声を掛けた。
「おはよう、柚葉。そんなに慌ててどうしたんだ?」
「ニュースです。ビッグニュースです。あの『彼はグランパ』の映画化が決まったらしいんだよ」
「出たよ。柚葉の秋葉系」
「見習いは黙ってて」
「柚葉まで見習い言うか」
「コラコラ、何をそんなに騒いで居るの?」
亜紗が騒ぎを聞きつけて事務所から出てきた。
「オーナー。私の大好きな『彼はグランパ』が映画化されるって。ヒロインの海役は誰になるんだろうなぁ」
亜紗が凛の顔を見ると、凛は無意識に目をそらした。
そして亜紗の方を見て凛が言った。
「義姉さん。すまないが明日、東京に行きたいんだが」
「判ったわ行って来なさい。ついでにあそこにも顔を出す事良いわね」
「判った、後の事宜しく頼む」
翌日、凛は東京に居た。
そしてオーディション会場に着くと根岸が待っていた。
「凛さん、こちらへ」
「根岸、悪いが関係者とは会わないからな」
「え、でも」
「もうあらすじは打ち合わせ済みだし、後はキャストだけだろ」
「それと、次回作は保留にしておいてくれ」
「判りました。凛さんが言う事に従いましょう。これが今日のオーディションのスケジュールです」
凛がスケジュールに目を通した。
「悪いな、いつも」
「とんでもないですよ、凛さんあっての私なんですからね。それじゃ、お部屋にご案内します」
根岸に連れられて部屋に入るとそこにはオーディション会場と控え室がモニターされていた。
モニターを見ると参加者が映し出されていた。
そこには杏の姿もあった。
「開始までにはまだ時間があるな」
凛が時計をみて時間を確認して携帯をかけた。
控え室では杏が不安そうな顔をして俯いている。
バッグの中の携帯がなった。
「もしもし、杏か」
「えっ、凛なの? 今、何処に居るの? 凄く会いたいよ」
「今、何をしているんだ?」
「彼はグランパのオーディションを受けに来ているの、でも皆凄くて。私、自信無くって」
「良く聞けよ。杏は石垣島でヒロインが行った場所で同じ様に感動をしていたんだ。違うか?」
「うん、そうだね」
「自信を持つんだ。杏の夢なんだろう自分の力を信じて掴み取るんだ。俺の大好きな杏なら出来るはずだぞ」
「凛、私も大好きだよ」
「ああ」
「凛、会いに来てくれるよね」
「面倒くさいなぁ」
凛が笑う。
「面倒くさい言うな。うふふ」
「また、連絡するよ」
「約束だよ」
「ああ、約束する」
杏が携帯を見つめて大きく深呼吸をする。
ほんの少しだけだったが凛の声が聞けただけで十分だった。
オーディションは少し大きめのホールで行われている、舞台上では他のエントリー者が演技をしたり歌を歌ったりしている。
凛は客席の1番奥にある入り口の横に立ち腕組みをしてオーディションを見ていた。
横には根岸が立っている。
「そろそろ、夏海さんの番ですね」
「そうだな」
舞台に杏が現れ、所属事務所と名前を大きな声で告げて挨拶をして舞台下に居る審査員や監督の指示に従いながら演技をしている。
そして最後に歌を歌った。
「忘んなーよーや 忘んなよー 我ね思とんどーかなさんどー」
根岸が目を閉じて聞き惚れていた。
「凛さん、なんだか心が温かくなるような歌ですね」
「そう感じるか?」
「はい、とっても想いが溢れて居るように感じます」
「それじゃ、大丈夫だな」
「でも、凛さんが推せば決まりなんじゃないですか?」
「これは彼女の夢なんだ。自分の力で掴み取らないと意味が無いんだよ。俺が言えば簡単だろう、でもそれで彼女が喜ぶと思うか?」
「そうですね」
その時、ちょうど杏の審査が終わった。
凛がドアを開けて出て行く、根岸が後を追いかけた。
「凛さん、審査結果を聞いていかないんですか?」
「これから、人と会わなければいけないんだ」
「もし、駄目だったら」
「彼女は、まだまだ若いんだ。これからいくらでもチャンスはあるさ、それに俺は彼女の力を信じているからな」
「それならせめて、会うだけでも」
「ここに居るのは誰だ? どう説明するんだ?」
「そうでしたね、それじゃお送りします」
杏は審査を終えて深々とお辞儀をして退場しようとしていた。
その時、ホールの奥のドアが開き光が差し込んでくるのが視界に入った。
そしてドアから出て行く男の姿に見覚えがあった。
「凛?」
舞台の袖に入ると杏は駆け出した。
「杏、どこに行くの?」
西川が杏に慌てて声を掛ける。
「ゴメン、ちょっと」
そう言い西川の横を走りぬける。
男が出て行ったドアまで来て辺りを見渡す。
そして建物の入り口に向かって走り出した。
ロビーを抜け出入り口に着くと1台のタクシーが走り去った。
「はぁ、はぁ、はぁ。凛……」
杏は立ち止まり膝に手を当てて肩で息をしていた。
「おや、夏海さんどうしたのですか?」
タクシーを見送っていた男が声を掛けてきた。
その顔には見覚えがあった。初めて羽田空港で凛と出会った時に凛と一緒にいた男性だった。
「えっ、根岸さん? でしたっけ」
「はい、良く覚えていてくれましたね」
「今の人は?」
「原作者の仲村先生ですよ。私は先生の担当をさせて頂いているんです」
「でも、あの時は凛と……」
「ああ、凛さんとは古い付き合いで色々とお仕事をさせて頂いているんですよ」
「人違いだったんだ、仲村 歩ってどんな人なんですか?」
「素敵な方ですよ。包容力があってとても優しくって、たぶん……一目惚れしちゃいますよ」
根岸が悪戯ぽく微笑んだ。
その時、後ろから西川の声がした。
「杏! 戻りなさい」
「ありがとうございました。もう戻らないと」
杏が根岸に笑顔でお辞儀をしてロビーの中へ歩き出した。
「とても良い子ですね。凛さん」
根岸が優しい目で杏の後姿を見ていた。