萬松寺の嘘
第一章:仮面の亀裂
天文二十一年、三月。尾張の虎と恐れられた織田備後守信秀が没した。
その葬儀が営まれる萬松寺の堂内は、まるですべての光を吸い込んだかのように暗く、静まり返っていた。
集まった一族や重臣たちの視線は、一点に注がれている。織田家の嫡男でありながら「うつけ」と噂される若者、織田三郎信長。彼がこの厳粛な場でいかなる奇行に走るか、誰もが固唾を呑んで見守っていた。家臣たちの間には「やはり織田家は勘十郎(信行)様が継ぐべきだ」という暗黙の了解が、すでに濃く漂っている。
だが、人々の予想は、全く異なる形で裏切られることになる。
「……信行様?」
重臣の一人、林秀貞が、呆気にとられたような声を漏らした。
堂内に入ってきたのは、次男の勘十郎信行だった。その姿を見た瞬間、誰もが己の目を疑い、お互いの顔を見合わせた。
いつも品行方正で、髪一つ乱さず、絹の小袖を端正に着こなしていたはずの優等生。その信行が、ボサボサに乱れた髪をそのままに、片肌を脱いで粗末な麻の衣服をはだけさせ、腰には奇妙な縄の帯を巻き付けていたのだ。それは紛れもなく、兄である信長が普段好む「うつけ」の格好そのものだった。
信行の胸は、早鐘のように激しく高鳴っていた。
(兄上……。親父殿が死んだ。俺たちを縛る『織田家の常識』はもうない。あんたの言う自由な世界に、俺も行くぞ)
信行は、密かに兄へ憧れていた。周囲の大人たちに「模範的な世継ぎ」であることを求められ、押し潰されそうになりながら、既成概念をあざ笑うように生きる兄の強さに、狂おしいほどのリスペクトを抱いていたのだ。父の死というこの大舞台こそ、自らの仮面を脱ぎ捨て、兄と同じ地平に立つための「うつけデビュー」の場であるはずだった。
意気揚々と堂内を見渡す。だが、その瞬間に信行の身体は凍りついた。
第二章:反転する舞台
最前列に佇む兄・信長の後ろ姿。
その背中を包んでいたのは、乱れた衣服などではなかった。髪をきっちりとも結い上げ、非の打ち所のない、厳かな麻の正装に身を包んだ――完璧な「織田家の跡取り」としての姿だった。
(……え?)
信行の思考が停止する。
信長は微動だにせず、ただ静かに仏前を睨みつけている。その佇まいは、うつけなどではなく、一国の主としての威厳に満ちていた。
周囲の視線が、一瞬にして突き刺さるような冷気に変わった。
「おい、どういうことだ。うつけは勘十郎様の方だったのか」
「信秀様が亡くなられて、正気を失われたか」
「やはり、兄の狂気がうつったのだ。哀れなことに……」
家臣たちの冷ややかなざわめき。そして何より、母・土田御前の「信行……お前、何を血迷ったのです!」という、絶望に満ちた悲鳴が信行の鼓膜を震わせた。
恥辱。そして圧倒的な赤っ恥。
兄と並び立ちたかったはずの自分が、ただの「時と場所を弁えない大馬鹿者」として、公衆の面前で晒し者にされている。
「違う、俺は……兄上と同じに……」と言い訳を口にしようにも、声が出ない。世界がぐにゃりと歪み、信行はあまりの恥ずかしさにその場に崩れ落ちそうになった。自身の浅はかさと、周囲の白い目に押しつぶされそうになった、その時だった。
「――ハハハハハ!」
堂内に、地を震わせるような豪快な笑い声が響き渡った。
声を上げたのは、正装のまま立ち上がった信長だった。
第三章:うつけの器
信長は、凍りつく重臣や涙ぐむ母を見回し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。その笑みには、一切の動揺も恥じる色もない。
「おいおい、どいつもこいつも借りてきた猫みたいに畏まりやがって。親父の葬儀だっていうのに、しけたツラすんじゃねえよ!」
信長は堂々と歩を進め、呆然と立ち尽くす信行の肩を、骨が軋むほどの力でガシッと掴んだ。
「驚いたか? この信行の格好はな、俺が命じてやらせた『仕掛け』だ。親父が死んで、誰が本当にこの織田家を憂いているか、誰が身内の不始末を冷ややかに笑うか。この信行の命懸けの芝居で、腹黒い奴らをあぶり出させてもらったのさ。なぁ、信行?」
その言葉が放たれた瞬間、堂内の空気が一変した。
「な、何だと……!?」
「信長様の差し金であったか!」
柴田勝家や林秀貞ら重臣たちは大混乱に陥り、土田御前も「ああ、信行が狂ったわけではなかったのですね……」と安堵の息を漏らす。
信行の奇行は一瞬にして、「跡取りの命に従い、織田家の忠臣を見極めるために一肌脱いだ、健気な弟の決死の任務」へと180度ひっくり返されたのだ。信長が放ったたった一つの「嘘」が、萬松寺を支配していた冷酷な現実を塗り替えていく。
信行は、目を見開いたまま兄を見上げた。
助け舟を出してくれた。それは分かる。だが、それ以上に信行の心を打ちのめしたのは、兄の圧倒的な「器」だった。
自分は服を崩し、形だけ真似をして、子供のように暴れようとしただけだった。形から入るだけの、偽物のうつけ。
だが兄は、服を着ていようが着ていまいが、その場にいる全員の心を一瞬で支配し、嘘一つで世界を引っくり返してみせた。
(敵わない……。逆立ちしたって、この人には勝てない)
張り合おうとしていた肩の荷が、スッと降りていくのを感じた。それまで劣等感や焦燥感、そして歪んだ憧れにまみれていた兄への感情が、一瞬にして、一点の曇りもない純粋な「尊敬」へと昇華していく。
第四章:背中に誓う
信長はそのまま仏前に進むと、手掴みで抹香を掴み、豪快に仏前へと投げつけた。バサリ、と灰が舞う。それすらも、先ほどの信長の言葉を聞いた家臣たちの目には「織田家を継ぐ者の、すさまじい覚悟の表れ」として映っていた。
焼香を済ませ、信長が踵を返した。
席に戻るため、信行の横をすれ違う。その一瞬、周囲には絶対に聞こえない驚くほど低い声で、信長は弟にだけ囁いた。
「お前には似合わねえよ。うつけの役は、俺一人で十分だ」
その声は冷たかったが、どこか哀しげで、そして確かな温かみがあった。不器用な兄が、自分をこれ以上泥に染めさせないためにくれた、最高の拒絶であり、最高の信頼の証のように思えた。
去っていく信長の、広く、圧倒的に孤独な背中を見つめながら、信行は心の中で静かに誓った。
(はい、兄上。馬鹿はあんた一人でいい。俺は……あんたの創る新しい世界を一番近くで支える、最高の優等生になってみせる)
乱れた衣服のまま、信行の顔には、かつてないほど清々しい笑みが浮かんでいた。織田家の内紛の火種になるはずだったその日は、一人の天才と、その天才に命を捧げることを誓った最高の補佐官が誕生した日となったのである。




