寂しがりのブログ
その夜僕はとある日記に出会った。ブログと呼ばれるインターネット上の日記だ。インターネットは世界と繋がっていると言うが、所詮ブログを書いたところで極わずかな人間しか読まない。それでもいいほうで、誰も読まないブログだってある。
その日記だって、特別魅力を放っていたわけではない。縁側で、老いた飼い犬を撫でてやりながらネットサーフィンをしていると、たまたまそこに行きついた。
ブログのタイトルは『紅く染まる空を見て』。特別魅力があったわけではない。だが、その下にあった最新記事に僕は不思議と魅かれていた。
「みなさん、最近は楽しいですか? 僕は、相変わらず誰も見舞いに来ない日々が続いています」
コメント履歴などを見てみると、そのブログを訪問している客はほぼいないに等しいみたいだった。
僕は家に引きこもり何をするでもない毎日を過ごしている。食べ物なら、数年前に死んだ両親が残した財産があるから大丈夫だ。外出は買い物以外全くしない。この家に唯一の家族の老犬と住んでいる。
そんな生活が続いたものだから、僕はもう他人と関わらない事に慣れてしまった。
次の日の夜、僕はまたあのブログを開いていた。新しい記事が投稿されている。記事履歴を見るに、毎日きっかり一件ずつ投稿しているようだ。
画面の向こうにいるであろうブログの作成者は、自分のブログには客が一人もいない事に気付いていないのだろうか。
「今日は苦い顔をしたお医者様が病室に来ました。どうやら、僕の体の様子がよくないみたいです。それではまた明日、会えるといいですね」
昨日見た記事に見舞いとあった。今日の記事にはお医者様とあった。彼が入院をしているということは間違えないだろう。
誰も見舞いに来ないということは、彼は長らく身内の者と会っていないのだろう。だから寂しくてブログをやっているのだろうか。そのブログもまた、誰からも訪問されることもなかったようだが。
僕は自分から望んで一人で暮らしている。だから寂しくはない。
次の日も、今までと同じように何をするでもなく過ごした。庭の桜が緑の葉を茂らせていて、唯一僕とともに暮らしている老犬が気持ち良さそうに寝息を立てている。
数年前までは元気に庭を駆け回っていた彼も、今はご飯を食べる時以外は動かなくなってしまった。僕は一人でも寂しくないと思ってきたが、実際は彼がいつも隣にいた。彼のことは家族と思っている。
この先彼が死んでしまったら、僕は本当の独りとなる。それでも今までと変わらずこの家に引きこもり過ごしていけるのだろうか。
「僕は病室から出ることはおろか、ベットから降りることすらできません。しかし、お医者様や看護婦さん達が毎日顔を出してくれます。だから僕は孤独ではありません。見舞いには誰も来ませんが、僕は元気です」
それが、『紅く染まる空を見て』の今日の記事だった。
彼は入院しても見舞いに来ない親族に対して、どんな思いを抱いているのだろう。もう家族と思っていないのだろうか。初めから自分には家族がいなかったということにして、病院に勤務する人達を自分の家族と思うようにしているのだろうか。
インターネット上では決して相手の顔を見ることはできない。例え本当は彼が孤独に打ちひしがれて泣いていようと、彼がブログに辛くないと書けば僕にはそうとしか伝わらない。インターネットは便利であると同時に不便なコミュニケーションツールだ。
彼の真意が知りたい。
他人のことをこんなに気にしたのは久しぶりだった。それも、一度も話をしたこともない赤の他人のことを。これはやはり、僕が一人でいることを寂しいと思っていたという証拠なのだろう。どれだけ一人でいることに慣れたって、他人に少しでも関わってしまえば寂しさを感じてしまうのだ。
隣で幸せそうに眠る老犬を撫でてやった。
朝目覚めてから僕は、庭に出て植物に水をやった。心地よい日差しが、僕の肌を目覚めさせる。
いつもと変わらない朝の風景。しかし庭から家の方を振り返ると、一つの異常が認められた。縁側に横たわる老犬の息が、いつもより弱々しい。見た目には何の変化も感じられないだろうが、幾つもの夜を共に過ごした僕ならば、彼の呼吸音でわかる。家の敷地は広いうえ庭には植物があるので雑音一つしない。だから聞き取ることができた。
「僕はもうすぐ死ぬみたいです」
今日の「紅く染まる空を見て」は、そんな言葉で始まった。彼のブログにコメントでもしてみようかと思いブログを開いてみると、今まではいつも夕方に更新されていた日記が午前中だというのに更新されている。
「今朝お医者様がそう宣告なさいました。例え母が見舞いに来ずとも、父が見舞いに来ずとも、兄が見舞いに来ずとも、親友と思ってた人が見舞いに来ずとも寂しいと思わないようにしてきました。だけど、僕は今すごく寂しいです」
インターネット上では相手の表情を窺うことは決してできない。だけど僕には、彼のこの言葉が本心からだと分かった。根拠はない。
「僕の病気が治らないと聞いてから、僕はこのブログを始めました。誰かに見てほしい。誰かに僕が生きていることを知ってほしい。だけど、誰も見てはいませんでした。何日後、何ヶ月後、いや何年後でもいい。このブログを見た人がいたのなら、どうか僕が生きていたことを忘れないでください」
彼は、孤独ではないと自分に言い聞かせながらも心の内では分かっていたのかもしれない。あと一日早く、このブログにコメントしようと思えばよかった。
「死にたくない。もう一度、昔のように皆で笑いあいたい。死ぬのは嫌だ。一人になるのはもう、嫌だ」
死にたくない。自分の余命を宣告され、その時を待つ人間の率直な思いだった。
「最後まで読んでいただきありがとうございました。画面の向こうにいるあなたが、大切な人に囲まれて幸せであることを祈っています。さようなら」
この日僕は、夕方老犬が息を引き取るまで一緒にいてやった。長い間二人で暮らしてきたパートナーが、せめてあちらではたくさんの仲間に囲まれて幸せであることを祈って。
夕焼けがいつもよりやけに綺麗に思えた。
今日授業中に思いついたネタを勢いで書きあげてみました。
インターネットでの交流が僕は好きです。
最後までお読みいただきありがとうございました。