第8話 魔法の練習
二人の魔法の練習が始まってから、あっという間に数日が過ぎた。
放課後の学園。壁に西日がオレンジ色に差し込む頃。二人は寮の自室で、魔法の練習に励んでいた。
淡い魔力の光が、部屋の中で時折浮かび上がる。静かな空間には、魔法と向き合う微かな緊張感と、二人で一緒にいることのどこか穏やかな空気が混ざり合っていた。
シュデリィが編み出した心理防御魔法は、名の通り心を護るためのもの。本来、自分の内面を隠すために作られた高度で複雑な魔法である。
それは、彼女が自分一人で使うことだけを考えて構築されている。アイリスが使えるように調整するのは、至難の業だった。
シュデリィは普段見せないほどの熱量で、アイリスに合わせて魔法の構造を組み替え、調整を繰り返した。空間に魔法陣を描いては、相手が理解しやすいように簡略化する。
「……この魔法陣の式だとどう?」
目の前に浮かぶ淡く光る魔法陣を指差して、シュデリィは尋ねた。
「うーん……ここがどうなってるかわからないかも」
「……この部分は、反転するためのものだから消せない。じゃあ、先にこの部分だけ練習するために……これだと、わかりやすい?」
シュデリィは、アイリスがわからないと言った箇所を、よりわかりやすく、丁寧に説明する。練習するための魔法陣を作り出す。この繰り返しで、どうすればアイリスに伝わるか、思考をフル回転させていた。
「その、ごめんね、シュデリィちゃん。こんなに付き合わせちゃって……しかも、私、物覚えが悪いし……」
アイリスは、申し訳なさそうにうつむいた。
「……そんなことない。私は、なんだか、楽しい、のかも」
「楽しい?」
予想外の言葉に、アイリスは顔を上げた。
「……私にとって、魔法は生きるための手段だった。だけど、自分の魔法が、アイリスさんのために役立つかも、とか。どうやって、アイリスさんに理解してもらえるか、とか。全部、楽しい」
自分の心に芽生えた感情を、言葉を探すようにシュデリィはゆっくりと話した。
(そんなこと言われると、私のトキメキが止まらない……!)
アイリスはシュデリィの言葉に思わず目をつぶり、胸元を押さえた。
「シュデリィちゃん、やっぱり魔法好きなんだね」
「……私、魔法が好き?」
「そうみえるよ。最近は特に、授業の時とか、今も、魔法が好きなんだなぁって感じるよ」
「……最初の頃は、ちょっと自信を無くしていた」
「そうなんだ……?」
アイリスに魔法を教えていて、シュデリィは気づいたことがある。
それは、アイリスは決して、自分より優れた魔法使いではないということだった。
ただの心優しい、人間の女の子だった。
超高性能な魅了の魔法など、やはり存在していなかったのだ。そのことに安堵する。だが今、まさに感じているこの気持ちは一体何なんだろうと、新たな疑問を抱いた。
自分の知らない、未知の力。
果たしてそれは魔法で対抗できるのだろうか。
シュデリィの探究心が、新たな謎へと向けられていた。
「シュデリィちゃん、ちょっと休憩したい」
少し疲れた様子で、アイリスは言った。
「……わからないけど、わかった」
「薄々気づいていたけど……シュデリィちゃん、休憩しないね」
「……時間がもったいない。でも、人間には休息が必要ということは理解している。皆が私みたいに魔力がたくさんあるわけじゃない。私も魔力が少なかったら、休憩したいと考える、と思う」
「今日はお菓子を買ってきました」
アイリスは、鞄から可愛らしい包みを取り出す。ふわりと甘い香りが部屋に広がる。
「……休憩は必須。お菓子を食べるために」
シュデリィの表情が一瞬で変わる。瞳がお菓子に吸い寄せられるように輝く。
「すごい手のひら返しを見ちゃった」
先日、ケーキを一緒に食べてからと言うもの、シュデリィはすっかり甘いものの虜となってしまっていた。
「……毎日お菓子を食べる時間が欲しい。でも、食べ過ぎは良くない、ってアイリスさんに言われたから」
「そうだよ。健康に良いわけじゃないし、虫歯とかも怖いし。まぁ私も好きだから、こうして買っちゃうんだけど……」
「……そこで、私は考えた」
シュデリィの目がキラリと光る。
「……まず健康面。これは、お菓子が身体に取り込まれなければ良い。そこで、食べたお菓子をそのまま体外に取り出す魔法式を考えた」
シュデリィは真面目な顔で、身振り手振りを交えながら魔法の説明をする。
「絵面が良くなさすぎるんじゃないかな……!?」
アイリスは、シュデリィの発想に思わずツッコミを入れる。想像しただけで、なんだかすごい光景が目に浮かんだ。
「……じゃあ、これは没」
シュデリィはあっさりと諦める。論理的に考えれば絵面は関係ないはず。しかし、アイリスの反応を見てなんとなくダメなのだろうと理解した。
「う、うん。そうして欲しいかな……」
アイリスは、ほっと息をついた。
「……次に、虫歯。これは、口の中の余計なものが全て取り除かれれば良い。まずは口の中の必要なものと不要なものの定義づけをした魔法式を」
シュデリィは、すぐに次の魔法理論を展開する。その探究心はすごいとアイリスは感心したが、なんだかズレていると思わざるを得ない。
「普通に歯磨きをした方が良いんじゃないかな……!?」
「……確かに、そうかもしれない。じゃあ、そうする」
またしてもあっさり引き下がるシュデリィに、アイリスから笑顔が溢れた。
「難しいことは一旦置いておいて、一緒に食べよ」
「……いただきます」
シュデリィは、素直にお菓子を受け取る。キラキラと輝く瞳は、まるで幼い子どものようだった。
「おいしいね、シュデリィちゃん」
サクサクとしたクッキーを口に運びながら、シュデリィに微笑みかける。太陽のようなその笑顔に、シュデリィの心も緩む。
「……うん。こうしていると、普通の人間になってしまったような錯覚に陥る」
「それは、あんまり良くないこと?」
「……そう、思っていた。けど今は、よくわからない」
「私は良いことだと思うけど……。もしかしたら、私だけかな」
シュデリィちゃんが、笑ったり、美味しいと喜んだりするのを見るのが、大好きだから。と、心の中でアイリスは付け加えた。
「アイリスさんが良いことだと言うなら、きっとそう」
「時々、その、シュデリィちゃんの信頼が重くて怖いんだけど……が、がんばろ……私……」
アイリスは自分自身に言い聞かせるように、小さく拳を握る。
「……?」
アイリスの独り言が上手く聞き取れず、シュデリィは不思議そうに首を傾げていた。
そんな様子も、なんだか可愛らしいと思ってしまうアイリスだった。
それからまた、数日経ったある日。
放課後、いつものように自室で魔法の練習をしていると、アイリスから弾んだ声があがった。
「シュデリィちゃん、発動できたよ!」
「……良かった。じゃあ、これを元に、全部の魔法を組み込んだ式がこれ。発動できそう?」
慣れた手つきで、空間に複雑な魔法陣を書き出すシュデリィ。淡い光が瞬き、部屋を満たす。
「やってみる……!」
魔法を発動させるため、アイリスが集中する。
彼女の描いた魔法陣が、魔力と共鳴する。魔法が確かに起動した手応えがあった。
「……これなら、大丈夫」
シュデリィは魔法の起動を確認し、安堵したように呟いた。
「で、できた……! シュデリィちゃんっ!」
アイリスは、魔法が成功したことに全身で喜びを表現した。シュデリィに駆け寄り、思わず抱きつきそうになるが、寸前でこらえる。
「どう? アイリスさん」
「赤いのが、何も見えなくなった……! よ、よかっ……だ……!」
アイリスの目から、止めどなく涙があふれだす。
長年彼女を苦しめてきた、悪意という名の赤い色が視界から消えた。その事実に、安堵と感動が波のように押し寄せる。
「アイリスさんっ!」
泣き崩れそうになったアイリスを、シュデリィはしっかりと両腕で受け止めた。
どうすればいいのかわからず、戸惑いながらも、アイリスをあやすようにぎこちなく頭を優しく撫でる。
二人はお互いの体温を感じながら、抱き合ったままだった。アイリスのすすり泣く声だけが、静かな部屋に響いた。
どれくらいの時間が、そうして過ぎただろうか。少し落ち着いた頃、アイリスがシュデリィから顔をゆっくりと離す。まだ涙の跡が残る顔だったが、アイリスはとても明るい表情をしていた。
「本当にありがとう、シュデリィちゃんっ……!!」
アイリスは心からの感謝を伝える。
「……良かった。とりあえず、まず一つ進歩。これ、魔力消費がある程度高い。私の見立てでは、アイリスさんは常に維持できない。一日の半分くらい」
「生きている時間の半分見えなくなるだけでも、全然違うよ。シュデリィちゃんのおかげだね」
笑顔で答えるアイリス。その笑顔がシュデリィの心を温かくする。
「……これから、もっと根本的な解決方法もみつける。一緒にがんばろう、だっけ」
「確かに、よくいってるかも私。がんばるって」
「……そう。だから、がんばる」
「シュデリィちゃんが一緒なんて、こんなに心強いことはないよ。もう本当に、これ以上シュデリィちゃんのことを、す……」
言いかけて、ハッと口をつぐんだ。
「……す?」
シュデリィは不思議そうに首を傾げる。
「なっ、なんでもないっ!」
アイリスは顔を真っ赤にしながら、大慌てで誤魔化した。
「……??」
シュデリィはアイリスの不自然な反応に、さらに疑問を深めることとなった。
アイリスはそんな様子のシュデリィをみて、愛おしそうに優しく微笑んだ。
そして改めて、アイリスは目の前の、シュデリィのことを想う。
これ以上、あなたのことを『好き』になったらどうしよう。
私のことを、かっこよく助けてくれた。少しずつ、理解しようとしてくれた。
一緒に、楽しい気持ちを共有してくれた。
私のために、このどうしようもない力を解決しようと、いろんなことを考えてくれた。
そんな、優しくて、かっこよくて、可愛い、シュデリィちゃん。
私のはじめての、かけがえのない友達。
もうすでに、どうしようもないくらい好きなのに。
そんなことを伝えても、シュデリィちゃんは困っちゃうだろうから。今は胸の内にしまっておこう。
でも、そんな、そういった関係にはなれなくても。
私のこと、友達だと思ってくれて……いるんだよね?
魔法を解除してもらって……私の力で、シュデリィちゃんの心の中を覗いてみたい。本当に赤くなるのか、ならないのか。それは、すごく怖いけれど。
だけど、知りたい。シュデリィという、私の好きな子のことを。
そんなアイリスの、心の奥底に秘めた気持ちに……『何か』が応えた。
「えっ、な、何!?」
突然、アイリスを中心に、強い光が輝いて……すぐに消えた。
「アイリスさんっ!?」
それは一瞬の、刹那の出来事であった。
特に、何か変化が起きたわけではない。
そして、魔法的な反応も感知されなかった、とシュデリィは観測した。
「一体何が起きたの……?」
「アイリスさん、さっき発動した心理防御魔法、一度切ってみて」
「う、うん……」
アイリスは言われるがままに、覚えたての心理防御魔法を解除する。
再び視界が赤に染まる。だが、それだけではなかった。
「……緑?」
真っ赤だった今までの視界とは違い、新しい色が、はっきりと見えるようになっていた。
「……どうなったの?」
「今まで、赤しか見えなかったのが、緑色も見えるようになってる」
アイリスは、とても困惑した様子で伝えた。
「……ふ、増えたの?」
「うん。緑が何を意味しているかはわからないけど……とりあえず邪魔だから、さっき覚えた魔法で消しちゃう」
そう言って、アイリスは覚えたての魔法を再び起動した。
「……その力について、一つヒントが増えたと考える。これで、調べやすくなる。あと、発動する瞬間を捉えた。もう逃がさない」
ふふふ、とシュデリィは無意識に不敵な笑みを浮かべる。
「そんな、獲物を発見したみたいな。ふふっ、シュデリィちゃん、見たことない顔してる」
シュデリィの普段見せない表情に、なんだか面白くなって、アイリスから笑みが溢れる。
「……そ、そう? でも、アイリスさんを苦しめる何かの尻尾を掴んだ気がするから。笑わずにはいられない」
「もっと、普通に笑ったら可愛いのに。まぁ、今の顔も面白くて好きだったけど」
アイリスはシュデリィの頬にそっと手を伸ばしながら、茶化すように言った。もうどんな表情ですら、愛おしく感じ始めていた。
「……この顔、面白い?」
「今はもう、いつもの無表情だよ、シュデリィちゃん」
「……おかしい、さっきの顔を、再現しているつもり」
「無意識じゃないとできないのかも。ときどーき、笑ったり、嬉しそうにしたり、困ったり……色々な表情をしてるよ」
シュデリィのそんな一面を知っていることが、アイリスにはなんだか特別に思えた。
「……どうしたら、無意識にできる?」
「そう言われると難しいけど……今すぐ変な表情にするのはできるかも」
アイリスは、シュデリィの柔らかそうなほっぺたに指先でそっと触れる。
そして、そのままほっぺたをつまんだ。
「……にゃっ、にゃにするの」
愛おしさが募ってしまい、アイリスは我慢できなくなる。
「ふふふ、シュデリィちゃん、ほっぺたもちもちだねえ」
もう表情とか関係なく、ひたすら触るだけになってしまう。
「……ううー」
シュデリィは逃げようとしたが、自分のほっぺたを楽しそうに触るアイリスが満面の笑顔で。
その輝く笑顔が、あまりにも眩しくて。
あなたの笑顔を、ずっと見ていたい。
そう思ったシュデリィは、無抵抗にアイリスのほっぺた攻撃を受け入れるのだった。