第2話 魅了の魔法
シュデリィは、自身の魔法の腕前に絶対の自信を持っていた。幼い頃から魔王である父に鍛えられ、魔法書を貪るように読み解き、数々の新しい魔法を生み出してきた。魔王からも「お前は魔法において、この世界で誰よりも優れている」と幾度となく言われて育ったのだ。その言葉は、彼女の誇りとなっていた。
そして、魅了の魔法。それは、魔法の中でも難易度が高いと位置づけられる。発動させるためには、魔法をかける相手を凌駕する魔力が必要となる。おまけに効果時間は極めて短く、強い精神力を持つ者には通用しない。解呪にも弱く、実用的な魔法とは言い難いというのがシュデリィの結論だった。
それなのに、まるでおとぎ話にでも出てきそうな完璧な魅了の魔法をかけられた(と、勘違いしている)シュデリィは、人間という存在に対する認識を改め始めていた。
窓の外では学園の庭の木々が夜風にざわめき、時折遠くでフクロウの鳴き声が聞こえる。寮の廊下は静まり返り、生徒たちの寝息だけが微かに響いていた。案内されたばかりの寮の自室。質素ながらも清潔な部屋で、シュデリィは小さく呟いた。
「……人間の魔法が、ここまで進化していたとは」
その言葉には、認めがたい、受け入れられないといった複雑な感情が絡み合っていた。長年培ってきた自身の魔法に対する絶対的な自信が、根底から揺さぶられるような感覚。シュデリィは、自身の胸の奥に渦巻く戸惑いをどうすることもできなかった。
第一に、その人間の少女――アイリスは、シュデリィよりも魔力が高いという計算になる。魔族であるシュデリィでさえ、そんな相手に出会ったことは一度もなかった。信じられない。シュデリィはそう心の中で叫んだ。
加えてこの魅了の魔法には、終わりが見えない。まるで永遠に続くかのように、その効果はシュデリィの心にまとわりついている。焦燥感に駆られたシュデリィは、自身の魔力を行使し解呪魔法を試みた。しかし、その効果は微塵も感じられない。まるで厚い壁に阻まれているようだった。
実際には、シュデリィに魔法などかけられていない。全ては彼女の勘違いなのだが、人間界に来た初日からシュデリィは存在しない魅了の魔法の解呪方法を探し求め、一人で頭を抱えていた。部屋の隅に置かれた机の上には、魔法に関する本が数冊開かれたままになっている。窓から差し込む銀色の月明かりが、シュデリィの焦りを一層際立たせた。彼女の赤い瞳は、必死に解呪の糸口を探そうと文献の上を彷徨っている。
そんなシュデリィの様子を、ベッドに腰掛けたルームメイトが心配そうに見つめていた。その少女こそ、奇しくもシュデリィが魅了された(と信じている)相手、アイリスだった。
「シュデリィちゃん、大丈夫? さっきからずっと、魔法を使っているけど……」
アイリスの、優しくどこか遠慮がちな声が、シュデリィの思考の流れを強引に断ち切った。ハッと顔を上げたシュデリィの視線が、アイリスと重なる。
「……一体、誰のせいだと思っているの?」
シュデリィは、冷たい氷のような声をアイリスに返した。自分の心の中で渦巻く、今まで感じたことのない奇妙な感情。その全てを、シュデリィはアイリスのせいだと決めつけて、鋭い視線で彼女を睨みつけた。
「ど、どういうこと……?」
シュデリィの予想外の言葉と冷たい態度に、アイリスは目をぱちくりとさせ驚く。
それでも、そんな混乱の中でも、彼女の純粋な心には、シュデリィへの心配の気持ちが何よりも先に湧き上がってきた。不安そうに眉をひそめ、心配を隠せない瞳がシュデリィの顔色をそっと覗き込む。
「……あくまで、しらを切るつもりなのね」
そんなアイリスの態度をわざとらしいと捉えたシュデリィの口調は、先程よりも更に冷たさを増した。声には隠しきれない苛立ちと、ほんの僅かな動揺が混じっている。自分の内面の混乱を悟られないように、彼女は必死に虚勢を張っていた。
「……わ、私、何か、しちゃった……?」
そんな冷たい態度のシュデリィに、アイリスは自分の言葉や行動が彼女を傷つけてしまったのではないかと、不安に駆られ始めた。
大きな瞳には、みるみるうちに涙が溜まっていく。今にも零れ落ちそうな大粒の涙が、その淵で揺れていた。
その瞬間、シュデリィはまるで心臓を鷲掴みにされたかのような強烈な罪悪感に襲われた。自分が今、酷い言葉を、酷い態度を、この優しい少女に向けているのだと痛烈に自覚させられた。
「ち、ちがっ……! ご、ごめんなさい……」
まるで体が勝手に動いたかのように、シュデリィは反射的に謝ってしまった。普段は滅多に口にすることのない素直な謝罪の言葉が、自分の意に反して喉から飛び出した。
(この魔法、あまりにも厄介すぎる……!)
シュデリィは、心の中でどうにもならない気持ちを叫ぶしかなかった。
一方で、先程までの強気な態度から一転、急にしゅんとしてしまったシュデリィを見て、アイリスは心配そうな表情を和らげ優しく話しかけた。
「さっきは、本当にありがとう。あの時、シュデリィちゃんが助けてくれなかったら、私、どうなっていたか……。そのお礼というわけじゃないけれど、もし、シュデリィちゃんが何か悩んでいるなら、私は力になりたい。遠慮せずに、いつでも相談してね」
アイリスは、まるで春の陽だまりのような温かく優しい声で言った。その言葉と眼差しがシュデリィの心を更に掻き乱す。今まで感じたことのない胸の奥が締め付けられるような感覚に、彼女は混乱していた。
「……わ、わかった……」
アイリスの優しい視線から逃れるように、シュデリィは俯きながら答えた。今すぐにこの気まずい空間から逃げ出してしまいたい。そんな衝動に駆られていた。そもそもシュデリィは、誰かと親密な時間を過ごしたことも、実の父である魔王以外とまともに会話した経験もほとんどない。このどうしようもなく居心地の悪い空気をどうにかする方法など、彼女の頭には一片も思い浮かばなかった。
少し時間が経ち、シュデリィの心にわずかな落ち着きが戻ってきた頃。彼女は心の中で、改めて今日起こった出来事について考え始めた。
(……なぜ、このアイリスという少女は、誰もいないはずの夜の時間に、あの場所にいたのだろう)
もしかしたら、彼女こそが魔界への門を開いた犯人なのではないか――そんな疑念が、シュデリィの心に浮かんだ。門を開くほどの強大な魔力を持つ者であれば、自分に完璧な魅了の魔法をかけることも不可能ではない。そのことを直接問い詰めるためにまずは解呪を試みていたのだが、無残にも失敗に終わっていた。
幸いなことに、このことを問い詰められないほど魅了されているわけではないとシュデリィは判断し、直接アイリスに尋ねることにした。警戒しながらも、探るような視線をアイリスに向ける。
「……今日あの時間、なぜあなたは外にいたの?」
「えっとね、嫌な予感がしたというか。すごく悪い胸騒ぎがして。このままだと、みんなが危ないって、思わずそこに向かったの。そしたら……」
「私がいた、ってことね」
相手が嘘をついているかどうかを、シュデリィは魔法で判別できる。その魔法を発動するためには目を見なければならない。ゆえに対策も簡単であるが、それを知らない相手には有効に働く。
その魔法が、アイリスは嘘を言っていないと告げていた。しかし、相手はとんでもない魅了の魔法を使う可能性のある人物だ。油断はできない。
だがそれと同時に、この話が嘘でないのであればアイリスは稀有な聖女の才能の持ち主だとシュデリィは考えた。彼女の持つ、人を癒す魔法。そして、魔物の気配を敏感に察知する能力。それらを総合的に考えれば、アイリスが特別な力を持っていることはごく自然な結論だった。魔物のいる場所まで正確に分かるとなると、その適正は驚くほど高い。
「そう。私、すごく強そうな魔物の気配を感じて、びっくりして腰が抜けちゃったの。そしたら、いきなり攻撃されて。もう、本当にだめかと思った。でも、そこにシュデリィちゃんが現れて、助けてくれたから。本当にありがとう。あの時のシュデリィちゃん、すっごくかっこよかった!」
目をキラキラと輝かせながら、アイリスは興奮した様子で言った。その表情は、まるで憧れのヒーローについて語る少女のようだ。
「……それは、どうも」
シュデリィは、平静を装ってそっけない返事をした。内心では褒められて、心臓がドキドキと高鳴っている。顔が熱くなるのを自覚しながらも、これは全てあの魅了の魔法のせいなのだと、必死に自分自身に言い聞かせた。
「でも、シュデリィちゃん、あんなに危ないことして……私たち、今日がはじめましてだったけど、すごく心配だったし、不安だった」
「それは……ごめんなさい」
「謝ることは無いけれど……。ねぇ、シュデリィちゃんは、どうしてあんなに強いの?」
アイリスの純粋な問いは、シュデリィにとって避けられないものだった。どう答えるべきか、シュデリィは一瞬言葉に詰まる。
キラキラとした瞳で自分を見つめる目の前の少女を、自分の正体を明かすことで怖がらせてしまうのではないか。そう考え、シュデリィは少し躊躇した。しかし、嘘のつき方もよくわからない。シュデリィは覚悟を決めて、ゆっくりと口を開き始めた。
「…………私は、魔族なの。そして、人間界に現れた、悪い魔物を、魔界に送り返すのが私の役目。人間のふりをしているのは、その方が色々と都合が良いし、余計な詮索をされなくて済むから」
「そ、そうだったんだ……」
「…………私のこと、怖い、よね」
自分の言葉がアイリスにどう受け止められるか、シュデリィは不安でたまらなかった。覚悟を決めて全てを伝えた後、彼女はぎゅっと目を瞑った。人間から嫌われることなど自然で、気にすることではないと思っていた。むしろこちらから、人間のことなど見下していた。それなのに今は胸の奥が締め付けられるように苦しくて、泣き出してしまいそうだった。
そんな様子のシュデリィをみて、アイリスは躊躇うことなく、シュデリィの冷たい手をそっと握った。その小さな手から伝わる温かさが、シュデリィの心にじんわりと広がっていく。
「ううん。全然怖くないよ。こんなに優しい魔族さんがいるんだね。私、なんだか、とっても嬉しい」
「……優しくは、ない」
「ううん、優しいよ。だって、私のこと、あんなに危ない目に遭いながらも、助けてくれた。それに、自分が魔族だってこと、隠しても良いのに、教えてくれた。それに、打ち明ける時、すごく不安そうな顔をしていたから。それって、私のことを考えてくれてる証拠でしょ?」
アイリスは、まるで太陽のように温かい眼差しでシュデリィを見つめた。その瞳は一切の曇りがなく、真っ直ぐにシュデリィの心を見透かしているようだった。
「……それは、だって、嘘のつき方が、よく分からなくて。なのに、私、あなたに嫌われたくなくて。どうしたら良いのか、分からなかった」
シュデリィは、自分の胸の内を素直にアイリスに打ち明けた。普段の強気な態度はどこへやら、今はただの不安を抱えた少女の顔だった。
「ふふっ、シュデリィちゃん、可愛いね」
アイリスは堪えきれずに、くすくすと笑い出した。
「……なっ、何、急に」
「私と、仲良くなろうとしてくれてるんだよね?」
「……そうなの? 自分でも、よく分からない」
「嫌われたくないっていうのは、そういうことじゃないのかな」
「……それが、どうして可愛いに繋がるの?」
シュデリィは、不思議そうに首を傾げて尋ねた。彼女の赤い瞳が、潤んだようにきらめいている。
「だって、さっきあんなに強くてかっこよかったシュデリィちゃんが、私とお話するとき、ずっともじもじしてるから! いわゆる、ギャップ萌えってやつだよ!」
突然、目をキラキラと輝かせながら、アイリスは早口でまくしたてた。その熱意に、シュデリィは思わずたじろいでしまう。
「……ギャ、ギャップ……なに?」
生まれて初めて聞く言葉に、シュデリィは戸惑いを隠せない。眉をひそめ、首を傾げた。
「こんなに可愛くて、かっこいい子、怖いわけないよっ!」
アイリスは、そう言って躊躇うことなくシュデリィをぎゅっと抱きしめた。その小さな体から伝わる温もりが、シュデリィを包み込む。
シュデリィは、突然の出来事に顔を真っ赤に染めながら、それを無抵抗に受け入れた。温かい。生まれて初めて感じる、誰かの温もりだった。戸惑いながらも、その温かさにほんの僅かな安堵を覚える。
「……そ、それなら、良かった」
なんだかよく分からなかったものの、アイリスに怖がられていないことが分かり、シュデリィは心の底からほっとした。張り詰めていた心が、ふっと緩んだような気がした。
「これからよろしくね、シュデリィちゃん」
「……今更だけど、その、シュデリィちゃん、って何?」
「えっ!? 名前、シュデリィちゃんじゃないの!?」
「……私の名前は、シュデリィ」
「だから、シュデリィちゃんだよね?」
「……? ちゃん?」
「もしかして、魔族の人って、『ちゃん』付けしないんだ……! でも、可愛いから、シュデリィ『ちゃん』なんだよ!」
「……よくわからないけど、わかった」
可愛いと言われて、全然悪い気はしない。むしろどこかこそばゆいような、不思議な感覚が胸の奥にじんわりと広がっていくのを、シュデリィはアイリスの温かい腕の中で感じていた。