第1話 出会い
「……ここが、学校」
周囲はインクを零したように真っ暗な闇に包まれていた。星一つ見えない夜空の下、シュデリィは重いトランクをカラカラと引きずりながら、人間界と魔界を繋ぐ歪んだ空間、その裂け目をくぐり抜ける。目の前に広がるのは、これから彼女が通うことになる王立魔法学園の立派な門だった。
「……思っていた以上に、大きい」
渡された簡素な地図と、目の前にそびえ立つ学園を交互に見比べ、シュデリィは小さくつぶやいた。
彼女は今まで、こんなにも巨大な建物をみたことがない。魔王城はここと比べれば随分と小さく、殺風景な場所だったな、とシュデリィは心の中でそっと比較した。
学園の敷地に足を踏み入れた瞬間、目には見えない、何かを通り抜けたような不思議な感覚がシュデリィを襲った。肌に微かな痺れが走る。
(……これは、魔族を通さないための結界)
今のシュデリィは、特殊な魔法によって魔族の象徴である角や羽、尻尾を隠し、魔力の性質などを含め完璧に人間に擬態している。そのため、結界を難なく通り抜けることができた。無事に通ることができて、彼女は小さく息を吐き、ほっと胸を撫で下ろした。
このままシュデリィは、あらかじめ指定された寮まで行くことになっていたため、再び重いトランクを引きずりながら石畳の道を歩き出した。
夜の学園は、まるで一つの小さな街のようだった。街灯の光が届かない場所は、深い闇に包まれ、どこまでも続いているように思えた。時折、どこからか聞こえてくる虫の声が静けさを際立たせる。学園の敷地は、シュデリィが想像していたよりも遥かに広大だった。寮や食堂、図書館といった主要な建物はもちろん、広大な訓練場、夜の闇に黒々と浮かび上がる魔法植物が生い茂る庭園、さらには奥深く続く小さな森まで存在した。
その一角には、ひときわ大きく、明るく輝く建物があった。それは教会だった。荘厳な雰囲気を漂わせ、煌びやかな装飾が夜の闇の中でも目を引く。それを見たシュデリィは、小さくため息を一つついた。
「……早く帰りたい」
親である魔王から任務と言われたため、シュデリィは仕方なく人間界の学校に通うことになった。しかし全く乗り気ではなかった。その理由の一つに、魔族という存在が人間に酷く嫌われている、という事実がある。特に教会はその最たる例で、もはや魔族を討伐するために存在していると言っても過言ではない。
シュデリィにとって、ここは敵地のど真ん中。いくら完璧に人間に擬態しているとはいえ、常に警戒を怠ることはできず気が重かった。
そんな中、人気のない夜の学園を一人で歩いていると、シュデリィは早くも微かな魔族の気配を感じとった。それは彼女にとって決して強くはないが、確かにそこに存在する、紛れもない魔の気配だった。
「……さっそく、お仕事の時間」
シュデリィは小さく呟き、魔族の気配がする場所へと足早に向かった。
その場所に辿り着くと、目の前には黒く大きな空間、まさしく魔界の門が開かれている。そこにはシュデリィの身長の倍はあろうかという人型の、禍々しいオーラを纏った魔族がすでに人間界に降り立っていた。
学校の敷地内で魔界への門が開いてしまうと、学校の周りを覆っている強力な結界も意味を成さず通り抜けることができてしまうのだな、とシュデリィはどこか他人事のように、冷静に分析した。
「グオオオオオ!」
魔族がこちらに気づいたのか、ギョロリとした赤い目をシュデリィに向ける。そして、耳をつんざくような奇声を発しながら手にしている巨大な剣を振り上げ、シュデリィに襲いかかった。
シュデリィは、迫り来る魔族の攻撃を最低限の動きでかわした。次の瞬間、渾身の力を込めた拳を相手の巨体に向けて放つ。鈍い衝撃音が夜の闇に響き渡り、相手は大きくのけぞり、そのまま地面に叩きつけられた。
「……倒して、送り返す」
冷たい氷のような視線を倒れた魔物に向けたシュデリィは、どうやってこの相手を魔界の門に送り返すかを冷静に思案していた。
その時、倒れていた魔物の目が獲物を定めるように鋭く光り、ゆっくりと顔を上げた。その視線の先にいたのは、近くの建物の陰に隠れていた一人の人間の少女だった。
「へっ? きゃああっ!」
魔物が、少女に向けて魔力を凝縮させた刃を放ったため、反射的にシュデリィはその少女を庇うように飛び出す。そのまま飛んできた魔力の刃を咄嗟に手で受け止めた。掌に僅かに皮膚が焼け焦げるような、チリチリとした痛みが走った。
「……なんで私が、こんなこと」
シュデリィは思わず独り言を呟いた。なぜ自分が、こんなにも弱い人間を守らなければならないのか。改めてその理由が理解できなかった。しかもこんな下等な雑魚相手に、軽傷とはいえ傷を負わされたことが心底許せなかった。
「……魔界に、帰って」
すぐに魔物との距離を詰めたシュデリィは、再び渾身の力を込めた拳で相手を殴り飛ばした。吹き飛ばされた巨体は、今度は抵抗する間もなく、開かれたままになっている魔界の門へと吸い込まれるように消えていった。魔物が完全に門の中に入ったのを確認してすぐに、シュデリィは魔力で強引に魔界の門を閉じた。空間が歪み、黒い亀裂がまるで何事もなかったかのように静かに消えていく。
そんな一連の、目にも止まらぬ速さのやり取りを間近で見ていた少女は、恐怖と混乱で全身を震わせながらも、すぐにシュデリィに駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫!? すぐ治すねっ!」
少女は両手を胸の前で合わせ、祈るようなポーズをとる。そして、柔らかな優しい光を帯びた魔法を唱え始めた。周囲の空気がじんわりと温かくなり、シュデリィは掌の傷が癒えていくのを感じた。今まで感じたことのない、温かい、不思議な感覚だった。
そんな見ず知らずの自分を、純粋に心配し、回復魔法をかけてくれる少女の姿を見て。
シュデリィは、この少女のことを綺麗だと感じた。月明かりに照らされて、金色に近いクリーム色の髪が、優しく輝いている。
魔法を唱える姿は真剣そのもので、神聖で、どこか神秘的だと感じた。
自分のために何かをしてくれる、という行為そのものに、シュデリィの胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
それはシュデリィにとって、どれも生まれて初めて経験する感情だった。
シュデリィが戸惑っていると、祈りを終えた少女は心配そうな表情で話しかけた。
「もう大丈夫だよ。それと、守ってくれてありがとう。私、すっごく怖かった。あなたがいなかったら、どうなっていたことか……。本当に、ありがとう」
そう言って、少女はシュデリィの手を両手でそっと握り、太陽のように眩しい満面の笑顔で心からの感謝の言葉を伝えた。
そんな少女の姿を、真正面から受け止めたシュデリィは……。
「…………へっ?」
生まれて初めて経験する、あまりにも複雑で、言語化することのできない感情に、頭の中の処理が全く追いつかない。心臓がドキドキと激しく脈打ち、全身が熱くなるのを感じる。自分の顔が信じられないほど真っ赤になっていることに、彼女自身は全く気づいていない。
知らない感情で胸がいっぱいいっぱいになっていて、ただただ目の前の少女から目が離せない。それを言語化する術を持たない彼女は、混乱する頭の中でいくつかの、全く的外れな仮説を必死に立て、唯一思い当たったのが、
(……人間相手に、魅了の魔法をかけられた……!?)
と、全くの見当違いな結論に至った。