第18話 魔王城でのひととき その2
二人は寄り添いながら、部屋のこたつでのんびり過ごしていた。
いつもの魔法の研究も、学校の勉強も、今日は全部お休み。本当に何もせず、ただ心地よい時間に身を任せていた。
「さっきまでのことが、嘘みたいに平和だね」
アイリスは心底幸せそうに、まどろんだ声で呟いた。
「……今日はもう、何もしたくない」
「珍しいね、シュデリィちゃんがだらけているの。そりゃもう、色んなことがあったけど……」
「……もう、魔力もあまり残っていない。力もたくさん使って、疲れた」
「そ、その、私が癒してあげるから。……ほら、こっちにおいで」
アイリスはそういうと、優しく両手を広げた。
シュデリィは、嬉しそうに真正面からアイリスに抱きついた。彼女の身体は、アイリスの胸にすっぽりと収まる。甘えるように顔をグリグリと押し付け、まるで喉を鳴らす子猫のように身を寄せる。
「……アイリスさん」
甘えた声が、アイリスの耳元で囁かれる。
「どうしたの、シュデリィちゃん」
アイリスは、シュデリィの頭を優しく撫でた。
「……名前を、呼びたくなっただけ。理由は、秘密」
「今日は秘密が多いね、シュデリィちゃん」
シュデリィの秘密は、アイリスにはもうお見通しだった。だからこそ、胸のドキドキがおさまらない。じわりと顔に熱が集まるのを感じた。
「……アイリスさんにも、秘密がある?」
シュデリィは、いたずらっぽい上目遣いでアイリスを見上げた。
「ど、どうかな。ある、けど……もう、全部言っちゃった気もする……でも一応、秘密」
「……ふふふ、秘密同士」
(シュデリィちゃん、何が秘密なのかわかってるよね!? これただの両想いって話じゃ……!?)
アイリスは思わず目を閉じ、溢れそうになる気持ちを必死に堪えた。熱くなった頬を膨らませる。体中から「好き」の感情がこぼれ落ちるようだった。
二人は身体を寄せ合ったまま、穏やかなひとときを過ごした。窓の外はすっかり夜になっていた。
「お腹空いてきたね、シュデリィちゃん」
アイリスのお腹が、小さく鳴った。
「……今すぐ用意する」
シュデリィが魔法を唱えると、壁の一部が淡く光る。その奥からまるで隠し扉が開くように、色とりどりの食材が引き出されていく。
「どういう仕組みなのこれは」
「……本当は秘密だけど、アイリスさんが将来ここで暮らすなら覚えてもら……」
そこまで言って、シュデリィはぴたりと固まった。みるみる顔が赤くなる。
「将来、ここで一緒に暮らすの?」
そんなシュデリィの様子が愛しくて、アイリスは思わず顔をにやけさせてしまう。
「ち、ちがっ……これは、私の勝手な……! それより、人間界で暮らす方がいいはず……! 魔界は、人間界に比べると何もない。だからアイリスさんとしても……!」
混乱のあまり、シュデリィは言葉をめちゃくちゃに紡ぎ出す。その目はぐるぐると泳ぎ、完全に思考が停止しているようだった。
「な、なんの話……!?」
「あ、あと……! シュヴァルロードの名前は、聖属性魔法が無効になるメリットもあって……!!」
「ほ、本当になんの話!? 落ち着いてシュデリィちゃんっ!」
アイリスの声が届き、シュデリィははっと我に返った。深呼吸して、どうにか冷静さを取り戻す。
「……あぶない。秘密がバレるところだった」
「もうなんか、全部がバレてない……?」
アイリスは困ったように笑いながらも、心の奥では抑えきれない歓喜が渦巻いていた。
目の前に、色とりどりの食材が運ばれてきていた。アイリスは思わず息をのむ。見たことのない色のお肉、触るとプルプルと揺れる奇妙なキノコ、そして虹色に輝く葉。見慣れないものばかりで、少しばかり不安が募る。
シュデリィはそれらを机の上に置いた。慣れた手つきで火属性魔法と水属性魔法を駆使し、大きな器に水を入れ温め始めた。湯気が立ち上る中、シュデリィはそこに色とりどりの食材を丁寧に入れていく。
「……これは『魔界鍋』」
「魔界の料理は大胆だねぇ」
「……適当、ともいう。魔族は大雑把なのかもしれないと、人間界で暮らしていて感じた」
「でも、シュデリィちゃんは大雑把って感じはしないね」
「……アイリスさんは、どっちが良いと考える?」
「大雑把か、そうじゃないか、ってこと? うーん……シュデリィちゃんのことなら、どっちだって良いと思うけど……」
「……アイリスさん、私への評価が甘い」
「そりゃ、だって。シュデリィちゃんだって、私に甘いよ」
「……たしかに。そうかもしれない」
二人が言葉を交わすうちに、いつしか料理は完成していた。
鍋から、甘くも香ばしい不思議な匂いが立ち上る。
「魔界鍋ができた」
「じゃあ、一緒に食べよう! ありがとう、シュデリィちゃん」
「……アイリスさんも、たくさん手伝ってくれた。ありがとう」
「どういたしまして! じゃあ、早速……!」
アイリスの言葉に、シュデリィも小さく頷いた。
それぞれが器に取り分け、アイリスは少し躊躇しながら、シュデリィは静かに、そっと一口食べた。
「えっ、あ、甘っ……!?」
「……この前のケーキを参考に、味を作ってみた。もしかして、変……?」
シュデリィは、不安げにアイリスの顔を覗き込む。
「ふ、不思議な味だね……! これはこれでその、斬新かもしれない……けど……?」
シュデリィは、まっすぐアイリスの目を見つめた。
「……アイリスさん、本当のことを言ってほしい」
「正直……ちょっと、変、かも……!」
「……味を、変える。どういう味が好き?」
シュデリィは、すぐに改善しようと魔法を構える。
「私が想像していたのは、学食のお肉料理とか、そういう感じだったんだけど……。というか、今から変えられるの……!?」
「……変えられる」
シュデリィが魔法を使うと、鍋からパチパチと音が鳴り、湯気が色を変えた。
そして再び食べては、アイリスが感想を伝えていく。
「これは、食感がシャキシャキしてるのに、お肉の味がするのが違和感……?」
「……難しい」
「な、何この感触。ぷにぷにしてて……食べたらしょっぱくて……後味が甘い」
「……これだとどう?」
「これは、フルーツを煮詰めたような甘い味がして……でも、若干肉の旨みがする……!」
「……甘さ控えめにした」
「今度はだいぶ酸っぱくなったかも……!」
「……難しい。いかに今まで適当に調整していたのかが、よくわかった」
シュデリィは、小さくため息をついた。
「む、難しいね……。でも、シュデリィちゃんが一生懸命作ってくれるなら、どんな味でも嬉しいよ」
「……それでも、アイリスさんに美味しいと思ってもらいたい」
「私には応援することしかできないけど……! でもそんなシュデリィちゃんのことが……!」
そこまで言って、アイリスの口元が自然とゆるんだ。魔界の食材が持つ思わぬ作用か、それともシュデリィへの溢れる愛しさか。彼女の瞳は甘く潤み、みるみるうちに頬が赤く染まっていく。まるで夢見心地のように幸福に満たされ、体中がふわふわと軽くなったようだった。
「えへへへへへ。シュデリィちゃん、だーいすき!」
その声は甘く、ぽわぽわとした響きだった。アイリスは、そのまま勢いよくシュデリィに抱きついた。突然の重みに、シュデリィは思わず体勢を崩しよろめく。
「な、な……っ! アイリスさんっ! わ、私もっ! 好き……で、す。私と、番になって、ほし、くて」
シュデリィは、顔を真っ赤にしてどもりながら、それでも必死に言葉を紡ぎ出す。
「つがいー? シュデリィちゃん、それ、なぁに?」
シュデリィのことを抱きしめながら、アイリスは呂律が回っていない声で問いかける。
「……っ、え、えっと……番は魔族にとって、一生を共にする、とても大切な関係を指す言葉で……!」
必死に言葉を重ねるが、混乱した頭ではなかなかまとまらない。
「シュデリィちゃん、なんれもしっててしゅごいねっ!」
アイリスは、さらにシュデリィに甘えるように、ぎゅっと抱きしめる力を強める。シュデリィは身動きが取れないまま、その勢いに飲まれていくのだった。
「……アイリスさんっ!? 急にどうしてこんな……っ!?」
シュデリィは状況が理解できず、ただただ戸惑うばかりだった。
その時、アイリスの指がシュデリィの頭のてっぺんをわしわしと撫で始めた。
「シュデリィちゃんのかわいいおツノはこのあたりー?」
アイリスの指が、シュデリィの頭のてっぺんを無邪気に探る。
「……い、今は、隠して、いる、けど」
くすぐったそうに身じろぎながら、シュデリィは答えた。
「ふふふ、みせてー?」
アイリスの無邪気で甘えた声に、シュデリィは抗うことができなかった。
「……は、はい……っ!」
シュデリィが魔法を解除すると、彼女の頭から、二本の角がひょこっと現れた。
「わぁ、シュデリィちゃんのツノだー! かわいいっ!」
アイリスは、子供のようにきゃっきゃと歓声を上げながら、その角に夢中になった。愛おしそうに何度も撫で、その珍しい感触を楽しむ。
「……アイリスさん、頭のツノを触る行為は、魔族にとって、とても、とっても神聖な行為でっ……!」
シュデリィは、全身を硬直させながら、か細い声で訴える。
「なんかふしぎな感触だーっ! すごいすごいっ」
アイリスは、全く気にすることなく、まるで幼い子供のように無邪気な笑顔で、角の感触を楽しんでいた。
「……それこそ、番にしか触らせないからっ……!」
シュデリィは、もう限界といった様子で、蚊の鳴くような声で呟いた。その顔は真っ赤を通り越して、今にも爆発しそうなほどだった。
アイリスがシュデリィの角をしばらく撫でていると、ふとその手が止まった。夢から覚めたかのように彼女の瞳から焦点が戻り、きょとんとした表情でシュデリィを見つめている。
「…………あれ? シュデリィちゃん、いつの間に人間に擬態する魔法、解除したの? 魔界だと気にしなくて良いから?」
アイリスは、何でもないことのように首をかしげた。彼女の記憶からは、先ほどの出来事がすっぽりと抜け落ちていた。
「……アイリスさん、もしかして、その、記憶が」
シュデリィは、青ざめた顔でアイリスを見つめた。
「…………え? あれ? 何かあった? そういえば、魔界鍋を食べていたのに……突然記憶が」
アイリスはこめかみを指で押さえ、混乱したように呻いた。
「…………はぁぁぁ……」
シュデリィは、肩から力が抜け落ちたかのようにうなだれて、とても大きなため息をついた。その溜め息が、彼女の諦めと途方もない困惑を物語っていた。
「えっ、シュデリィちゃん……!? どうしたの!? 私、何かしちゃった……!? ご、ごめんねっ! 全然覚えてなくて……!」
シュデリィのその様子に、アイリスは自分がよほど何かしてしまったと察しみるみる顔を青ざめさせた。どうにか状況を理解しようと、しきりに謝罪の言葉を重ねる。
「…………はじめて、許したのに」
深い悲しみと戸惑いが混じった小さな声で、シュデリィは呟いた。
「わ、私何をしちゃったの……!?」
アイリスはますますパニックに陥った。
「……アイリスさんになら、良いって思ったのに」
シュデリィは頬を膨らませ、拗ねたように言った。
「本当にごめんーっ!! な、何しちゃったの私……ううう。焼くなり煮るなり魔界鍋に入れるなり、好きにして……!」
アイリスは観念したように両手をあげ、シュデリィのなすがままになろうとした。
「……そんなに困らせたかったわけじゃない。でも、あとで仕返しする」
「え、シュデリィちゃんの仕返し……? ちょっと楽しみかも」
「……反省して」
「ごめん、シュデリィちゃん」
「……許す」
「…………シュデリィちゃん、あ、あのね……ツノ、触ってもいい?」
アイリスは、恐る恐るシュデリィの顔色を伺いながら尋ねた。
「……うぅ……! 反省してーっ!!」
「ごめんなさいっー!!」
魔王城史上はじめて、シュデリィの叫びが城の中に響き渡る。
その声は、恥ずかしさとアイリスへの抗えない好意に満ちていた。
夜の帳は深く、窓の外は静かな闇に包まれていた。
魔界鍋を食べ終え、食器を魔法で片付けたシュデリィとアイリスは、身支度を済ませ、あとは寝るだけとなった。
シュデリィの部屋にはベッドが一つしかなかったが、二人で寝るには十分な広さがある。
「じゃあ、おやすみなさい。シュデリィちゃん」
「……おやすみなさい。アイリスさん」
「今日は色々あったけど……シュデリィちゃんとこうやって、ゆっくり過ごせてよかった。毎日こうだったらいいのに」
アイリスは天井を見上げながら、夢見るように呟いた。声の端々には、心からの安堵と、この穏やかな時間がずっと続いてほしいという願いが込められていた。「えへへ」と、小さく笑いながら、彼女は照れを隠した。
アイリスの素直な言葉が、シュデリィの心臓をぎゅっと掴んだ。
緊迫した状況から解放され、こうしてアイリスと二人きりで過ごす静かな時間。その全てが、これまで知らなかった温かさでシュデリィの心を包み込む。
自分の内側で、止めどなく膨らんでいくこの『大好き』という気持ちに、彼女はもう抗いきれなかった。理屈では説明できない、胸の奥から湧き上がる衝動が、彼女の体を突き動かす。
そして、ゆっくりと、まるで大切な宝物を扱うかのように、アイリスに顔を近づけて――。
「え、えっ、ど、どう、したの? シュデリィちゃん……」
突然のことに全身が熱くなり、アイリスの思考は追いつかない。瞳を大きく見開き、動揺を隠しきれないままシュデリィの顔を見つめ返した。シュデリィの瞳がいつも以上に、吸い込まれるほど輝いてみえた。
「……その、魔力が、欲し、くて……?」
シュデリィは視線をわずかに外し、か細い声で呟いた。この数日の魔力消費が激しかったから、と彼女は慌てたように言い訳を並べる。普段の落ち着いた調子とはかけ離れて、少し震えているようだった。
この行為に本当にそんな効果があるのか、彼女自身わかっていない。ただただ、この切ないほどの衝動を誤魔化す精一の理由だった。
「そ、そう、なんだ。魔力の補給じゃ、仕方ない、よね……?」
アイリスはシュデリィの突然の行動に、胸の奥が甘く締め付けられるような喜びを感じていた。目の前のシュデリィが自分に顔を近づけて、可愛らしい言い訳をしている状況が、たまらなく愛おしかった。このままでいたいという気持ちが、理性をはるかに上回った。
「…………うん。魔力の……そう」
シュデリィは小さく頷いた。その瞳はまだ少し泳いでいる。だが逃げ出すことも、これ以上言葉を紡ぐこともせず、二人はもう一度顔を近づけた。
「シュデリィちゃん、私も、魔力の、その、補給、必要かも」
アイリスは勇気を振り絞り、本心と少し悪戯心が入り混じった声でぽつりと呟いた。
「…………アイリスさんも、必要だと、思う」
シュデリィは、どうにか絞り出した声で答えた。
お互いに言い訳を重ねる。その甘い言い訳が、二人の間に漂う特別な感情を隠す、優しくて、ちょっぴりおかしな「秘密」だった。
『魔力』は、甘い味がした。




