一時帰宅と課題
翌日、神殿に迎えにきてくれた殿下の馬車に乗せてもらい帰宅すると、玄関に両親とルクレツィオ兄様が待ち構えていた。
「勢揃いで、どうかされたのですか?」
ただならぬ雰囲気と皆の表情にたじろぎ、一歩後退る。すると、なぜか兄様が大きく一歩詰めて来た。
「アリーチェ、どういうことだい? どうして、イヴァーノと一緒に帰ってくるの?」
「え? それは……イヴァーノ兄様が今朝迎えにきてくださったので」
「へぇ」
兄様、もしかして怒っているの? でも、どうして? 奉献生活を応援してくれると言っていたのに……。
笑みを深めて私と殿下を見てくる兄様が、なんとなく恐ろしくて、私はまた一歩後退った。それと同時にお父様が私の肩をガシッと掴む。
「お父様?」
「アリーチェ、なぜだ? 神殿からの使者より、週末以外は神殿に身を置き、奉献生活をしながら学ぶと聞いた時はとても驚いたぞ。ルクレツィオからは通いと聞いたのに話が違うではないか」
「えっと……相談もなく決めて、ごめんなさい。でも、首座司教様がそうしろとお命じになったのです」
「だからといって」
とても怖い顔で詰め寄ってくるお父様に怯むと、お母様が話している途中のお父様を押しのけて、私の手を取った。
「マリアンナ! まだ私がアリーチェと話しているところなのだぞ」
「旦那様ったら、まずはアリーチェの頑張りを褒めてあげるべきなんじゃないかしら? この子は七歳にして、わたくしたちから離れて、神殿で五日も頑張ったのよ。イヴァーノから聞いていた報告を忘れたの? 大人でも大変な量を頑張っていたのだから、まずは褒めてあげるべきでしょう!」
「お母様……」
お母様の言葉にお父様が言葉を失い、力なく「アリーチェ、よく頑張った」と褒めてくれた。でも、「ほどほどにしてくれ」となんだか寂しそうだ。
「お父様、ありがとうございます」
「アリーチェ。まずは、おかえりなさい。元気そうで何よりだわ。わたくしたちは貴方が決めたことなら、応援するわ。頑張りなさいな」
「はい、お母様!」
お母様の懐の深さに感激しながら、私はお母様に抱きつこうとした。その途端、ルクレツィオ兄様がぎゅうっと抱きついてくる。
「に、兄様?」
「アリーチェ、神殿での生活はどうだい? まだ幼いアリーチェが神殿で奉献生活という時点で不自由だらけだと思うけど……つらかったら、いつでも帰ってくるんだよ」
「ありがとうございます、ルクレツィオ兄様」
「本当なら僕も父上も今すぐやめさせたいけど、自ら未来を切り開いていくための頑張りだというのなら、僕たちは見守るよ」
「兄様……」
私を気遣ってくれる兄様の優しい声音と言葉に、泣きそうになってしまい兄様の胸にすり寄る。すると、包み込むように抱き締めてくれた。
「其方たち……。心配なのは分かるが、そろそろ中に入れてやれ。アリーチェは疲れているんだぞ」
呆れたような殿下の声に私も含め皆がハッとする。
そういえば、ここは玄関だ。
「そうですね、中に入ってお話をしましょう」
私がえへへと笑いながらそう言うと、皆も頷いてくれる。
その後は応接室へと場を移した。お父様の隣にお母様が座り、なぜか私を挟むように殿下と兄様が座る。
私はやや落ち着かない心境のまま、神殿での生活を皆に報告した。詳らかに報告しては、お父様や兄様が心配すると思ったので、かいつまんで話した。
魔獣を倒しただなんて言ったら、特にお父様は卒倒してしまいそう……。
その報告をお母様と殿下が誇らしげに聞いてくれている。話すたびに兄様が「よく頑張ったね」と頭を撫でてくれた。
「殿下、通いではいけないのですか?」
「ヴィターレ……。アナクレトゥスがそう決め、アリーチェが了承した以上、私からは何も言えぬと何度も言っておろう」
きっとそのやりとりを何度もしているのだろう。父の言葉に、うんざりとした顔で答えている殿下を見ながら、私は小さな息を吐いた。
ちゃんと自分の気持ちを伝えないといけないわよね。伝えて分かってもらわないと。
「お父様、神殿での生活は楽ではありません。正直に申しますと、つらいことのほうが多いです。それでも私は自分が持つ全属性の魔力を揺るぎないものにしたい。イストリアに役立つ人間になりたいのです。そのために頑張りたいと思っています。応援してくださいませんか?」
正直なところ、殿下の真意はまだ分からない。それでも、以前と違うということは分かるようになってきた。
私は神様からも殿下からもやり直すチャンスをいただいたのだ。なら、それを棒に振りたくない。心配してくれる気持ちは嬉しいけれど、どうか見守ってほしい。
私は立ち上がり、今の自分の想いをすべて込めて、お父様に頭を下げた。
本当はこの五日間帰りたいと思うことも屡々あったけれど、それでも自分自身のためと奮い立ち頑張ってきたのだ。
私は人質としての不確かな立場から、イストリアに必要とされる人間になると決めた。我が家で守られ甘やかされていては、きっと前には進めない。
私はお父様の目をしっかりと見据えた。
「よく言った、アリーチェ。私は其方を誇らしく思うぞ」
「わたくしもそう思うわ。わたくしの娘は皆に心配してもらわなきゃならないほど弱くはないのよ。アリーチェ、強くありなさい。そして決して忘れないで。何があってもわたくしたちは貴方の味方ですよ」
「ありがとうございます、殿下、お母様」
私の言葉に殿下とお母様が褒めてくれる。
残りの二人に視線を送ると、兄様は私の手を握り、「もちろん応援するよ」と言ってくれた。
「……分かった。認めよう」
「お父様! ありがとうございます!」
「我が娘が国のために役立ちたいと、そのために頑張ると決めたのなら、私は父として宰相として応援しよう。首座司教様は他者の状態を見極める目をお持ちなので大丈夫だとは思うが、それでも無理はしないと約束してくれ。つらい時は周りの人間を頼りなさい」
「はい、お父様」
私はお父様の言葉にしっかりと頷いた。
◆ ◇ ◆
「これは……。ジルド、これはなんでしょうか? 新しい課題ですか?」
家で二日間、今までの復習や予習をしながら、ゆっくりと過ごし、神殿へと戻った私は自室の机の上を指差した。
そこには分厚い聖典が数冊と祝詞が書かれている大量の木簡が置かれていた。その量に顔が引き攣ってしまう。
荷解きを手伝ってくれる神官のジルドは困った顔をしながら、頷いた。
「アリーチェも帰ってきて大変だと思いますが、これらを三日で覚えるようにとのことです……。もちろん、これまでの仕事もこなしながら……」
「え? 仕事をこなしながら、この量を?」
「……僕も手伝うので頑張りましょうね」
私がジルドの言葉に震えると、彼は両手をぐっと握りしめながら、私を激励した。
きっとここの神官や神子達は、首座司教様の無茶振りになれているのだろう。大変だとは思っても無理だとは絶対に言わない。
私は大きな溜息をついて、覚悟を決め、祝詞が書かれている木簡を手に取った。
「あ、アリーチェ。その前に首座司教様に帰ってきたと報告をしなければ」
あ、いけない……。
私はハッとして、ジルドにお礼を言い、慌てて首座司教様の執務室へ向かった。
「只今戻りました、首座司教様」
「遅かったな。では、今日は私の執務を手伝いなさい。その後は勉強だ。今日から聖典と祝詞も追加するので、よく励むように」
「……畏まりました」
「声が小さい」
「畏まりましたっ!」
私が挨拶をすると、目の前に仕事が積まれる。それを見つめながら、がっくりと肩を落とした。
この調子では頼んでも覚える期間を延ばしてくれることはないだろう。それどころか、そう願い出たら「やる前から無理だと決めつけるなら、出て行きなさい」とか言われてしまいそうだ。
なので私は三日間寝る間を惜しんで頑張った。いつものように殿下が様子を窺いに来てくれたけれど、私はこの三日間はいつもの散歩を断った。でも殿下は嫌な顔ひとつせずに、「アリーチェならば、必ず成し遂げるだろう」と応援してくれたのだ。
かつての記憶とは全然違う……とても優しい人。
「はぁ、良かった……」
勉強のほかに下働きや執務の手伝いもこなさなければならないので、すごく大変だったけれど、努力の末になんとか覚えられたと思う。私は安堵の息を吐いた。
「安心するのはまだ早いですよ。このあとは首座司教様直々にテストがありますので」
「……分かっているわ」
「この三日、とても頑張ったのできっと大丈夫よ」
朝食を食べながら、神官や神子達の励ましを受けて、私はお礼を言いつつ何度も自分の胸元をさすって深呼吸をした。朝食後にテストを控えているせいで、いまいち食欲がわかない。
頑張るのよ、アリーチェ。
今までの成果を見せるところよ!
私は自分を奮い立たせ、首座司教様の執務室へと向かった。
テストといっても、本当に覚えているかどうか確認するために、一言一句間違えないように暗唱させられるといったシンプルなものだ。執務をしている首座司教様の前で、只ひたすらに暗唱する。
シンプルだからこそなのか、かなりキツい。執務室の雰囲気のせいなのか、緊張のせいなのか分からないけれど、噛みそうになってしまう。それに、首座司教様は執務に集中していそうに見えるので、本当に聞いているのかな? と思いながらも暗唱していると、「一節抜けている」という言葉が飛んできて、私はそのたびにひぇっとなるのだ。
こんなことを言ったら怒られるから言えないけれど、首座司教様って色々なところに目と耳が生えていそう。
それにしてもすごい。
首座司教様は、聖典や祝詞を本当に一言一句覚えているのよね。執務と並行して、私の言ってることがあっているかどうか判断できるなんてすごいを通り越して、化け物だなと思う。などと考えていると、突然頬を叩かれてハッとする。
あっ! しまっ……。
「別のことに気がいっているようだな。やる気がないのなら邪魔だ。出て行きなさい」
首座司教様の冷たい表情と声に血の気が引いていく。余計なことを考えて暗唱が止まってしまっていたのだ。
「申し訳ありません! お許しください、少し疲れて止まってしまいました。やる気ならあります! もう一度チャンスをください。次こそは必ずやり遂げます」
慌てて膝をついて床に頭を擦りつけるように謝ると、首座司教様の冷たい視線が突き刺さる。
彼は冷たい声で「次はない」と言いながら、踵を返し机に向かったので、私は死にそうな気持ちがぱぁっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「では、初めから」
「え? 初めから……?」
「嫌ならば出てゆくがいい」
「いえ、嫌なんてことはありません! やります!」
慌てて返事をし、立ち上がった。
詰まったり、抜けたりすると、容赦なく指摘される。私は泣きたい気持ちを抑えながら、必死で暗唱を続けた。
「よろしい」
合格をもらえたのは、もう空が暗くなった頃だった。私は首座司教様の言葉に気が抜けて、その場に座り込んでしまう。
「終わった……。良かった……」
「アリーチェ、よくやった。食事を用意させているので食べたら今日はもう休みなさい。明日からは、いつも通りだ」
「ありがとう、ございます……」
座り込んでいる私を見る首座司教様の顔が一瞬笑ったように見えて、私は目を凝らして彼を見つめた。すると、目が合ってしまう。
「なんだ? 食事はいらないのか?」
「あ、いえ。いります! お腹空きました」
「ならば、さっさと下がって食べなさい」
そう言って、しっしっと手を振られたので、私はやっぱり見間違えたのだと納得して、退室した。
そうよね。あの鬼司教が笑うわけないもの……。