命が終わった十五歳の夏①
「――!!」
新緑が眩しい頃、私はノービレ学院の寮へと戻る道中、目の前から歩いてくる男性に目を奪われた。
すれ違った瞬間から痛いくらいに胸を締めつけられるような感覚にぎゅっと自分の胸元を掴む。そして、その人を目で追った。
今の方、どなたかしら?
とても素敵な方……。
その姿が遠ざかっても、私は彼が立ち去っていった方角から目を離せなかった。
「……さま? アリーチェ様!」
「え?」
突然、友人のフェリチャーナに肩を揺すられ、ハッとして彼女の顔を見つめる。でも、すぐにその男性が立ち去った方角に視線を戻すと、フェリチャーナに手を握られ、また彼女に意識を引き戻される。
心配そうに私を見つめる彼女は、我がイストリア国の騎士団で団長を務めるマラテスタ侯爵のご息女で、数少ない私の友人であり同級生だ。赤茶色の髪がふんわりとしていて、あどけなさが残る可憐な雰囲気をもつ十五歳の美少女。
その髪と同じ赤茶色の瞳が心配そうに、私の様子を窺っているのを見つめながら、私は小さく息を吐いた。
「アリーチェ様、突然立ち止まってしまわれて……どうかされたのですか?」
「……い、いえ、何でもないわ。ねぇ、フェリチャーナ。先程すれ違った方がどなたか、貴方は知っているかしら?」
素敵な殿方だったわ。一目で心を奪われてしまった。
私は未だ高鳴っている自分の胸に触れ、彼が過ぎ去っていったほうを見つめた。
「あのお方は、コスピラトーレ王国の王太子、サヴェーリオ殿下ですわ。確か、わたくしたちよりも年上で現在は学院の最終学年だったと思います」
「コスピラトーレ王国……の王太子殿下」
同じように私の視線の先を見つめながら、フェリチャーナがそう教えてくれた。
私はうっとりとしながら、彼女の言葉を繰り返す。そして、心に決めた。
あの方は私のもの。
私は母譲りの夜空のような艶のある濃紺の髪を持ち、顔立ちも母に似てとても美しい。この凛として美しい翡翠の瞳に見つめられて、心揺れない男なんていないだろう。体つきも華奢だし、王太子殿下のような方はきっと守ってあげたいと思うはず。
そう。控えめに言っても、私はとても美しい。奇跡のように美しいのよ。だからこそ、彼のような美しい者こそ私には相応しい。
影を背負ったような黒の瞳。闇のような美しい漆黒の髪。王子と呼ばれるに相応しい容貌。そんな彼の隣はどう考えても私しかあり得ないわ。
私はその翌日から、彼の姿を見つけるたびに側まで駆けていった。殿下は、そんな私をいつもにこやかに見つめてくれる。
「サヴェーリオ殿下、おはようございます」
「おはよう、アリーチェ」
彼の黒の瞳が意味ありげに細められて、私はその美しい相貌に毎日うっとりとする。
やはり彼も私が好きなのだわ。
「殿下は今日も素敵ですね。その黒髪は、我が国では珍しいので見るたびにドキドキと胸が高鳴ってしまいますのよ。少し触れてみてもよいですか?」
「アリーチェだとて、黒ではないか」
「あら、私は濃紺ですわ。暗い紺なので、光の当たり方によっては黒に見えてしまうかもしれませんわね」
でも、お揃いみたいで少し嬉しい。
そう思いながら、私は彼の髪に触れて微笑む。柔らかく指どおりのよい髪に触れさせてもらえたことで、やはり彼も私のことが好きで堪らないのだと確信した。
満足げに微笑み、彼の腕に自分の手を絡めすり寄ると、彼も私の髪に触れる。
「なるほど。そういうことになっているのか……」
「え? 何か仰いました?」
「いや、この黒髪はコスピラトーレ王国王族の証だ。覚えておけ」
「はい!」
殿下の言葉に元気良く返事をすると、彼は良い子だと言って、去っていってしまった。
「アリーチェ様。コスピラトーレ王国の王太子殿下はやめたほうがいいですよ」
「あの国は我がイストリアにとって、属国です。宰相閣下の御息女であらせられるアリーチェ様とは釣り合いませんわよ」
「そうですよ。属国の王太子とお付き合いをしていたら叱られてしまいますわよ……」
「うるさいわね」
取り巻き達が次々と苦言を呈すので、私はむっとして彼女たちを睨みつけた。そして、そのイライラした心のままに魔力で手の内に水を出し、彼女達に向かって放出する。
「「「きゃあっ! アリーチェ様っ!?」」」
突如、濡れ鼠になり驚く彼女たちをつまらなさそうに見つめながら、私は大きな溜息をついた。
愚かなこと……。
「よく聞きなさい、愚か者達。身分や立場を弁えていないのは、どちらなのかしら? 私が心に決めたのだから、あの方は私のものなの! 貴方達如きが、私に意見なんてできると思わないで頂戴!」
「「「も、申し訳ございません!!」」」
私は慌てて頭を下げる彼女たちに、とどめとばかりにまた頭から水を浴びせてやった。
ああ、もう。腹が立つわ。
私はイストリア国宰相ヴィターレ・カンディアーノ公爵の息女。そして母はイストリア王の同腹の妹姫。
この体の中には王族の血が流れているのだから、やはり私には同様にやんごとない者が相応しい。
私とサヴェーリオ殿下が婚姻をすれば、コスピラトーレ王国の名誉が回復し、属国ではなく対等な国になるかもしれないわ。きっとそうなるわよ。
「次の夏季休暇にお父様にお願いしなくちゃ」
私はびしょ濡れで固まっている彼女たちに背を向けて、足取り軽く教室へと向った。
◆ ◇ ◆
「駄目だっ!!」
屋敷中に響き渡るかと思うお父様の怒号に、耳がきーんとつんざく。私は耳を塞ぎながら、首を傾げた。
「あら、なぜですの?」
ノービレ学院の夏季休暇。私は家に帰るなり、お父様にコスピラトーレ王国の王太子に嫁ぎたいと告げた。すると、突然怒り出したのだ。
「変なお父様……。可愛い娘を手放したくないのは分かりますが、そんなに怒らなくても……。ねぇ、お願いします。私、あの方が欲しいの」
「アリーチェ。それだけは許さん」
「それはコスピラトーレが属国だからですか?」
「分かっているなら、戯言は寄せ。コスピラトーレ王国は、名目上は国という体を保たせてはいるが、陛下は本心では認めていない。あの国の王族をノービレ学院に通わせるのも人質としての性質が強いのだ」
お父様は腕を組み眉間を指先で押さえながら、怒りに満ちた声で私を咎めた。その姿に唖然とする。
お父様も取り巻き達と同じようなことを仰るのね……。
「あら、名目上は王族なのでしょう? ならば、私が嫁ぐことで、コスピラトーレ王国も格が上がるのではなくて? 陛下も私が嫁げば、きっと許してくださるに違いないわ。お父様、私のためにコスピラトーレの名誉を回復し、対等な同盟国にしてくださいな」
「…………」
私の言葉に、お父様は開いた口が塞がらないというような顔で私を見た。そして、とても深い溜息をつく。
「コスピラトーレに嫁ぐということは、今までの家族、友人よりも、其方が格下に落ちるということだ。間違えても格が上がることはないだろう」
「そんな……。お父様は、私が可愛くないのですか? 私のために、コスピラトーレの名誉を回復してくださってもいいじゃない!!」
「ふざけるなっ!」
縋るようにお父様の腕を掴むと、お父様は愚かな娘を見るような目で私を見つめた。
そんなお父様の態度に、正直驚きが隠せない。
今までお父様もお母様も私が何をしても咎めることをしなかった。どんなわがままだって聞いてくれていたのに。
自分で言うのもなんだが、とても甘やかされていた自覚はある。それなのに、お父様は私の本当の望みは聞いてくれない。
私は悔しくて下唇を噛みしめながら、ドレスを掴む手に力を入れた。
「……どうして、そのような意地悪を言うのですか?」
なんと言って良いか分からず、震える声をやっと絞り出したのに、お父様はさらに深い溜息をつく。
その溜息にびくりと体が揺れる。
「このわがまま娘。これが意地悪で言っていると思うのなら、私は其方の育て方を間違えたようだ」
「なんですって……」
私はその言葉にショックで眩暈がした。立っているのもやっとなのに、尚も私を傷つける言葉が続く。
「其方が王太子に惹かれているのは、恋慕ではない……。一時の感情で両国を振り回すことは、この国の宰相として許すわけにはいかぬ」
「一時の感情などではありません!」
「では、何だ? 王族を従えられる優越感か?」
「なっ……」
その言葉に、私は驚いて目を見張った。
お父様にそのように思われていたことが悲しくて、とても信じられなくて、涙が止めどなくあふれてくる。
「これは恋ですわ。私は何があっても王太子殿下に嫁ぎます! お父様なんて、もう知りません!」
「ならぬ! 誰か此れへ! 頭が冷えるまで、アリーチェを部屋に閉じ込めておけ!」
「お父様!?」
「アリーチェ。コスピラトーレの王太子を諦めると言うまで、其方を部屋からは出さぬ。学院にも行かせぬから、そのつもりでいなさい!」
そんな……ひどい……。
私がお父様の言葉に呆然と立ち尽くしていると、部屋に入ってきた侍従と侍女が私の手を掴む。
「では、アリーチェ様。こちらへ」
「嫌よ! お父様、お父様! 考え直してください! お父様!」
何度叫んでもお父様は背を向けたまま、私を見てくれず、聞いてもくれない。
そしてそのまま、私は自室に閉じ込められてしまった。