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守銭奴は人畜無害ではない

作者: 石崎秋男

     1


 八月の最初の月曜日の午後、ハローワーク西新宿の求職者窓口にいた。

 アクリル板を通した向かいには、田中真澄と記されたネームプレートを付けた女性の職業相談員がいる。

 受話器を手にしていた真澄の声が突然高くなった。

「えーっ、既に応募を締め切った。でも、こちらにはまだ求人取り下げの申請がありませんが……」

 上野広小路にある総合病院の事務職に応募したが、すでに締め切られていたらしい。

 受話器を置いた真澄が頭を下げてきた

「すみません。応募者が定数に達していたようです」

 年齢はやや年下の二十代後半とみた。卵型の顔立ちに黒髪のボブカットまではいい。

 だが、真夏なのにブラウスのボタンを全て閉じている。さらに眼鏡を通しての視線は常に下向き。公務員であるが故に、控えめさを強いられるはわかるが、あまりにも地味すぎて気の毒に感じる。

「では、都内で同じ条件で事務職を募集しているところはないでしょうか?」

 真澄がぎこちない笑顔をみせてきた。ひょっとすると誘われているのか。初対面ではあり得ない。求人企業との連携不足を咎めない求職者に安堵しただけだ。


 三ヶ月前に勤めていた旅行会社が清算を申請した。再生の見込みはないから事実上の倒産である。三十歳にして失業者となった。通常は切迫とされる状況下にもかかわらず、こうした不埒な妄想に浸れるのは、預金や投資信託などの金融資産が六千万円ほどあり、三年前に三千万円で購入した二LDKマンションに住んでいるからだ。

 高校に入った頃、偏差値を七十以上までに上げる遺伝的素質がないと悟った。

 だが、苦役に耐えたまま、生涯を終えるべきではないとの信念もあった。

 厚生労働省が公表した給与所得者生涯賃金の中央値は二億円。つまり、何処かの時点で二億円を貯めると労働から解放される。それを最小限の努力で達成する方法を考えた。得られた結論は極めて単純で、無駄な支出の徹底排除だった。

 以降、大学は実家から通学でき、学費が安いとの基準で、長野市にある公立の経済学部を選んだ。入学しても友人と呼べる人間関係をつくらず、授業と睡眠以外の時間を居酒屋とコンビニでのバイトに費やした。かいあって卒業の単位を習得した頃の預金残高は三百五十万円を超えていた。

 奨学金の返済分を残し、母親に下宿代だと百万円を渡すと、特殊詐欺に加担したと誤解したのか、悲鳴をあげられた。

 蓄財を身内も含めた他人に依拠すると甘えが生じ、挫折する。完全な自助努力での達成を目指したつもりだったが、両親や兄は変人が出現する不吉な血脈と受けとめた。

 地元の信用金庫から内定を貰ったが、生涯賃金を比較し、東京にあるオンライン契約専門の旅行会社に就職をした。

 八年間勤めて主任の肩書きも得、残業代とコンビニでのバイトで、近年の年収は一千万円を超えるに至った。引き続き支出を抑制し、収入の八割を不動産債権投資に回せば、あと八年で二億円の蓄財を達成できる見込みだった。

 ところがフィリピンの語学専門校に二年も留学しながら片言の英語も話せない社長の息子が代表になり、取締役会の反対を押し切り、北海道の温泉旅館と栃木県の観光バス会社を買い取った。既に団体旅行ブームは去り、需要はない。維持管理費と人件費が大幅に増加。累積赤字が二十億円に達し、清算申請に至ったのである。


「探してみますが、事務系の正規雇用で山手線圏内となると難しいのです」

 真澄がキーボードを操作し始めた。

 山手線圏内を条件にしたのは、通勤に時間と費用を投じたくないからだが、それがネックではないらしい。地方の大卒を中途採用する企業は都心にないとの意味だ。

「岡本さん。扶養家族はいらっしゃらないのですね」

 パソコン画面をみつめたまま真澄が訊ねてきた。

「はい。独身です」

 両親は健在で、実家は長野市郊外で葉物野菜を栽培する農家。年収は三千万円ほどで、兄夫婦が家業を継いでいるとか余計なことを告げる必要はないはずだ。

「ここはどうでしょうか? 山手線圏内ではありませんが三鷹市。一応は都内です。週五日勤務で基本給が二十三万円、年二回の賞与もあるようです」

 真澄がディスプレイを向けてきた。画面には佐野企画という会社が事務員を募集と表示されていた。聞いたことがない社名だ。三鷹市なら今の住居は京王線の明大前だから吉祥寺で乗り換えればいい。都心から離れる通勤は混まない。

 ただ、年収に換算すると三百万円程度だ。十年間勤めても、残りの一億一千五百万円を確保する貢献度としては二割にも満たないことになる。

「どういった業種ですか?」

「主な事業は芸能プロダクションとあります。不動産賃貸業も兼業しているようで社員は五名です」

 AVの制作とかコンパニオンの派遣会社かもしれない。将来性に乏しいが、兼業の不動産賃貸業に興味がある。不況下でも安定した収益をあげられる。実務に携わればノウハウが得られ蓄財に役立つかもしれない。

「一応、応募してみます」

 頷いた真澄が受話器を取り上げた。

「佐野企画さんですか? こちらはハローワーク西新宿でわたくしは田中と申します。事務職の求人に応募される方がいまして……はい。男性で年齢は三十歳です。扶養家族はいらっしゃいません……では、本人の連絡先を今申し上げますので、よろしくお願いします。お名前は岡本努さん……」

 真澄が続けてスマホの電話番号を読み上げていく。この時点では履歴書を送っても、希望には添いかねるとの連絡がくる。大して期待はしていなかった。


 履歴書を送付した二日後だった。近所のコンビニでバイトをしていた。週十六時間以内なら失業給付は制限されない。学生時代から続けているので、陳列やレジ打ちはストレスなくこなせる。一回四時間のシフトで賃金は六千円とみみっちいが、月に九万円前後の収入があれば、マンションの管理費を含め、生活費はほぼ賄える。失業しても口座の残高が増えていると至福の喜びを感じる。

 午後二時からのシフトに入って間もなくだった。佐野企画の兼平と名乗る女性から金曜日の午後四時に新宿にあるシティホテルで面接をすると連絡が入った。

 初回の求職活動で面接までにこぎつけた。好事の兆しと受け止めた。

 

 指定された時間の十五分前にホテルに到着した。約束した時間を守る。失業しても会社員の習性が抜けない。変化に対応できないのは蓄財に不利な特性か。

「佐野企画の兼平さまからの伝言をお預かりしています」

 名前を告げると赤のベストを着たフロントウーマンは、部屋番号を書いたメモをわたしてきた。メモを受け取りエレベーターで十階に上がる。エレベーターを降り、廊下の奥に進み、メモに記された番号の部屋のドアをノックする。数秒後に内側からサムターンを回す音が聞こえた。

 ドアが開き、目の前にいるのがガウンを着た女性だったので焦った。クレーム対応の条件反射で頭を下げる。

「すみません。部屋を間違えました」

 顔をあげると女性と視線が合った。西欧人なみの二重瞼の大きめの瞳。肩でうねる栗色の髪は丸顔にマッチしていた。

「いいえ、間違えてはいないわ。岡本努さんね」

 膨らみのある唇の隙間から白い歯が覗く。実に濃艶。目線の位置から推定した身長は百六十五センチ。ガウンの袖から出た腕にはほどよく肉がつき、白磁を彷彿させる肌である。

「ふーん、背はそれなりに高いし、腹も出ていない。何よりもイケメンにありがちな目の険しさがないからいい」

 高めに評価されたが、素直には受け止めないことにしている。外見にコストをかけない主義だからだ。理髪はカット専門店で二ヶ月に一度。スーツは量販店の既製品で三着しかなく、男性向け化粧品類は一切使用しないので美男との自覚はない。

「中に入って」

 女性に促されて部屋に入ると女性がバスルームを指さしながら

「シャワーを浴びてガウンに着替えて」

と告げてきた。

 起床時にはいつもシャワーを浴びる。感染症防止のためで、銭湯よりもコストがかからない。二度浴びても皮脂が溶脱することはないだろうが理解できない。

「わたしは面接に来たつもりなのですが」

 女性はやや首を傾げた。質問の意図が伝わっていない仕草にみえる。

「わかっています……だから、これからわたしが試験というか検査をするの……ああ、わたしは兼平良美。連絡したとおり佐野企画の常務。よろしく」

 つまり良美には医療関係の資格があり、この部屋で健康診断をするので整容をしろとの意味と受け止めた。

 言われたとおりシャワーを浴び、浴室の棚にあった高級そうなシルクのガウンを着てバスルームを出た。

 ベッドで仰向けになっている良美をみて唖然となった。

「さあ、来ていいわよ……」

 動くことができない。

 あり得ない状況だったので、オレのオンナに何をすると叫ぶ眉を剃ったアンチャン、あるいは背中に観音様のタトウが彫り込まれたオジサンの出現を想定した。

「どうしたの? 年増じゃその気にならないかしら……五月に四十の大台に乗ったけど、肌やボディラインはそれほど崩れてはいないつもりよ……」

 良美がガウンを脱いだ。下着は着けていない。観察と評価をしてみた。

 真皮のコラーゲン細胞が厚く、表面は白色状を呈し、ハリとツヤがある。胸部では乳腺を包む脂肪細胞が球状に隆起し、重力による変形がみられない。

「仕方がないわね」

 固まったままでいると良美がベッドから降りて目の前で跪いた。身を引く動作が緩慢だったため、ガウンの裾から性器を掴まれた。手慣れた動作から、この状況は面接と称して、顧客を募る新手の風俗業との推論を得た。財布には現金が二万五千円しかない。料金不足であるはずだ。

「ダメね。まだ柔らかい」

「あのう、持ち合わせが二万円しかなくて……」

 良美が目を見開いている。値引きの大きさに驚いているらしい。仕方がない。言い値での後払いを交渉するしかない。

「ああ、まだ誤解しているのね……タダよ」

 瞬時に視床下部から性腺刺激ホルモンが分泌された。陰茎海綿体の血管が拡張し、血液が注入されていく。ほどなく硬直と肥大化が発現した。


 上体を起そうとすると良美が胸を手で押さえ、顔を寄せてきた。

「良かったわ……触り方も丁寧で、ツボを押さえている。さんざんじらされたので、久しぶりに我を忘れたわ……あなたって相当オンナの扱いに慣れているわね」

 良美が耳元で囁く。頬に微かな風を感じる。

「そんなことは……」

 曖昧に否定してはみたが、脱衣状態で濃厚接触をした女性はこれまで五人いた。

 最初は学生時代でコンビニのバイトでシフトが同じだった人妻である。海外赴任の夫がいて遭遇当時は三十五歳だった。柔らかそうな上腕部が、レム睡眠下での淫らな妄想の素材になっていた。

 ある日、人妻から「カノジョは?」と訊かれ「二億円貯めるまではつくらない」と答えて、大笑いされた。ある日シフトが終わり、帰ろうとしたら自転車がなかった。絶望のあまり固まったままでいると、見かねたのか人妻が送るというので、軽四輪に同乗した。軽四輪が何故か隣町に向かい、国道沿いのモーテルに入った。

 部屋に入るとベッドに腰掛けた人妻が

――岡本くん。人生はお金が全てじゃあないのよ。

とTシャツを脱ぎはじめた。

 実物の乳房が視覚に入ると、兄嫁のお下がりだったママチャリを奪い、この契機を創出した窃盗犯に感謝していた。その後も人妻は夫が帰国するまでの二年間、欲情を余すことなく受容してくれた。刺激的な初体験が刷り込みとなり、女性の嗜好は年上でやや小太り体型に固定化された。

 その後も運転教習所で、大型免許の取得を目指していた三十八歳の独身看護師と親密になり、上京するまでの二年間、みっちりと性医学の実技と講義を受けた。就職で上京してからも二人の女性を経て、現在も五歳年上で、中学校の国語教師をしている小谷陽子と男女の関係にある。陽子には高校教師の夫がいるので、最初の人妻を含めて二度目の不倫をしていることになる。


「私は何人目ですか?」

 良美に訊いてみた。

「こうなった男性はあなたを含めて十五人。年齢は二十代から六十代まで……未婚だから自由な恋愛が許される」

 言い終えた良美は唇の隙間から歯を覗かせた。男性遍歴をあっけらかんと告白する女性に初めてあった。正直者は好きだが、良美は質問の意図を取り違えている。違った。おそらく訊き方が悪いのだ。

「いや、そちらではなく……」

 良美は再び歯を見せた。照れ隠しの笑いらしい。

「ああ、今月の初めに求人を出し、応募してきた人はあなたを含めて五名、男性は二名いたけど、履歴書の写真をみてあなたを実地検査することにした」

 性行為が入社試験。つまりはAVの男優ということか。

「わたしは合格したということでしょうか?」

 技術点それとも構造かの区分は問わない。

「合格よ。ほぼ満点」

 良美は頬に唇をつけながら答えてきた。くすぐったい。

 問題は長時間の欲情維持が困難で、上腕二頭筋が少ない裸体を露出する度胸がないことだ。しかし、これほどの歓待を受けて入社を断るとなれば、食い逃げ。人倫に反すると悩んだ。

「実は、わたしは好みの女性でないと無理なのですが……」

 良美は一瞬きょとんと視点を固めたが、すぐに歯を見せた。

「ああ、まだ誤解しているみたいね。あなたには小里ミキのマネージャーをして貰うつもりよ」

 同性の前で裸になる必要はない。かなり安堵した。

「女優さんですか?」

「知らない? ミキは七年前にテレビ番組の大食いコンテストで優勝し、爆食い女王として少しは売れたけど、今は月に二度ラジオ番組に出演するだけ……歳は二十九歳」

 受信料に見合うコンテンツがないと思うが故にテレビはない。記憶にないのはネットの芸能ニュースやSNSでもメジャーではないとの意味だ。

「つまりわたしはその女性の付き人になるということですか?」

 タレントならそれなりに見栄えがいいはずだ。年下は好みではないが、多少は性的好奇心を満たせるかもしれない。

「付き人とはタレントの身の回りの世話をする人。それはわたしの役目。マネージャーはタレントの売り込みやスケジュール管理をするの。とはいっても、この業界は初めてだろうし、当分はわたしと一緒にやって覚えてもらうわ。それと経理の事務の方もお願いするわ」

 やや不安になる。ネットでパッケージツアーを扱う会社だったので、経理は得意だが、クレーム対応以外の営業に関わったことはない。

「所属しているタレントさんは何人ですか?」

「佐野企画の所属タレントは今のところミキだけ……当社の代表でもある。社名の佐野はミキの母方の姓なの……ミキの両親はミキが高校生の時に交通事故で亡くなった。小里家は農家だったけど、ミキの父さんが農地を売却した資金を元手にアパート経営を始めて成功した。事故の補償金も入ったので、ミキが相続した遺産は十億円を下らない。ミキは資産家の一人娘として育ったから当然にワガママ……」

 ぱっちり眼で花柄スカートを穿くアニメキャラの令嬢を想像していた。

「十億円もの資産があるなら、タレントをして稼ぐ必要はない気がしますが……」

「誰にも注目を浴びたい願望があるじゃない。ミキは食のコメンテーターになるのを目指しているの」

 目立つことは無駄との持論からは理解不能なモチベーションだが、要するにお嬢様の趣味のサポートだ。人の特性が商品となる不安定なサービス業である。だが、十億円もの資産があれば、普通であれば倒産の危険はない。良美との濃厚な関係を継続できれば、収入低下がもたらす心理的重圧を相殺できる。勤める気になった。

 

 ベッド横のテーブルに置いていたスマホが振動した。

 手に取り、上体を起こし、メールアプリを開く。

(面接どうだった?)

 不倫相手の陽子からのメールだった。思わず後ろめたさでひやりとなる。

(就職できそうです)

(良かった。来週の金曜日は空いている)

 陽子がマンションを訪れて碁を打ち合うとの意味だ。その後は当然の如く触れあいと密着への行程に進行する。

(空きです。了解)

 返信をして、すぐにメールアプリを閉じた。

「カノジョ? 夢中になっている時でなくて良かったわね」

 天井を仰ぐ姿勢で良美が訊いてきた。

 一瞬、メールを覗かれたのかと狼狽えてしまった。

「違います。碁の相手です」

 普通はこの言い訳で通用する。

「嘘がヘタね。カノジョに今日は面接といってあるのね。終わっているのに連絡が来ない。気になったカノジョがメールをしてきた。夜の七時をすぎていながら通話ができない。つまりは公にできない関係なのね」

 あっさりと看破された。かなり強引な推測で不倫と断定された。良美も経験があるとの意味になる。

「そんな……ホントにただの友達です」

 まだ狼狽をしている。修練不足だ。

「いいわよ。隠さなくても……手を切りなさいとはいわないから安心して……でも、わたしとこうなったことは知られないようにした方がいいわね」

 ここで当然ですとは応じていけない。

「連絡がついたのならもういいわね」

 良美が左の手首を掴み、己の両脚の接合部に誘導していく。

「ねえ、もう一度お願いできるかしら……あなたがそのカノジョとしているところを想像してこんな風になって……責任をとりなさい。上司の命令よ」

 大胆かつ艶めかしく意思表示をされなくても、応じられる余力は残しておいた。


     2


 佐野企画の社屋は、JR三鷹駅から徒歩で十分ほどの住宅街にあった。一車線道路の向かいや両隣も住宅で、人通りは少ない。

 鉄筋三階建ての一階に自動ドアが設置されたエントランスと、乗用車なら三台は停められるビルトインの駐車場があり、黒の高級ミニバンが置かれていた。エントランスにエレベーターが設置されていたので腰を抜かしそうになる。

 二階が事務所で二十畳ほどの洋間に凝った単板の木製デスクが三つと、最新式の多機能複合機や革張りの豪華な応接セットが据えられていた。廊下を隔てて、大型洗濯機が設置された洗濯室や男女別のトイレがあった。

 三階はミキの居住区らしく、二十畳ほどの居間と、冷蔵庫や対面シンク、電子レンジが置かれたダイニングキッチンが隣接し、廊下を挟んで部屋が三つあり、奧がミキの寝室となっていた。富裕層の居住施設は無駄に豪華と実感した。


「窓側のデスクを使って……上に社員証が置いてある。ネットに繋がるノートパソコンは引き出しに入っている。パスワードは設定していない。小切手帳と手持ち現金は隣のダイニングルームの金庫に入っている。解錠番号はこれ……」

 良美が紙片を手渡してきた。

 セキュリテイが甘い。でも、規律が緩く、気楽な職場だともいえる。

「先ずはパソコンでミキのスケジュールを見て頂戴。途中まで作成したけど、今日からあなたにお願いするわ」

 パソコンを取り出し、スケジュール管理ソフトを起動する。年間予定が殆ど入っていない。隔週で一回のラジオ番組の出演だけである。これで経営が成り立つはずがないことは素人でもわかる。

 経理関係のホルダーを開き、税務申告データーをみてみた。

 主たる事業であるはずの芸能事業の収入が年間五十六万円しかない。収入の殆どが不動産の賃貸収入だった。にもかかわらず役員報酬が四千三百万円で、給与総額が年間二千七百万円である。源泉徴収対象者が三名いるが、事務室には良美だけだ。

「兼平さん。ほかの従業員はどちらにいるのですか?」

 良美はホワイトニングをしたらしい歯をみせて笑う。

「ああ、給与のデーターをみたのね。週に四日泊まりでミキの世話をする米倉俊子さんも社員として雇用している。ほかにミキの叔母の人見英子さんの監査役報酬。後の一人は栃木にいるわたしの母。税金対策で勤務をしていない幽霊社員」

 仰け反りそうになるのを堪えた。今どき幽霊社員。所得税法違反だ。

 当惑の表情を出さないように口を閉じ、現金受払簿を調べてみる。

 ミキの個人口座から複数の信販会社を通じ、毎月五百万円以上の定期的な支出があった。不動産の管理費をミキの個人口座を通じて支払っている。節税対策のつもりだろうが、社会保険料の負担が多く、法人税率が下がった現在では意味がない。露見すると加算税を追徴される不正な会計処理だ。会計ソフトを使わない理由がわかる。

「経理は兼平さんが担当されていたのですか?」

 新参者は上司に非難めいたことをいえない。

「実はわたしは経理が苦手なの。ミキがやっていた。不動産部門は管理会社の収支計算書を使っていて、芸能部門は大した収入がないので所得の申告もしていない。最近ミキが面倒とかいいだしたので事務員兼マネージャーを募集することに……」

 説明を聞いている途中に事務室のドアが開いた。

「ねえ、ヨッチ……わたしの銀ネックレスしらない」

 一瞬息が止まった。

 入ってきた人物をピンク地のスカートを穿いた力士と誤認したからだ。頬が楕円に膨らむ顔立ちで、可愛い系でもおとぼけ系でもない。強いて言えば迫力系。太いアイラインで目尻を強調しているので、歌舞伎役者の隈取りを想起させる。つけ睫毛が濃すぎて瞳がみえない。長時間見続けると苦痛を感じてくるはずだ。

「一階の洗面所よ。ミキちゃん。この方が岡本さん。あなたのマネージャーよ」

 小里ミキだった。令嬢のイメージはバラの花に液体窒素をかけたように粉砕した。

「岡本です。よろしくお願い……」

 頭を下げてみたが、ミキは無視してドアに向かっていく。

「ま、馴れてね。かなり非常識だから……」

 そのようですねと応じるべきか迷った。


「で、今日のわたしの予定は?」

 洗面所から戻り、応接セットのソファに腰掛けたミキが声をかけてきた。良美に訊ねていると思い、黙っていた。

「あんたに訊いているのよ。マネージャーさん」

 ドスが利いた低音。初めてライオンの咆吼を聞いた時の恐怖が蘇る。慌ててスケジュール管理ソフトを開く。今日どころか今週の予定は何もない。

「今日は何も入っていないようです」

 訊かなくてもわかっているはずでしょうとはいわない。

「ねえ、このドレスに銀のネックレスは似合うと思う」

 回答が質問に変わっていた。これでは会話が成立しない。

「……はい」

 何をつけても意味がないともいわない。

「あんたに訊いてないわよ。ヨッチなの」

 それなら顔を向けて話すなといいたくなる。しかし、良美の呼称がヨッチ。小学生のお友達同士。ミキの思考形態は確かにお嬢様。だからといって子供扱いは出来ない。対応が難と思えてきた。

「寝室のドレッサーにある赤珊瑚のペンダントがいいわ。それとミキちゃん。これから岡本さんと挨拶周りに行くわ……」

「それならわたしも行かないと……化粧を直さなくては」

 これ以上何処を直すのだろう。想像をしたくはない。

「ミキちゃんは事務室にいて頂戴。今日は岡本さんを紹介するだけよ。夕方までには戻るわ。それから王子のレストランでディナーをしましょう」

「ああ、あの店……おいしいけど飽きたわ。あんた、何処かいいところ知らない?」

 ミキが視線を向けてきた。問われているのかと迷った。

「永福寺にイタリア料理店がありますが……」

 答えてはみた。京王沿線では高級店と評されている。陽子が奢ってくれなければ一月分の食費が消えていた。

「あんた……今時あの辺に住んでいるの……ダサイ……」

 三鷹に住んでいる者からは言われたくない。

「あら、そこでいいじゃない。岡本さん。外周りから戻ったら車で案内して頂戴。あなたはお酒を飲めないけどいいかしら?」

「かまいません。わたしは酒が好きではないので……」

 実は酒は飲める。でも、飲む都度、無駄に税金を払った気がして落ち込む。故に支払いを免除された以外は飲まないことにしている。

「ああ、だからホストになれなかったのね」

 ミキに揶揄されたが、実は学生時代に長野市の繁華街で見習いをした。結果、ホストとは同性間の熾烈な競争を強いられ、かつ外見維持のために多額の費用と時間を費やす必要があり、適職の年齢限度は三十歳。二億円を貯める職業としては不適と三日で悟ったのだが、無駄な経験を披露してまでミキに反論する気はない。

 

 最初に西麻布にある関東テレビの編成企画部を訪問した。

 地下鉄六本木駅の三番口の正面にあるタワービルに入り、エレベーターに乗って五階に上がった。降りるとガラスドアの入り口に受付コーナーがあり、グレーのベストを着た受付担当らしい女性社員が視線を合わせてきた。

「香桜里さん。しばらくぶりね……斉藤さんにウチに入ったミキのあたらしいマネージャーを紹介したくて……」

「岡本です」と頭を下げると、女性社員は無言で内線電話を取り上げた。ネームプレートに今村香桜里と記されていた。良美が姓を省略して話しかけている。二人は親密な間柄と推定した。

「斉藤チーフに佐野企画さんが面会を……わかりました。お伝えします」

 香桜里が受話器を置いて、みつめてきた。痩身でかつ胸部が平坦であるせいか性的好奇心がわかない。

「斉藤は番組の収録に立ち会っています。係の者が名刺を預かってとのことです」

 香桜里にパソコンで作成した急ごしらえの名刺を渡す。

「お世話になります。斉藤さんによろしくお伝えください」

 関東テレビを出て良美とタクシーに乗った。

「営業は上手ね」

 褒められたが思わず首を捻っていた。

「でも、会ったのは受付の女性だけですが……」

「受付にいた女性は斉藤さんのカノジョよ。普通は挨拶にきてもあの女性は斉藤さんには伝えない。でも、あなたの印象が良かったから、小里ミキのマネージャーが変わったと寝物語に告げる。斉藤さんはそれでミキを想い出す。斉藤さんが食に関する番組を企画する時に起用を考えるということなのよ」

 良美が語ったのは、自己都合で結論を導く確証バイアス。この程度でミキの出演依頼がくるのならマネージャーは気楽な家業と思えた。


 考えが甘いとわかったのは、渋谷駅前にある所属タレントが三百人を超える西本興行の企画部を訪ねた時だった。

「ヨッちゃん。マネージャーを雇えるほど売上げがあるのなら、もうウチに仕事を回してとかいわないでよ……」

 オネエ用語を使う小太り男が眼鏡を通してみつめてきた。年齢は四十歳前後とみた。制作部次長の黒川と記されたストラップホルダーを下げている。角張る顎に山羊髭が整合していない。スーツはグレーで高級ブランド物らしいが、これも似合わない。

「黒川さん。塩漬けになっているミキが可哀想だといってくれたじゃないの」

 黒川が毛穴の目立つ顔を近づけてくる。思わず身を引く。

「ふーん。あなたがヨッちゃんの新しいカレシね」

 早くも良美との仲が露見したのか。まさか。なんとか平静を装い名刺を差し出した。

「岡本です。よろしく」

 黒川が名刺ではなく両手で手を包み込んできた。掌がじっとりと湿り気を帯びている。動作の意図をはかりかねていた。

「ふーん、指が細くて長いわ。それにいい男ね。ヨッちゃんのお眼鏡に叶ったということは、アレがデカいかテクに長けているかよね」

 黒川が手の甲をさすりだした。子供の頃、兄に背中にミミズを入れられた時の感覚が蘇り、悲鳴を上げるところだった。

「ちょっと黒川さん……やめてくださいよ」

 良美が笑いながら引き取った。

 手を解放した黒川が再びみつめてきた。視線が粘っこく絡んでくる。これはセクハラだろうか。 

「でもね、あなた、マネージャーさんだからいっておくけど、ミキちゃんはワガママを直さないと何処も使ってくれないわよ。ウチには所謂グルメタレントが三十人ほどいるけど、ミキちゃんみたいに、あんなもの食べたくないとか文句をいうヤツなんかいないわよ。しっかり教育してよね。じゃあヨッちゃん、また、そのうちに……」

 淀みなく言い放って黒川は応接室を出て行った。呼吸が整うのに数分は要した。


 良美と並んで地下鉄虎ノ門駅に向っていた。

「気にしないほうがいいわ。黒川さんは時々ああやって悪ふざけをするのよ。あれでも東大卒なのよ」

 黒川への不快感をひきずっていると読んだのか、良美が話しかけてきた。でも、からかわれたとは思えない。黒川の眼差しは真剣だった。閉鎖空間での対面を避けるべき人物と判定した。

「でもグルメタレントが三十人もいるのなら起用してくれる見込みはないのでは?」

「チャンスがないというわけでもないわ。ただ、わたしとしては、ミキをグルメタレントとして売り出すのは無理だと思っている。ミキの身長は百六十センチだけど、体重は百キロを超えたのよ。それでもミキは甘い物を好んで食べ、酒も浴びるほど飲む。これ以上ミキに大食いをさせたら寝たきりになるわ」

「スポーツジムとか健康食品のコマーシャルに出演するのはどうですか? 三ヶ月で六十キロになりましたとか……」

 良美は首を振った。

「やってみたの。三日坊主とはホントによくいったものね。ミキは汗をかくから嫌だと三日でやめた……三十キロの減量に成功すれば、三千万円の報酬だったのよ。スポンサーを紹介してくれた黒川さんの面目は丸つぶれ……だからミキにはその手の話はしないでね」

 体重を一キロ減らせば百万円。コンビニで三万時間以上の労働に相当する契約を三日で破棄した。ミキは金銭感覚がずれている世襲富裕層の典型らしい。

 

 最後に訪れたのはJR四谷駅の近くにある出版社だった。

 階段を上がり、三階にある週刊太陽編集部とプレートが貼られたドアを開けて中に入る。スチール製のデスクが対で置かれ、六人の女性と一人の男がデスクトップパソコンと向きあっていた。訪問者に気づいているはずなのに、誰もがパソコンの画面から目を離そうとはしない。

「前田さん。お久しぶり」

 良美は四十代後半と思われる黒いシャツを着た男に声をかけた。頭部に毛髪が見られない。毛乳頭細胞のアンドロゲンレセプターが高いタイプらしい。整髪のコストと時間を省けていい。

「ああ、ヨッちゃんご苦労さん。ちょっと待ってくれ……夕方までに入稿しないといけない記事があってね」

 前田はちらりと良美をみて、キーボードを打ち始めた。

「前田さん。そのままで……新しいミキのマネージャーを紹介します」

「岡本です。よろしくお願いします」

 頭を丁寧すぎるほど下げてみた。

「ほう……ミキちゃんのマネージャー……ボクは前田、ゴシップを拾い集める清掃人」

 通俗な比喩で自己紹介をした前田が、視線をパソコンに固定したまま右手を出してきた。名刺を要求しているとわかった。名刺を抓んでおそるおそる差し出す。今度は掴まれなかった。

「初めて携わりますので、ご指導のほどをよろしく」

 前田は受け取った名刺をちらりとみて、そのまま足元のゴミ箱に放り込んだ。怒鳴りたいがそんな勇気はない。

「お忙しいところお邪魔いたしました。では、失礼します」

 頭を下げ、良美の後について編集室を出ようとすると、前田が声をかけてきた。

「ああ、岡本さん。ミキちゃんに関して面白いネタがあればご一報くださいね」

 頬に笑い皺が浮かんでいた。豹変に唖然となる。

「はい。わかりました」

 編集室にいた何人かが同時に含み笑いをした。

 ズボンのファスナーを確認し、思わず首を捻っていた。

「何故、笑われたのですか?」

 廊下に出てから良美に訊いてみた。

「アイツらはミキをバカにしているの……デブでブス。どんな男も相手にするはずがない。ミキにゴシップなど、ありえないと笑ったのよ」

 芸能界も容貌でヘイトされる社会なのだと実感した。


 ミニバンで佐野企画から永福寺のレストランに向かっていた。

 吉祥寺通りに入ると通勤時間帯なのか渋滞に巻き込まれた。時速は十キロ以下。予約の時間には到底間に合わないと焦りを感じてきた時だった。後部座席でミキが突然声を張り上げた。

「ああっ! ヤバイ。薬を飲むのを忘れた。戻って」

 電車を用いる移動ではこうした事態に対応できない。移動距離が近くても車を使う理由がそれとなくわかった。

 やむなく十分かけて社屋に戻ると、ミキがアイライン引きながら

「あんたがとってきてよ」

と命じてきた。

 態度がすこぶるデカいと思うが、口には出さない。

「三階の居間のテーブルにピルケースがあるの……そこから青いカプセル二個と白い錠剤を三錠、黄色い糖衣錠を二錠持ってきて頂戴」

 ミキに訊ねる前に良美が答えてきた。

 付き人はタレントの服薬管理もするらしい。

 テンキーを押して玄関ドアを解錠し、階段を使って三階まで上がる。無駄に二十キロカロリーは消費させられた。

 居間のテーブルの上にピルケースらしい箱が置かれていた。

 蓋をあける。輪ゴムで束ねられたシートが四種類ある。白い錠剤は経口血糖降下剤で黄色の糖衣錠は血管拡張剤だ。ミキは?型糖尿病と高血圧症らしい。青いソフトカプセルは中国製らしく作用がわからない。それぞれをシートから外して傍のテッシュペーパーに包む。水が必要と考え、キッチンの冷蔵庫を開けてみた。缶ビールやワインのボトル、輸入品らしいチーズやハムなどがぎっしり詰まっていた。ドアポケットにあったミネラルウォーターを抜き出した時、ブドウ糖とラベルが貼られた小さなプラスチック容器が落ちた。拾いあげてドアポケットに収めながら、調味料にブドウ糖を使うことが、あり得るのかとの疑問を感じた。

 車に戻り、ミキに薬とミネラルウォーターを手渡す。

「これからはビールにしてよ」

 言い終えたミキは、薬を口に放り込んでかみ砕き、ミネラルウォーターをラッパ飲みした。ミラーに映ったその動作をみて、子供の頃に動物園でみたゴリラの摂食行動を回想していた。


 案の状、レストランに着いたのは午後八時をすぎていた。

 ミキと良美は食べかつ飲みながら、飼うなら犬よりも猫の方がいいとかどうでもいいことを延々と話している。黙って聞いていながら、気がついた。良美はミキにしきりとシャンパンを勧め、自分の料理を取り分けている。暴飲や大食いをさせてはいけないといいながらも逆のことをしている。良美の思考基準には一貫性がない気がした。

「うーん。このイチゴのタルトは甘すぎるわ。前菜のプロシュートは塩味が強すぎで、メインデッシュのオッソブーコは肉が硬すぎて味付けも淡泊。全てダメ……不合格」

 ミキはデザートを食べ終えてから蘊蓄を語り、グラスのシャンパンを飲みほした。既に七杯は飲んでいる。呂律がかなり回っていない。血中アルコール濃度は〇・二%を超えたはずだ。

「わたしは割とイケてると思うわ。内装もシックで凝っているし……岡本さん、どうやってこの店みつけたの?」

「ああ、前の会社の同僚に教えてもらったのです」

 適当な嘘はすぐに思いつく。

「なるほどね。旅行会社の社員だから本場の味をしっていて、ここのような本格的なイタリアンレストランを探せるのね」

 良美の賛辞は過大だ。流行ってはいるが、メニューの値段が銀座や六本木にあるレストランの半額程度だ。

「いいえ、前の会社は国内旅行のみの営業ですし、わたしは経理担当なので添乗をしたことはないのです。海外旅行も協会の研修でカンボジアに行っただけです」

 旅行代金が会社持ちだったので参加した。通勤以外の移動は無駄と思うので、三年ほど帰省もしていない。さすがに心配するのか母親が時折電話をしてくる。安否確認はショートメールで済むと説得をするのだが、いつも聞き入れてはくれない。

 ミキが口を開いた。

「チンケな会社だったのね。だからこんな三流レストランしか知らないわけだ」

 ミキのこの程度の罵詈雑言に応じるほど未熟ではない。聞こえないふりをして受け流すが、ミキの後に座っていた六十歳を少し越えたぐらいのサマージャケットを着たオジサンが振り向いた。

 テーブルを介したオジサンの向かいで薄緑の和服を着た五十代の半ばと見做されるオバサンが眉をひそめている。

「ミキちゃん。やめなさい。岡本さんに失礼でしょう」

 良美が諫めた。

「だってホントのことでしょう。不味い食べ物を不味いと感じない人が来ている店は、一流にはなれないわ」

 客と店を同時に酷評する。これはおそらく炎上する。

「味覚には好みがあります。それぞれの感じ方も違うと思いますがね」

 予感が的中した。ミキの背後にいたオジサンが呟き口調で突っ込みを入れてきた。主張は支持するが、従業員の立場なので表明ができない。

「はあ、何なのよ。人の話に割り込んできて……オンナの前だからってジジイのくせに格好つけたいわけ……オンナはどうせ場末の飲み屋のママでしょう」

 ミキが相手の弱点を把握した上で、言葉で砲撃を開始した。

 確かにオジサンは、体育系のお兄さんがザレ言をほざく時には沈黙を決め込むが、容貌で支援を得られないと看破したミキのような女性を窘めにかかる。

 ムキになったオジサンが口を開こうとすると、酔客の対応に長けた同伴のママさんは、オジサンに目配せをし、泥酔という重武装化をしたミキとの交戦回避を進言した。

 オジサンは素直にポツダム宣言を受諾する。衝突回避で緊張が解けたから、ふと気がついた。斜め向かいの席にいた若い女性がスマホを向けている。終戦処理は戦勝国に不利な展開を見せ始めていた。ミキを知る素人従軍カメラマンが、一連のやりとりをSNSで拡散していた。

「そろそろ帰りましょう。岡本さん、悪いけど車をエントランスに回して頂戴」

 良美も事態の深刻さに気がついたようだ

「店長を呼びなさい。こんな料理にお金は払わない」

 全てを平らげて難癖をつける。しかも主張していることは立派な無銭飲食。このシーンも当然に実況中継をされている。

 ミキが立ち上がるが、血中アルコール濃度が〇・三%を超え、大脳皮質が麻痺したらしくふらついた。

 仕方なく席を立ち、ミキを横から支えようとする。

「汚い手で触るな!」

 怒鳴ったミキが手を振り払った。動作が緩慢だったので、体育が三だが避けられた。結果的に被害を受けたのはテーブルの上にあった高級シャンパンのボトルだ。ドミノ倒しで瓶とグラスが転げ落ち、非結晶質金属の高音域破壊音と、どよめきと呼ばれる中低音が店内に響き渡る。安易な職業選択を早くも後悔していた。


「ミキはまた太ったみたい」

 エンプティを含めてミキが摂取したカロリーは五千キロを超えていたはずだ。睡眠中に摂取した栄養素の八割程度がグリコーゲンと脂肪滴に変換された後、臓器と骨格筋の脂肪細胞に貯蔵される。ミキの体重はさらに増加する。

 良美が肩を揉みながら呟いた。

「俊子さんもおなかを蹴られたわ」

 台車を二台使って俊子と良美がミキを寝室に運ぶ様子を見ながら、エレベーターが設置されていた理由がわかった。

「ミキは酔うと暴れるから大変……あなたは大丈夫?」

 ミキを後部座席から降ろそうとすると脛を蹴られた。まだ痛むが、それなりに格好をつけなければならない。

「大丈夫です。ミキさんは酔うといつもあの調子ですか?」

「まさか……今日は外周りに連れていかなかったので、虫の居所が悪かっただけよ」

 つまり発生頻度は高いとの意味だ。

「わたしはどうもミキさんとは相性が悪いようです。この仕事は向いてないと思いますので……」

 言い終えないうちに良美が後を引き取ってきた。

「まさか初日でやめるなんていわないでよ。とりあえず帰りましょう。悪いけど、車でわたしをマンションまで送って頂戴」

 スマホの時計は十時半。終電に間に合うかと不安になる。

「どちらの方面ですか?」

「中野よ。あなたの苛立ちを鎮めないと……」

 胸にもたれかかってきた良美が囁いた。新たな転職先を探す決意は、最大の欠点ともいえる性欲の攻撃にいとも容易く粉砕されてしまった。


     3


 佐野企画に勤めて三日目だった。

 ファクシミリがA四判用紙を吐き出した。発信元は来週ミキが出演する関東ラジオ局の番組編成斑からだった。ラーメンを話題にしてパーナリティとトークするので、リスナー受けをするコメントを用意してくるようにとの内容だった。

「これをミキさんに渡せばいいのですか?」

 良美に訊いてみた。午前十時を過ぎていたが、ミキは三階から降りてこない。俊子から得た情報では、昨夜も遅くまで純米大吟醸酒を飲んでいたらしい。肝細胞の分解酵素で処理できない量のアルコールを摂取したようだ。

「ああ、それはダメ。あなたがコメントを考えて関東ラジオにファックスして頂戴。それからミキに覚えさせるのよ」

「それが普通のやりかたなのですか?」

「そうよ。自分でトークを考えるタレントなんて殆どいないわ。落語家あがりの柳家ニボシは、ADが考えた台詞をプロンプターに出して読むだけ……短い台詞も覚えられなくなったからそうしているのよ」

 子供の頃にテレビでみたことがある。ゲストのエピソードに突っ込みを入れ、最後に椅子ごと倒れて笑いをとる司会者だ。あれほどつまらない番組がまだ続いているとは思わなかった。芸能界は一度でもブレイクすれば、死ぬまで勝ち組に居座れる貴族の社会だ。良美はミキをそこまで押し上げたいらしい。

「でも、わたしはやったことがありません」

「奇抜であればいいのよ。ネットで検索してみるとかは?」

 著作権がある。簡単ではない。

「ライターに依頼するというのはどうですか?」

 困難業務は外部委託をするという我国の得意の経営方式。

「ああ、それもいいわね。誰か知っている?」

「前の会社にいた時、旅行キャンペーンのキャッチフレーズを依頼した人がいます」

 木内麻衣を思い浮かべていた。二年前までは互いの住居を往来する関係だった。フリーライターだけに鋭敏な観察力の持ち主で、陽子との関係が形成されると、すぐに見破られた。

 ありがたく受け止めていいのか、罵詈雑言ではなく、別の相手を探索するといって麻衣からあっさりと離別を宣言してきた。

「じゃあ頼んで、ミキが気に入ったら専属にするわ。原稿料はあなたが決めていいわ」

 麻衣にメールを送信して、トイレに立った時だった。

 洗濯室のドアが開いていたので、俊子がシーツを丸めて洗濯機に放り込む様子がみえた。気がついた。俊子の臀部は高い位置で隆起している。家事労働で大臀筋が発達したのだ。弾力に富み、手触りはいいはずだ。

「いやらしい」

 俊子の呟きが聞こえた。卑猥視線を感知されたのか。俊子は後頭部に感受器官を備えている。そんなはずはない。別の話だ。訊くのも変なのでそのまま通り過ぎた。


 翌日の午後七時だった。

 陽子と二人で天井のシーリングライトをみていた。

「ツトムくん。今日はめずらしく激しかったわね」

「すみません。久しぶりだったので……」

 嘘だった。良美と四日前に交わっている。

 陽子が応答してこない。気づかれたのか。だが、手抜きしたつもりはない。

 煩悶していると陽子が含んだ笑い声を上げた。

「違うわ……碁の話よ。上達したわ。がんがんと石をとりにくるので焦ったわよ」

 裸の状態なら普通に誤解する。

「センセイの教えがいいからです。でも、先手で結局は負けました」

 陽子とは前の会社にいた時、修学旅行のキャンセル料の免除依頼の対応で知り合った。数日後、近所の碁会所から出てきた陽子と再会し、親密になった。下心を隠し、何度か碁会所で囲碁の手ほどきを受けた。帰りに、四目を置いて勝てたら、胸を触らせて下さいといってみた。返事はなかったが、陽子の笑い顔で同意を得たと解し、ネットゲームを使い必死に覚えた。一月経ってようやく勝てた。陽子は、約束だから守らなくてはとマンションについてきた。当然、胸だけで済むはずはない。動機は極めて不純だが、性欲は習い事の上達に重要な要素と実感した。

「そのセンセイはやめてよ。わたしの生徒じゃないから」

「といいながらツトムくんと呼ばれていますが……」

 陽子はまた軽めに笑った。

「そうだったわね。どう、仕事は慣れた」

 レストランでの出来事を話した。

「小里ミキは変わっているわね。ツトムくんを毛嫌いするというのが不思議……」

「敵意に近いと思いますよ」

「それがおかしい。ツトムくんはイケメンなのに偉ぶったところがない。さりげなく誘われると断れなくなるのよ。女性に嫌われるタイプではないはず……」

 確かに低姿勢で切り出せば応じてくれた。意思表示なしに濃厚な関係が成立したのは最初の人妻と良美だけだ。拒絶に遭遇しなかったのは、態度や容姿ではなく、運に恵まれただけだと理解している。

「その女性の常務さんはいくつぐらい?」

 思わずドキリとした。

「よくわからないけど、五十歳を超えたぐらいです」

 疑われてはいないと思いながらも、陽子には良美の印象を偽って告げた。

「芸能界にいたのかしら……だとすると美人ね」

 また嘘をつくことにした。

「普通のオバサンにみえますよ」

「わたしも生徒からオバサンと呼ばれている」

「中学生ならそうでしょうね」

 中学生の頃は授業中に女教師の臀部をスケッチしていた。思い起こせば性的好奇心が芽生えた頃から、年上フェチだったのかもしれない。

「ねえ、ツトム君は家庭を持とうとは思わないの? 十分お金は貯まったでしょう」

「考えたこともないです。それにまだ目標の半分にも達していません」

「共働きなら収入が増えるわよ」

「わかっていますが、肝心の相手がいません」

 その分支出も増える。コンビニの廃棄食品やスーパーの特売品まとめ買いで満足する配偶者はいないはずだ。

「わたしはどう?」

 一瞬、驚いたがすぐに本気ではないと思い直した。

「センセイにはご主人がいらっしゃいます」

「別れてもいいわよ。実はわたし、子供を産みたくなったの」

「そうなんですか」

 相槌で応じながらも内心では狼狽えていた。結婚して子供を育てるとなれば、膨大な回収不能費用が発生する。蓄財と養育は両立しない。幼い頃からわかっていた。

 ふと、気がついた。陽子は三十五歳だ。このまま不倫を続けていれば、高齢で子供が産めなくなる。陽子は遠回しに不倫の解消を提案してきたのだ。一時の癒しを共有する関係は長くは続かない。この生き方でいいのかとの漠然とした不安はある。


「へえー、オカちゃんが小里ミキのマネージャー……」

 コーヒー専門店のテーブルで向き合った麻衣が、名刺をみて嬌声をあげた。周囲から非難視線の十字砲火を浴びる。行為の終末期でドーパミン分泌が最大化に至った時の声だ。感情表現が過剰なところは変わっていない。

 麻衣に永福寺のレストランでの出来事を話すと声をあげて笑いだした。これまた声量と動作が過大だった。

「女性には受けがいいオカちゃんを蹴るとは……小里ミキはよほどオトコに酷い目に遇わされたのね」

 麻衣にいわれて納得した。よくある話だ。

「ところでやって貰えますか? 原稿料は一件五万円で」

「是非やらせてもらうわ。結婚してから全然仕事の依頼がないの。原稿料はどうでもいいわ。書いていないとウツになりそう。育児と専業主婦ではどうしても生きている感じがしないのよ」

 麻衣は三十六歳になったはずだ。麻衣の夫は都庁の幹部職員だから働かなくても生計は成り立つはずだ。文筆業に執着して時間と思考を浪費する理由がわからない。

「ねえ、わたし変わったと思う?」

 顎のあたりでカールする髪型や、小顔に広めの額は変わっていない。授乳に適応したのか上腕と胸部が以前よりも肥大化してみえる。育児中の母性愛が漂ってきて、ときめきを感じない。

「いや、相変わらずいいオンナの雰囲気が漂ってきますよ」

 実態以上の評価をしてみる。

「麻衣さんのコピーにはほのかなエロがあって、ボクはドキリとさせられます。その言い方はもう二歳児のママには通用しないわよ。で、今でもあのガッコの先生とつきあっているの?」

 麻衣の観察力は全く鈍化していない。

「別れました」

 切り出してはいないが、決意をしたのは事実だ。

「もう飽きたの? 随分と早いわね。獲物を盗みとる快感に浸っていたのじゃあなかったの?」

 ブチハイエナの上前をはねるリカオン。麻衣の比喩は辛辣だ。

「不倫はリスクが大きいので……」

 これは本音だ。

「ふーん。態度に余裕があるわ。新しいオンナが出来たのね。また年上でぽっちゃり体型ね……どうでもいいけど、もう金持ちになったのだから、女性とはちゃんと付き合いなさいよ」

 麻衣は婚姻という帰結がない肉体関係は不自然との主義だ。良美なら問題がないとなる。でも、何故、良美は結婚や出産を望まないのだ。今、思いついた疑問だった。

「締め切りは来週の月曜日ということでいいですか?」

「……いいわよ。頑張る。できたらメールで送るね」


「いいじゃない。このライターさんは使えるわ。ミキがラーメンを食べなくなってから太った。脂っこいのでお腹が満足するから間食が減って体重が維持される。ラーメンの取り柄はガツンとくる味の濃厚さ。ここのところがいいいわ」

 さほど出来がいいとは思えなかったが、麻衣が書いたコメントを良美は絶賛した。

「そうかな……でも、麺の材料は同じ小麦だから、食感は茹で方の違いだけ。スープに拘るといっても、所詮は煮干し系かガラ系のどちらかよ」

 ミキは食に詳しい。意外だった。

「そうかもしれないけど、それはインパクトがないわ。この台詞でミキちゃんの体型を逆手にPRが出来る。ラーメンチェーン店からコマーシャル出演の依頼が来るかもしれない」

「ヨッチはそういうけど、わたしは以前太ってはいなかったわ。ラーメンが嫌いで食べなかったからよ。嘘をいうわけにはいかないでしょう」

 当事者しか知らないことだからどうでもいいと思うが、ミキも痩せていた時期があったらしい。体型に拘らなくなったのは他人の視線を気にする必要がなくなったということかもしれない。

「岡本さん。これでいいわ。関ラジに送って」

「小里さんはいいのですか?」

 ソファであぐらをかきスマホゲームに興じているミキに訊いてみた。

「どうでもいいよ。どうせヒマな年寄りかトラックの運転手しか聴いていないラジオ番組のコメント……適当にやるわ」

 結局、ミキは良美の意見に従うとわかった。


 良美と二人でミキが出演しているラジオ番組を控え室で聞いていた。放送が終わると、派手なアロハシャツを着た五十代後半と思われる背の低い男が入ってきた。

「ヨッちゃん。どうも……」

「尾崎さん。こちらこそご無沙汰しています」

 良美が男に頭を下げた。

「岡本と申します。よろしく」

 頭を下げて男に名刺を刺し出す。

「番組ディレクターの尾崎です。コメント良かったですよ。新しいマネージャーさんはなかなか才能ありますね。今後ともよろしく頼みます」

 下請けの才能ですと告白すべきかを迷いながら、尾崎が差しだす手をおそるおそる握る。何も起きない。ほっとした時にミキが控え室に入ってきた。

「ミキちゃん。お疲れさまです」

 尾崎がミキに声をかけた。

 ミキはちらりと尾崎をみてからソファに腰を降ろし、わざとらしくため息をついてから口を開いた。

「ホントに疲れたわ。タノちゃんとのやりとりは……ラーメンなんて月並みのテーマに、聞いたことがない北海道のラーメン屋とのインタビュー……やる気にならない」

 ラジオ番組のパーソナリティを努める多野とは、五十歳代の俳優で劇団では演技指導も担当するらしい。そんな大物にタメ口をきいていいのかと不安になる。

 尾崎は苦笑している。大人の対応ができるらしい。

「スポンサーが月島製粉なのでね。週一は粉モノ食の話題を取り上げないといけないのさ。だから、今日のミキちゃんの今日のコメントはスポンサーに受けたと思うよ」

 月島製粉。コンビニで安売り積みになるカップ麺を造っている会社だ。商品開発をしないせいか株価は低迷している。

「ちょっと尾崎さん。それはおかしいわ。わたしのコメントはリスナーに受けないといけなのよ。スポンサーに媚びてラーメンの消費を増やしても意味がないでしょう」

 尾崎の顔が一瞬にして強ばる。アドレナリンが過剰に分泌され、思考回路が切断された状態。このままでは怒号を発するはずだ。

「あっ、ミキちゃん。一階のコーヒー屋さんにモカを挽いてもらっていたのを忘れていた。取りにいかなくちゃ……岡本さん先に車で待っていて頂戴」

 良美がミキをせき立て控え室を出て行く。険悪場面を回避する良美の手際の良さに瞠目していた。

「あいかわらず大変だ、ヨッちゃんは……関テレにずっといりゃあ良かったのに……」

 開けっ放しになったドアをみつめながら尾崎が呟いた。興奮レベルは平常までに落ち着いたらしい。

「えっ、兼平さんは関東テレビにいたのですか?」

 聞いていなかったので、本気で驚いていた。

「そう……番組編成企画部にいた。大食いコンテストがブレイクしてチーフに昇格するはずだったが、辞めてミキちゃんの付き人になった。まあ、玲子さんと確執があったからね」

「玲子さん?」

 記憶にない。

「関東テレビの編成企画部の斉藤玲子さんだ。まだ、挨拶にいってないの?」

 何と、斉藤とは女性だったのだ。

「いいえ、伺いましたが本人とは会っていないのです」

 良美は香桜里が玲子の交際相手といった。つまり二人は同性愛。さすがに芸能界は多様性に満ちている。

「忙しいからね。玲子ちゃんは敏腕プロデューサーだ。もっともヨッちゃんもディレクターとしての評価は高かったのにテレビ界から退いた。もったいなかった。ミキちゃんをこの番組に出演させているのも、ヨッちゃんの顔を立てと玲子ちゃんに頼まれたからだけど……いつまでもあの態度じゃあね……」

 芸能界も空気が読めないと冷遇される。相手の感情を逆なでする言いたい放題のミキは嫌われ者。だが、良美でさえミキの性格を修正するのは困難。起用先の開拓は至難の業とわかった。

 

 ミキのラーメン談義はSNSで話題にはなった。だが、ラーメンを食べてもダイエットはできないという事実に基づく批判コメントが多かった。

 永福寺のレストランでの出来事も動画サイトで流され、こちらは再生回数が三桁を超えてきた。善し悪しは別としてミキの名前は広まる兆しをみせてきた。

「なんでわたしが批判をされなきゃあいけないのよ。おかしなシナリオを書いたライターが悪いのに……それにあの動画は何なのよ。あのレストランからは何も言われてないわ」

 ミキは良美が八万五千円の飲食代金のほかに、十万円を払おうとしたが、以後の出入りをご遠慮くださいと拒絶されたことを覚えていないらしい。急性アルコール中毒による一過性記憶障害。俊子から得た情報では発生頻度は高いらしい。

「話題になって良かったじゃない。これでミキちゃんはラーメン通だとのアピールができるわ」

「ラーメンは……」

 ミキが口を開きかけた時、良美のスマホが振動した。

「はい……明日ですね。わかりました」

 通話を終えた良美が視線を合わせてきた。

「岡本さん。明日の十時に関テレに行って斉藤さんの話を聞いてきて……ミキに番組への出演依頼があるかもしれない」

 悪評が取引を増やす。芸能界に市場経済原理はあてはまらないらしい。

「わかりました。では現地で待ち合わせますか?」

「いいえ、話を聞くだけだから、あなた一人で行って」

 重要な仕事を知識も経験もない新人に投げる。何故だ。

「ちょっとヨッチ……関テレの仕事、わたしはしないっていったでしょう」

 突然、ミキが甲高い声をあげた。

「どんな企画か聞いてくるだけよ。関テレから依頼されたことが伝わると、ほかの局も注目してくれるじゃない」

 ひょっとすると良美はミキのこの反応を予測し、断るつもりかと思った。

「とにかくわたしは絶対に出ない。あのガリガリ女に偉そうにされるのはイヤ……」

 言い放ってミキは事務室を出て行った。良美がため息をついた。ミキが良美の意に従わないこともあるとしった。


 翌日、出勤前に関東テレビに直行した。

 五階の受付コーナーに香桜里はいなかったが、眼鏡をかけた四十代後半と思われる細面の女性が封筒を抱えて立っていた。

 スカートから抜き出た脚部に脛骨が浮き出てみえる。ミキが形容した体型だったので玲子と確認した。

「佐野企画の岡本です」

 玲子の前で再び頭を下げる。同性愛者との先入観があるせいか接近しても邪な妄想が惹起されない。

「先日はお訪ねいただいたのに、失礼しました」

 玲子は声も低い。おそらく男役だ。

「いいえ。お忙しいところをご配慮いただきまして」

 社交辞令を返してみる。

「ご足労願ったのは、小里ミキさんにわたしが担当している番組への出演を依頼したいからです。実は食品メーカーの広告代理店からミキさんを起用してとの要望がありまして……」

「土曜日のおんなぶらぶら食べ歩きという番組ですか?」

 玲子の担当番組は三つあり、食べ物関連はその番組だけだと一応は調べてきた。

「そうです。収録は来週の木曜日。オンエアは来月を予定しています。共演者は西本興行の星野ジュン。これが企画内容です。検討してみて下さい」

 玲子がテレビ局のロゴが入った封筒を渡してきた。

 星野ジュンは知っていた。五年前の漫才コンテストで優勝し、小説を書いて直木賞候補にあがった。可愛い系女子の容貌に不似合いな辛口コメントが支持され、ネットの芸能ニュースでは週一で取り上げられるほど、人気がある。

「ありがとうございます。その番組スポンサーは例の動画をみたのでしょうか?」

 ミキの性格を知った上での起用かを確かめる必要がある。

「動画? 何のことですか?」

 玲子に出来事をおおまかに話してみた。玲子は笑わずに聞いている。語彙が貧困なので玲子の脳内でのセロトニンの分泌量が少なかったと解釈した。

「そんな事があったのですか……でも、そんなミキさんの性格を知っていて良美は付き人になったのですよ。岡本さんもしっかりサポートしてあげてくださいね」

 玲子は良美と呼び捨てた。尾崎は確執といったが険悪な関係だったとは思えない。玲子はミキの性格を熟知し、感情を表出するタイプではなさそうだ。問題はミキが玲子に嫌悪感を抱いていることだ。星野ジュンと共演しただけで脚光を浴びる。何としてもミキを説得して応諾させなければならない。

 帰りの電車に乗って気づいた。いつのまにか仕事に意欲を注いでいる。収入に見合わない努力は蓄財優先の生き方に反する。路線を逸脱しているのは良美の強烈な性に呪縛されているからだ。何処かの時点で修正の必要がある。だがまだ先でいい。これまでと同様に長続きはしない。


「星野ジュンと? わたしがボケ役で星野ジュンを引き立たせる? 馬鹿らしい」

 ミキは企画書をテーブルに放り投げて睨み付けてきた。想定内の感情表現だった。

 良美はミキの隣で企画書を読んでいる。

「頭の善し悪しと演技は別で、ボケ役こそ才能がいると誰もが知っています。主演者を際だてさせられる適性を認められれば、ほかのテレビ局からも声がかかるかもしれませんよ」

 最近の芸能人は高学歴で偏差値が高い。

「へえー、あんた。この業界に入って一月も経たないのにすっかりプロの言い方ね」

 このミキの反論も予測の範囲内にある。

「せっかく話題になったのです。この機運にのらない手はないと思います」

 意外なことに良美がミキを説得しようとしない。

「玲子が星野ジュンを使おうとするのが理解できない」

 その良美は首を捻りながら呟いている。

「どういうことですか?」

 疑問は脳に無駄な負荷を与える。良美に訊いてみた。

「星野ジュンは小説で同性愛を批判しているのよ」

「スポンサーの意向だからではないですか?」

 適当な意見をいってみた。

「そうかもしれない……でも、おかしい」

 良美が呟きながらスマホを取り出し、メールを打ち出した時だった。突然事務所のドアが開き、ボブカットに和服を着た五十代後半と思われる小柄な女性が入ってきた。突出した眼球で見つめられるとたじろぐ。

「誰なの……アンタは……」

 玄関ドアを開ける暗証番号を知る人物であることから、監査役の人見英子だとの想像はついた。立ち上がって頭を下げた。

「人見さんですね。今月からこちらにお世話になっている岡本です」

 英子の眼球がさらに突出する。

「えっ、社員を増やしたの? 良美さん、わたしに断りもなしに何故そんな無駄なことをするのよ」

 英子の視線が良美に移動した。

「これからミキが売れ出すと一人では対応できなくなるので、岡本さんにマネジメントをお願いすることにしました」

 英子が目を剥いた。眼球が一段と巨大化する。

「ミキが売れる……バカなことを言わないで……良美さん、あなたは一体何を企んでいるの? この男はホストね。オンナを騙して金を巻き上げる輩にマネージャーが務まるはずはないでしょう」

 女性に金を無心したことはない。論拠も示さず否定的評価をすべきではないとの思いはあるが、高圧かつ攻撃的な相手に無駄な抗議はしない。

「ちょっと叔母さん。わたしはホストなんか雇わないわよ。それに、わたしが売れないって、そんな言い方はないでしょう」

 ミキが反論したことが意外だった。

 英子には保険会社に勤務する五歳年下の夫がいる。結婚後、間もなく、不倫相手の人妻を連れて北海道に転勤したらしい。以降の英子は、意地と憎悪を蓄積したまま籍を抜かずにいるのだと良美から聞いていた。

「わたしは星野ジュンと共演する話もあるのよ。知りもしないで勝手なことをいわないでよ。それに社員を雇うのに叔母さんに相談する必要はないでしょう。俊子さんを雇ったのは叔母さんの友達だったからじゃなく、わたしが気に入ったから雇ったのよ。勘違いしないで」

 英子は一旦怯んだが、すぐに応酬に転じてきた。

「……星野ジュン。へえー、どうせまた良美さんの怪しげな人脈で取ってきた企画ね。単発ばかりでレギュラーの出演がないじゃない。もう芸能事業なんかやめて、あの川越の所有地にテナントビルを建てるのよ。アパートの賃貸だけじゃあ景気が悪くなると収入がダウンするわ」

「逆だと思います。景気が悪化すると、テナント企業は賃料を下げるように求めてきます。住宅賃料の方が景気動向に左右されずに安定しています」

 余計な口出しをしたとすぐに後悔していた。英子の眼球が照準をあててきた。威圧感で身体が硬直する。

「わたしとしては、岡本さんの経理の知識を活かして不動産部門の経営にも携わってもらうつもりでいます」

 英子の視線が良美にロックオンされたので、息を吐けた。

「なるほど……やはり良美さんの狙いはミキの財産ね」

 英子の論理が突然飛躍した。脈絡なき思考は、怒りの対象が身近にいない欲求不満から導かれる。英子は夫と逃亡した人妻と良美を重ねていると解釈してみた。

「叔母さん。いい加減にしてよ。で、一体何の用? その川越の土地の件は断っておいてと言ったでしょう」

 ミキが代表取締役としての意思表示をした。

「そうそう、その話だったわ。事情が変わってね。ビルが建つのなら、医療法人が棟ごと借り上げたいといってきたのよ。あら、どこだったかしら……確かに入れたはずなのよ。コンサルタントの名刺……」

 英子がハンドバックを探り出した時、ドアが半分開いて俊子が声をかけてきた。

「人見さん。コーヒーがはいりました。三階の居間に用意しておきましたが……」

「あら、じゃあいただくわ」

 がらりと態度を変えた英子が、俊子の後について事務室を出て行く。唖然となったが、良美もミキも表情を変えていない。馴れているのだ。ただ、英子は良美がミキの資産を収奪すると警戒している。何か根拠があるのだろうか。気になった。


 静寂が戻った時、良美のスマホが振動した。

「ああ、前田さん。忙しいところをどうも……」

 良美は週刊太陽の前田と話をしているらしい。

「星野ジュンって、何か問題起こしてない? えっ、大麻……」

 良美はスマホを手に持ったまま片手でパソコンのキーボードを操作している。

「黒川さんが……ふーん。文秋……興信所……」

 文秋とは政治家や官僚のスキャンダルをスッパ抜く週刊文秋のことだ。CIA並みの調査能力がある興信所が情報収集を担当しているとの噂がある。

 スマホをおいた良美が告げてきた。

「星野ジュンは大麻の常習者らしいわ。週刊文秋が来週号で記事にするみたい。先週、警察に事情を訊かれたそうよ。黒川さんが契約を解除すると通告したら、逆ギレして独立するとか言い出して、関テレに手記の出版権を譲るからレギュラーで出演させろと要求したらしいわ」

 タレントの独立話には裏の背景があるらしい。しかし、たかが中枢神経を興奮させるために薬物を摂取し、結果として収入源を断たれる。富裕層が身を滅ぼしていく典型な例だ。

「だからいったでしょう。わたしにはわかっていた。あのオンナは絶対まともな人間じゃあないって」

 後付けにすぎないと思うがミキは胸を反らせた。

「さて、わたしも上でコーヒーを飲もうっと……」

 ミキが立ち上がって事務室を出て行った。


「岡本さん。玲子にミキが出演を応諾したと返事して頂戴」

 一瞬、難聴になったのかと疑ってしまった。

「でも、星野ジュンが逮捕されると、共演もキャンセルになりませんか?」

 訊いてみるとおかしなことに良美は頷いた。

「それが狙い。玲子も同じだと思う」

 良美の回答が全く理解できない。

「玲子は番組がボツになったら星野ジュンに番組の制作費を請求するのよ」

 弱り果てながらも草を求めて河を渡るヌーを襲うワニ。尾崎が玲子を敏腕と評価した意味がわかった。

「こちらも共演を予定していたからコメントを出せる。例のライターさんに世間が注目するような決めゼリフをお願いして頂戴」

 良美もおこぼれの死骸を貪るハゲタカ。芸能界はさながら乾期を迎えたアフリカのサバンナ。残酷な自然の摂理。

「それと二百万円の現金を用意して」

「コメントはわかりましたが、現金の支払い先はどちらですか」

 銀行振り込みを使わないのがおかしい。

「……出掛けるわ……後でね……」

 良美は答えずに慌ただしく事務室を出て行った。また使途不明金が発生した。良美の経営手腕と容貌は評価しているが、会計処理の無節操さには落胆させられる。

 

 良美の皮算用は日の目を見なかった。

 関東テレビから出演料とかが記載された契約書案が届いた翌日だった。

 その日に発売された週刊文秋が「星野ジュンが大麻所持で逮捕」の大見出しの記事が出ると、各局テレビのワイドショーやバライティ番組が取り上げた。殆どがデビュー当時の相方のコメントで、関東テレビが新番組に起用する予定だったとの話題は、どのマスメディアも取り上げなかった。

 黒川との電話を終えた良美がため息をついた。

「玲子が黒川とつるんでいたのよ。最初から星野ジュンではなく、主婦層に人気がある元の相方をデビューさせるプログラムだったのよ。こちらには一言もなし、仁義ってものがあるでしょうに……」

 良美が反社会勢力の用語で罵った。


     4


 翌週の金曜日の夕方だった。

 品川にある弁護士事務所からの内容証明郵便を受け取った。

 封筒を開け、慰謝料として五百万円を支払えという縦書き文字をみた途端、心臓が停まりそうになった。一週間以内に連絡がない場合は訴訟と書かれていた。

 架空請求ではない本物の弁護士である。陽子の夫が不倫の代償と接触禁止を求めてきたのだ。

 陽子と逢ったのは先週の土曜日だ。陽子がラブホに行こうと言い出したので、連れ立って道玄坂に行き、ランチの後にショートタイムで部屋を借りた。玲子から別れ話を切り出してはこなかったが、高揚しない反応で終わりを感じた。

 陽子が夫に告白したのだ。不倫相手の氏名や住所を明かすのはルール違反だ。確かに無断で借りたが、減耗はしてはいない。賃借料なら高すぎる。間男の理不尽な憤りだった。

 スマホの連絡先に、親密化したものの、僅か三月で連絡が途絶えた弁護士の戸山碧のIDがあった。不倫相手の夫から慰謝料を請求されたとショートメールを送ると、内容証明を撮影して送信しろとの返信がきた。ブロックされていなかったので、自販機で缶コーヒーを買い、当たりが出た程度の歓びを感じた。

 指示通りに送信してから五分後に通話アプリが起動した。碧からだった。

「事実なの?」

 旅行代金返還訴訟に勝訴した接待宴会の帰り、ラブホの看板をみて「デザインが下劣ね」と評価した碧に「中は豪華です。入ってみませんか?」と誘ってみた。

 酔って判断力が低下していたと思われる碧がベッドに腰掛けながら

――岡本くん。女性に性交を求めると法的責任を伴うのよ。

とブラウスのボタンを外した場面を思い浮かべていた。

「はい。でも、合意だったのです」

 あなたの事例と同じですと内心で呟く。

「当然でしょうね。では、簡単に経緯を話してください」

 事務的な口調から弁護士が共同で借りているシェアオフィイスにいると解釈した。碧は四十三歳になったはずだ。独身かとの現況確認は後にして、二年前からの陽子との出会いから最後に接触した日までの概略を報告した。

 碧から回答は早かった。

「合意でも原告は相手のご主人なので慰謝料の請求権はあります。ただ、離婚とか勤務先から処分されたとかの実害はないのでしょうから、五百万円は交渉して下げることができます。全てをこちらにまかせていただけますか?」

 淀みのない指示なのでお願いしますとの答えしかない。

「では、委任状を送ります。押印してその内容証明郵便を同封して返送して下さい」

 碧との通話を終えると再び暗澹となる。五百万円ではないにしろ二桁の金額に落ち着くはずがない。蓄財を取り崩さねばならない。この世が終わる恐怖を感じてきた。


 碧に委任状を送付してから三日後、二百五十万円で和解していいかと連絡がきたので同意した。月末までに着手金と合わせて三百万円の支払いが必要になった。

 半ばうつ状態で仕事していると時計が三時を指した。休憩時間なので良美が応接コーナーに移動した。缶コーヒーを良美に渡して、向かいに座る。

「ミキが俊子さんと美容室にいったわ。急ぎの仕事はないから早退しましよう」

 良美が微笑みながら脚を組んだ。スリットが割れ、太股が露出する。お誘いフェロモンが放出されたはずだが、艶めかしくはみえない。交感神経が過剰に分泌されて性欲が起きないのだ。

「今日はちょっと体調が……」

「一昨日から気づいていたけど、どうしたの?」

 良美は見抜いていたらしい。

 蓄財を他人に依拠しない以上は良美にも頼ってはいけないと思いつつも、適当な言い訳が思いつかなかった。不倫が露見し、陽子の夫から慰謝料を請求されたと告白した。支払う原資がないわけではないとまではいわなかった。

 聞き終えた良美が少し首を傾げた。

「なんとなく美人局っぽいわね。本当に相手は教師なの……もっと争ってみたら」

 一瞬、気になった。良美には陽子が教師であると告白したが、陽子の夫も教師だとは言ってはいない。他人事だから良美は勘違いをしているのかもしれない。どうでもいいと疑問をすぐに打ち消した。

「こちらに非がありますので、支払うしかないとあきらめています」

 無駄に支出をした悪感情は早めに忘却したい。

「不倫は高く付くわね。パパ活とかの方が安かったじゃない。もっと早くわたしと逢っていれば良かったわね」

 言い返せないが、パパ活にも費用が生じる。陽子よりも高いはずだし、好みに適合する年上の女性もいない。

「失業していたのだからお金に余裕はないでしょうね。あなたには頑張ってもらっているから、ボーナス三百万円を先払いにするわ」

 忘年会が中止となり一発芸を披露しなくても済んだ時の気分になる。賃金の先払いなら自助努力の範囲内で、蓄財を取り崩す必要はなくなる。

「ありがとうございます」

 下半身がすぐに熱を帯びてきた。実に素直でおぞましい。

「じゃあ問題が解決したところで、帰りましょう。そこもどうやら回復したみたいね」

 良美が微笑みながら股間を指さした。


 良美のマンションはJR中野駅に近い二十階建ての最上階の三LDKである。評価額で五千万円はするはずだ。良美は佐野企画から母親の賃金も受け取っているので高給取りだ。

 寝室でシャツを脱ごうとした時だった。

「ねえ、ミキと結婚して……」

 良美がおかしなことをいってきた。

「ええっ、どうして?」

 ボタンを外す手を止め、訊き返していた。

「あくまで偽装よ。小里家に入籍してから三ヶ月ぐらいで離婚をするの」

 良美の考えがわかった。男に縁がないと思われていたミキが結婚する。だが、僅か三ヶ月で電撃的に破局をして世間の注目を浴びるという筋書きだ。

「西本興業のタレントさんのほうがネームバリューあると思いますが……」

 偽装で婚姻しても蓄財の支障にはならない。中年期に入ったからバツイチはイメージダウンにはならない。暗に三百万円の先払い賞与が条件だ。断れないが形式的に抵抗はしてみた。

「実は黒川さんに相談したことがあるの。中井広志という一芸タレントを使おうとなったけど、顔が不細工すぎるとミキが嫌がったの。あなたならミキも納得するわ」

 中井は知っていた。漫才コンテストで毛深い上半身を晒し、笑いをとって入賞した。目尻が下がり、頬が膨らむ洋梨を彷彿させる輪郭だ。あの容貌を不快と感じるのはミキも同じらしい。

「入籍してから佐野企画の取締役になってもらうわ。ミキの夫がヒラでは釣り合いがとれないから」

 労働者から経営者。役員報酬と株の配当が支給される。蓄財に有利だ。

 良美がショーツを引き下ろした時、訊いておくべき重要事項を思いだした。

「ミキとは……しなくてもいいのですね?」

 ベッドで仰向けになった良美が口元を少し上げた。

「セックスは夫婦の義務よ……してあげないと……」

「とてもできないです」

 どうやっても欲情はできない。

「じゃあ……わたしが代わりを務める……いいわよ。きて……」

 断る条件は完全になくなった。


 大がかりな披露宴ではなかった。立食型式で参加者は三十人ほどだった。以前勤めていた会社の同僚はおろか、両親や兄にも知らせていない。麻衣を除けば、招待した客の殆どが良美の人脈だった。それぞれが勝手に酒を注ぎ合い談笑している。義理で嫌嫌ながら参加しているのが態度に出ていた。玲子の代理で香桜里が出席した。良美と談笑をしている。香桜里でも普通に笑い顔をつくれる。意外だった。

 麻衣がノンアルコールビールを手にして近づいてきた。

「あなたがまだ独りでいたので、ちょっとは嬉しかったのよ。で、いきなり披露宴の案内。嫌みの一言でもと来てみれば、離婚が前提……さすがに呆れたわよ」

 答えられずに苦笑していた。

「出席者の殆どは知っているみたいね」

 黒川と話していた英子が顔を向けて眉をひそめたのがわかった。

 深紅のチャイナドレスを着た麻衣を、水商売の関係者と誤認したのかもしれない。

 英子も入籍が偽装と知っている。

 三日前だった。披露宴の案内状をみた英子が事務室に来て良美に詰め寄った。本当に眼球が飛び出してくる気がした。

――良美さん。あなたの狙いは、この男にミキを殺させてあなたが後釜に座る魂胆ね

 受けないストーリーなのに、つい笑ってしまった。

 ミキが「偽装なの」となだめても英子は納得しない。

 英子がそれなら念書を書きなさいというので、三ヶ月後に離婚しますと書き、拇印を押した。法的拘束力はないが、英子は満足したようだった。

――わたしの目が黒いうちはおかしなことはさせないから……

 良美をしっかりと睨み付けて。英子は出ていった。


 麻衣が保育所に子供を迎えに行くと離れると、シャンパンの瓶を手にした前田が近寄ってきた。

「ミキちゃん。おめでとう」

 前田がミキのグラスにシャンパンを注ぐ。

「ありがと……」

 ミキはグラスを一気に仰ぐ。まだ、酩酊には至っていないようだ。ただ、ウェディングドレスがわりの白いイブニングに胴を締め付けられて苦しいのか、開いた背中が汗だくだった。

「で、オカちゃんはこれからミキちゃんのヒモと呼ばれることになる。これからは小里くんでいくかな?」

 前田が皮肉ってきた。傍からみればそのとおりだが、芸能人の結婚は営業の一環だとわかった。仕事と割り切って三ヶ月間は毒舌に耐えるつもりでいた。

「いいえ、旧姓で呼んで下さい。マネージャーは続けますのでよろしくお願いします」

 前田は「あ、そう」と頷き会場を見渡した。

「しかし、つまらないパーティーだね。ここでオカちゃんのカノジョとかが飛び込んで喚き出すとかの余興が必要だよ」

 一瞬ドキリとした。前田が陽子を知っている。そんなはずはないと思い直した。

 前田が「じゃあ、また」と離れてから、こちらを見ていた尾崎が叫んだ。

「おおっ! 新郎新婦がキスをはじめるぞ」

 突然、横にいたミキがもたれかかってきた。目が閉じられている。打ち合わせにはないが、応じるしかない。ミキの背に手を回すが、重くて支えきれない。抱え込んだまま膝をついてしまった。喧噪が静寂に変わったと気づいた。

「大丈夫ですか?」

 声をかけながらミキの顔をみる。厚塗りのファンデーションでも青みを帯びている。驚いた。ミキは昏睡している。ミキがこの程度の酒量で寝るはずがない。何が起きたのが理解できずに狼狽えていた。

 駆け寄ってきた良美がハンドバッグからプラスチック容器を取りだし、中の液体をミキに飲ませた。二階の冷蔵庫にあったブドウ糖液らしい。飲み込んだミキは小さく息を吐き、立ち上がろうとする。脇に手を添えるが持ち上がらない。

 英子が「あんたはどきなさい」と近寄ってきたのでミキから離れた。

「叔母さん。大丈夫よ……立てるから」

 英子が差しだした手を振り解き、ミキが立ち上がった。

「何が起きたのですか?」

 洗面所に向かうミキと英子を眺めている良美に訊いてみた。

「飲ませたのはブドウ糖液。ミキは低血糖の発作を起こすの」

 看護師の元カノから聞いたことがある。血糖値が下がると神経細胞がグルコース不足で機能しなくなる症状だ。重度の糖尿病患者に多いらしい。

「ミキの夫になったのだから覚えておいてね。二階のキッチンの冷蔵庫に容器が二本置いてあって、ミキと出掛ける時はわたしが一本を持参している。ミキは血糖値が急に下がることがあるので、すぐに糖分を補給しないといけないのよ」

 気のせいか語り終えた良美の横顔が能面のように冷たく感じた。


 ミキの入籍は殆ど話題にはならなかった。

 関東テレビの深夜番組の芸能ニュースで一度だけテロップが流れ、翌週発行された週刊太陽が囲み記事で「小里ミキが電撃入籍! 相手はマネージャー」と紹介しただけだった。

 良美が前田に電話をして記事の反響を訊いていたが、ミキがあのまま死ねばスクープだったのにと笑いを返されたらしい。

「やはり、もっとインパクトの強い出来事じゃないとダメってことね」

 力がこもらない声で良美が呟いた。

「離婚を早めますか? 初七日離婚というタイトルで……」

 話題にならなかったことで気が楽だった。

 良美が首を振る。

「あなたがここに勤めてからまだ一月と少しよ。結婚が偽装だったと誰もが思うわ」

「それなら正攻法でいきませんか? 最近は大手のメディアを利用するのではなく、個人で番組を作ってSNSで発信するのが流行しています。コストをかけずに週に百万円以上を稼ぐチュバーもいるらしいです」

 麻衣からの受け売りアイデアを提案してみた。

「それはいいかもしれない。今の若い人はテレビよりもネットの動画サイトをみているらしいから……やり方とか費用とかを調べて見て」

 提案が採用されたことで、真剣にやる気になってきた。


 披露宴から二週間たった月曜日だった。

 フリーカメラマン協会の事務所で良美からのメールを受信した。西本興業の黒川と会って話を聞けとの指示があった。通話ボタンを押して確認してみる。

「わたし一人で……ですか?」

 声は震えていたはずだ。

「大丈夫よ。頑張って」

 あっさりと励まされた。

 午後四時、西本興行の応接室で黒川と向かい会っていた。

「外資系のホテルチェーンから宣伝番組を作ってくれとの依頼があってね。ミキとウチの大食いタレントがコンビを組んで東南アジアで変わった食べ物を探しながら、観光名所を紹介するコンセプトだ。完成した動画をホテルチェーンが買い取り、ホームページから配信する。再生回数に応じてウチとキミの会社にライセンス料が支払われるシステムだ」

 黒川が企画の概要を説明してきた。男性的な言葉使いだったので、胸をなで下ろしていた。黒川は日によって性を転換できるらしい。

「そちらのタレントさんはどなたですか?」

 取調中の星野ジュンではあり得ないはずだ。

「最初は中井広志を使う。反響を見てコンビを固定することにしたい」

 思いだした。ミキの結婚相手候補だった一芸タレントだ。

「制作費は折半ですか?」

 黒川は首を振った。

「中井の出演料はいらない。制作費をこちらから一案件につき五百万円出す。不足分はそちらで負担ということで……シナリオ、撮影スタッフの手配は委せるよ」

 悪くない条件だ。旅費や制作費を抑えれば、その分の収益があがる。作品が採用されれば定期収入が入る。しかし、黒川が一度は面目をつぶされたミキを起用することや、動画をネットで配信する構想の合致に違和感を覚えた。だが、黒川と同じ場所には長居はしたくない。契約書を持って帰ることにした。


 水曜日の夕方だった。

「カンボジアで毒蜘蛛や芋虫を食べる……何なのよ、それは?」

 動画の制作と中井との共演は応諾したが、麻衣と二人で考えた企画を説明するとミキは目を吊り上げた。

「問題ないじゃない。朝市でクモやクワガタの幼虫を買い、コンドミニアムでミキが料理して中井に喰わせる。この企画はいいわね」

 長野県人だから昆虫食を発想した。カンボジアを選んだのは、訪れたことがある唯一の外国だからだ。

「でも、この企画書では、わたしも作った料理を食べることになっているじゃない。わたしは虫なんて食えないし、第一料理なんか出来ない」

 食のコメンテーターを目指すとは思えない主張だ。だが、批判でミキを納得させることはできない。

「形が似た食材を持参して、油で揚げるという手があります」

「岡本さん。それはいいアイデアね。ミキちゃんそれなら大丈夫よ」

 ミキは答えない。応諾したと解釈した。

「では、シェムリアップのホテルと、現地で撮影する許可を取ります。西本興業の関係者は中井さんだけですので、航空券と宿の手配もわたしがやります。カメラマンは目星をつけている方がいますので、わたしが交渉します」

「ようやく岡本さんを雇った成果が出てきたわ。じゃあ今日はもう閉めましょう。岡本さん。車で送って頂戴」

 良美が視線を合わせてきた。瞳に潤を感じる。

「わかりました」

 ミキに睨みつけられた気がした。嫉妬をしているのか。しかし、ミキは良美が代理の妻を勤めることに同意しているはずだ。単なる気のせいと疑問を打ち消した。


 金曜日の夕方だった。京王線に乗り換えるつもりで吉祥寺駅のホームに降りた時、登録していない番号から着信があった。履歴に発信してみる。

「境町中学校です」

 男性が応答してきた。陽子の勤務先だと気づいた。碧からは陽子とは一切の連絡を絶てと指示されている。

 陽子がスマホではなく職場の電話を使い、連絡をとろうとしている。緊急事態が起きたのだ。

「逢坂商事の山本です。小谷先生はいらっしゃいますか?」

 陽子と取り決めた緊急時の偽名を名乗った。不倫の継続には常に警戒心を維持し、不測の事態に備える。当事者なら誰でも考えるだろうが結果的に露見した。

 二十秒後に返事が来た。

「小谷先生は手が離せないので、のちほどかけ直すとのことです」

「わかりました。お手数をおかけします」 

 三分後、京王線のホームで待っていると陽子からの着信があった。必要もないのにあたりを見回していた。

「話せる?」

「大丈夫です。そちらは?」

 陽子も連絡をとるなと指示されているはずだ。

「今職員室にいるのはわたしだけ……ああ、さっき出た人は用務員さん。部屋は別なのでここからは聞こえない。ずっと連絡できなくて……謝らなくてはと思って……」

「いいです。バレたらこうなるとわかっていました。今更センセイを責める気はありません」

 他人の所有物を無断で使用した罰金と思うことにした。

「信じてもらえないかもしれないけど、わたしはあなたの名前をいってはいない。もっとわからないのは徹なの……徹は子供っぽいところがあって、わたしが嘘をいっても、疑ったりはしない……誰かがあなたとラブホに入るわたしの写真と、弁護士の名刺を送ってきたの……わたしは中には入っていないとか嘘をついたけど、写真の裏にあなたの名前と住所が書かれていて……どうしようもなかった」

 陽子が裏切った訳ではなかったのだ。

「センセイのご主人が興信所に依頼したのですか?」

 今更どうでもいいが訊いてみた。

「違うと思う……ちゃんと徹の求めには応じていたし、あなたとはそれほど頻繁に逢っていたわけでもない」

 陽子は夫とはセックスレスだといっていた。もともと権利はないが、騙された感はかなりある。

「ねえ、これからどうなるの?」

「どうなるって? もう逢ってはいけないはずでは……」

 二度も罰金は払いたくない。

「違うの……そうか、あなたはまだ読んでいないのね。週刊太陽。わたしは徹から聞いて読んでみたの……あなたが小里ミキと結婚したのをそれで知ったのよ」

 陽子との通話を途中で切り、ホームのコンビニで週刊太陽を買った。表紙の見出しに(逆玉男はゲス不倫の常習者)と書かれていた。陽子と並んでラブホのエントランスに入る写真。目は黒塗りだがスーツで陽子と特定できる。都内の中学校に勤務する女教師や、人妻のコピーライターとの爛れた関係との小見出しだった。高校生の頃からケチやシミッタレと罵られていたので人格攻撃には耐性がある。懸念は女性と以降は親密な関係を築けなくなることだ。


 悪い予感は的中する。麻衣からの着信が入った。

「ちょっと! どうゆうことよ。祐二が大地はオレの子かって訊いてきたわ」

 慌ててスマホの音量を下げる。ホームにいる誰かに聞こえたのではないかと辺りを見回していた。

 祐二とは麻衣の夫で、大地とは息子らしい。初めて知った。

「すみません。麻衣さんとの関係は誰にもいっていないはずですが……」

「そんなこと、知っているわよ。わたしは訴えるわ。あなたの会社が小里ミキを売り出すためにデタラメ記事を書かせたと……」

 麻衣に指摘されて気がついた。前田が編集した記事には良美が出ていない。陽子の夫が教師だと良美が知っていた。全ては良美の画策なのだ。良美が興信所を使って、撮影した写真を陽子の夫に送った。麻衣の場合は、打ち合わせで逢っているのを密会していることにした。二百万円の現金は興信所への前払い金だったのだ。

「オカちゃんは変わったわ。あの兼平って常務さんとエッチしているからなのね。大体、異常よ。偽装結婚なんて……」

 やはり麻衣は良美との関係にも気づいていた。

「それはミキを売り出すため……」

「それがおかしいのよ。あのヒトはあなたを弄んでいる」

「それはわかっています」

 賞与を前払いで受け取っているとつけ加えるのはやめた。

「わかってない!」

 麻衣が声を張り上げた。慌ててスマホを落としそうになる。

「あなたのいいところは、ズルをせずに二億円を貯めるという直向さだったのよ。きっとガッコのセンセイもそうだと思う……でも、あの兼平ってオンナは、あなたをスキャンダルのネタに利用しているだけじゃない……いやらしい毒よ。あなたが惚れる価値なんてない。あたしはもうあなたの会社の仕事はしない。あなたもあんな会社はさっさと辞めなさい!」

 麻衣から一方的に通話を切ってきた。

 呼称がオカちゃんではなくあなたに変わっていた。麻衣は今度こそ完全な決別を表明してきたのだ。

 麻衣の罵りは脳にトリ串が刺さったように効いた。ハンセイ猿のように頭を抱えながら、局面を打開する手を考えた。ほどなく専門家の意見を聴くことを思いついた。

 碧に電話をして、週刊太陽を名誉毀損で告訴できないかと訊いてみた。記事の概要と話題づくりのために偽装結婚をしたと告白した。

 またしても事務的な碧の口調が返ってきた。

「出来ますが、勝っても相手が詫び文を小さく掲載するだけです。賠償金までとれたケースはあまりありません。これからも騒がれるのでしょうが、報道の自由が優先されるので、発信側に有利な判例が多いのです」

 碧は訴えても実利がないといっている。

 考えてみれば毀損される名誉などはない。ミキと入籍したが離婚が前提なので両親や兄にも知らせてはいない。記事の写真のモザイク顔は誰だかわからない。

「問題は、訴訟することで偽装結婚が発覚すること……外国人が不法就労をする時に使う手段で、公正証書原本不実記載という刑事罰の対象になるの。覚えてはいないと思うけど、わたしはいったでしょう。女性と性的な関係を結ぶのは、厳然たる法律行為で、安易にはできないのよ」

 碧に毅然と諭され、己の浅はかさを悟った。偽装結婚を公表できない。麻衣がいったとおりだ。良美は騙したのだ。さすがに堪忍袋の紐が切れた。


 良美のスマホを呼び出した。

「週刊太陽をみました。これも賞与の見返りですか?」

 良美が含み笑いをしたのがわかった。怒ると可愛いわと子供扱いをされている。

「最初から教えるとあなたは協力してくれないでしょう。仕方がなかったのよ」

 わざとらしい甘ったれた声。その手に乗るか。

「わたしも訴えます。会社を辞めてミキと離婚します」

 訴えるは虚勢だが、離婚と辞職はする気になった。賞与を返還し、良美との関係も終わる。この二点についてはかなりの躊躇いと未練がある。

「ちょっと待って……悪かったわ。いま何処?」

 家の近くの駅だと答えた。

「こうしないと、あなたがわたし一人のモノにはならないでしょう」

 今時はエロ漫画でも使わない月並みの台詞。

「そんなことを……誰が」

 信じてはいないが、その気になりつつある。現時点であなたと呼んでくれる女性は良美だけだからだ。

「今からあなたのマンションに行く。ねえ、怒らないで……ちゃんと話をしましょう」

 女に溺れた男が身を滅ぼしていく過程を実感していた。


    5  


 翌週は月曜日から慌ただしかった。

 ミキは関東テレビではないキーテレビ局のバラエティー番組に出演した。司会者に夫の不倫をどう思うかと問われ

――夫はケダモノだから、飼育が難しいのよ。

と良美が考えた台詞で答えた。

 周囲からの笑い声とミキが怒鳴り出した映像はカットされたようだ。

 SNSには「ゲス夫に共感する」に「いいね」が三千件以上もついた。苛立つミキの酒量が増加した忌み事は別として、良美の思惑どおりミキが売れ出した。

 動画を制作する準備も順調に進み、西本興業から制作費が振り込まれた。

 得意の無駄を省く手法で、現時点では旅費を含めて百五十万円に収まっていた。以降の経費を五十万円以内に抑えれば、粗利益が三百万円になる。賞与の前借り分と相殺し、心置きなくミキと離婚できると考えていた。

 

 カンボジアに出発する二日前だった。

 三鷹駅で帰りの電車を待っていた時、スマホにカンボジアのランドオペレーターからのメールが入った。

 現地の警察に撮影許可をとるので、旅行参加者のパスポートデーターを送れとの依頼だった。一度は送っているが紛失したらしい。前の会社の同僚だが、相変わらず粗相が多い。

 中井や撮影スタッフのパスポートのコピーを事務室のデスクに入れてある。良美に対応させようと佐野企画に電話をしたが応答がない。不在時には良美のスマホに転送されるのだが、電源が入っていないとのメッセージが返ってきた。またぞろミキと外食に出掛けたと解釈し、やむを得ず会社に戻ることにした。

 佐野企画についた時は午後の七時半をすぎていた。

 玄関に良美の靴があり、事務室には灯りがついていたが、誰もいない。机の引き出しから中井とカメラマンのパスポートのコピーを取り出し、ファクシミリにセットした。ミキと良美の分も必要だと気づいた。 

 階段を使い三階に上がった。居間にいるはずの良美やミキがいない。戻ろうと廊下に出た時、ミキの寝室から良美の悲鳴が聞こえた。

「ああっ、やめて……」

 ミキが良美に暴行を加えている様子を想像していた。

 良美が怪我をすればカンボジア行きが中止になる。ミキの制圧はとうてい無理だが説得をしてみようと思った。

「いまさら何よ! さんざんここをアイツに触らせたでしょう」

 ドアの一歩手前で脚が作動を停止した。

「ああ……仕方がないの……手懐けておかないと……」

 良美を男役のミキが抑えつけている。十五歳未満は視聴できない動画のシーンが思い浮かぶ。ミキは同性愛者で良美はバイセクシャリスト。ミキが良美に従う理由や洗濯室で俊子がいやらしいと呟いた意味がようやくわかった。覗き趣味はないが、つい耳をドアに近づけていた。

「嘘よ! ヨッチは誰とも出来る……玲子でもアイツでもいい。この前は前田ともやったでしょう」

「酷い……そんなことはしていない……前田には金を渡しただけ」

 良美は前田に裏金を渡し、ゴシップ記事を書かせていたらしい。使途不明金の支払い先は前田だけではない。ミキを売り込むために黒川や尾崎にも払っていたのだ。

「嘘よ。カーナビにラブホの軌跡があったわ。ヨッチはいつも裏切っている……」

「あああ、ミキのためなの……ミキにこうされたいから玲子と別れたのよ」

 脱力していた。愛は宗教が生み出した虚構と信じてはいないが、良美には必要とされていると誤認していた。だが、良美が抱きたかったのは女性で、しかも玲子やミキだった。異性としてもその他大勢の一人に過ぎなかったのだ。

「違うでしょう。アイツとしたいからでしょ!」

 だが、良美は妻の不倫相手で、かつまた自分の不倫相手でもある。これをどう解釈すればいいのだ。どうでもいい。馬鹿らしくなってきた。

「違う……あの男は必要がなくなったら消えてもらう……」

 言われなくても消えると叫びたかった。

「早くして……アイツの奥さんと呼ばれるとぞっとする」

 こちらも同じだといいたくなる。

「あの男は逮捕される……あっ、ミキそこはやめて……」

 逮捕。どきりとなる。碧がいった公正証書なんとか罪か。

「何よ! 中井にもこうされたくせに……」

「だから、それは大麻を手に入れるため……」

 今度は愕然となった。良美は大麻の使用者として逮捕させるつもりなのだ。良美は興信所を使い、中井が大麻の常習者であることを突き止め、黒川に動画の共同制作を持ちかけた。おそらく週刊太陽の前田とも打ち合わせ済みだ。

 ミキのゲス不倫夫は大麻の常習者。今度こそ騒然たるスキャンダル。良美が引き留めたのは、逮捕まで偽装結婚を続けさせるためだった。麻衣がいったとおり良美は毒なのだ。これ以上関わってはならない。辞表を書いて逃げることにした。


 足音を立てないように階段を下り、事務室に入った。

 辞表を書き終えて良美のデスクに置いた時、司法書士事務所からの封筒が載っているのに気がついた。開封されていたので中から書類を取りだしてみる。

 法人役員の登記完了通知だった。佐野企画の専務取締役に就任し、千株を譲渡されていた。持ち株はミキが代表取締役で八万九千株。良美が常務取締役で一万株だ。佐野企画の登記上の資本金は五千万円だから話にもならない。

 書類を封筒に収めてから気がついた。

 辞職しても取締役は解任されない。離婚届けを出さない限り、ミキの配偶者であることに変わりはない。

――ミキが死ねばスクープだった。

 前田が良美に告げた言葉が脳裏に浮かんだ。低血糖の発作。良美の話では何度か発作を繰り返しているらしい。ミキのように心臓に持病を抱えていると、血糖値の降下は致命的なのかもしれない。ミキが死亡すれば、会社の株を含めた資産を遺産として引き継ぐ。自助努力なしで十億の資産が手に入る。

 

 足音をしのばせて三階に上がり、キッチンの冷蔵庫を開けてみた。扉のポケットに、プラスチック容器が二本あった。どちらかを良美が携帯しているはずだが、同形なので判別はつかない。この中味を取り替えれば、低血糖症の発作に効果はない。ミキは昏睡状態に陥り、エネルギー源を失った脳と心臓は活動を停止する。病死と見做されるから完全犯罪。

 左側の容器を取りだし、シンクに流し、冷蔵庫にあったミネラルウォーターに入れ替えた。発覚を考慮すれば、容器の中味は一本しか替えられない。確率は二分の一だが、いつかの時点では確実におきるはずだ。

 偏差値以上に知恵が働く。怒りが潜在化していた残虐性を呼び起こした。虐げられた者の反逆。復讐するは我にあり。

 だが、自己陶酔をしている場合ではない。容器を扉ポケットに入れ、冷蔵庫のドアを閉める。息を止めていたことに気がついた。

 

「ちょっと勝手に開けないでよ」

 背後から声をかけられたので、飛び上がりそうになる。

 ミキが入ってきていた。ピンクのネグリジェを着て、髪を肩まで下ろしている。まるで呪いの館のミルクのみ人形。

「ああ、あの……ミルクが飲みたくなって……下の冷蔵庫にはなくて……」

 ミキをみて咄嗟に思いついた。

「ミルク? 子供じゃああるまいし、そんなものないわよ。第一に何をしにきたのよ。こんな時間に」

 ミキが睨み付けてきた。

 邪な思惑を探られていると一瞬はたじろいだが、考えてみれば、今のミキは不倫の現場を抑えられそうなのだ。開き直りで威圧しているとわかる。

「ああ、実は現地のランドオペレーターからパスポートのコピーを送信してくれとのことで……ミキさんの分もいるので……」

 言い訳ではなく本当なのだが、何故かすらすらと言葉が出ない。ミキの迫力に圧倒されている。情けない。

 ミキは答えず。冷蔵庫の扉をあけ、中からオレンジジュースの缶を取り出し、一気に飲みほした。

「後で事務室に持って行く……」

 身体を左右に揺らし出ていくミキをみて失態を悟った。

 こうして頻繁に飲み食いをしているミキの糖分摂取が中断することはない。披露宴で発作が起きたのは、ドレスがきつくて食べられなかったからだ。ミキが低血糖症で死ぬことはない。棚から落ちてくるおはぎなどはない。熟考を経ていない甘い思惑はあっけなく霧散した。

 だからといって犯罪者にされてはたまらない。

 良美の企てはわかった。罠に?まったふりをして良美の裏をかき、あっさりと消え去る。実に格好がいい。がぜんと脳内にドーパミンが放出されてきた。

 

 シェムリアップでの撮影は順調に進んだ。

 良美はさすがに元ディレクターだっただけに、ミキと中井に演技を指導し、撮影角度や照明などに細かい指示をだしていた。ミキと中井の掛け合いも最初はぎこちなかったが、休憩中に大麻を吸引したのかテンションが上がった中井は、現地のランドオペレーターが用意したクモに似た河蟹やイモムシに似た木の実をバリバリと平らげ、現地で雇ったエキストラを合図なしで笑わせた。ミキもサソリを漬けたスラーソという薬用酒を飲むと快活になり、市場ではタランチュラを手づかみにしてバケツに放り込むほど大胆にはしゃいだ。テトラヒドロカンナビノールとエチルアルコールの高揚感がもたらした即興演技は、案外と受けるのではないかと思えた。

 二日を予定していた撮影が一日で終わり、契約したカメラマンと音響係はプノンペンに戻った。

 予算と時間が余ったので、良美の提案で大型タクシーを借切りシェムリアップの周辺で観光をすることにした。

 午前十時でも気温は三十二度。日本の真夏に匹敵する過酷な気候である。

「くそ暑い。シャツを脱ぎたいな」

 アンコールトムの南大門でTシャツと短パン姿の中井が愚痴りだした。大麻でラリっているようだ。ホテルに置いてくるべきだったと後悔していた。

「ここを通り、中心のバイヨンまで徒歩で向かいます」

「何ですか? バイヨンって?」

 中井が訊いてきた。突っ込みを入れ、ボロがでるのを期待しているのだ。残念だが研修で訪れているので説明ができる。

「十二世紀建てられた仏教寺院です。仏像やヒンズー教の女神のレリーフがあります」

「へえー二つの宗教の寺院……神様同士でモメますよね」

 中井のコメントは面白くない。やはり運だけで勝ち組になれたタイプだ。

「一説では王朝が変わる度に、寺院に祭られる象徴も変わったのだそうです」

「そうなの……でも、あそこまではかなり距離がありそうね」

 呟く良美は焦げ茶色のガーゼ地ワンピースを着てサンバイザーを被っている。

「二百メートルもないです。みんな歩いていますよ」

 車やトクトクを借りられるが無駄に費用がかかる。制作費から賞与相当分を残さなければならない。知らないふりをした。

「わたしはイヤよ。行かない」

 紺の半袖シャツにプリーツスカートのミキが口を尖らせる。化粧をしていない頬には汗が浮いていた。僅か百メートルも歩いていないのに辛そうだ。ミキの心臓は百キロの身体を移動させる過度の負担に悲鳴をあげている。ご主人の不摂生には耐えてもらうしかない。

「ここにいても暑い。中の方が日陰もあって涼しそうだよ」

 中井がミキを説得した。大麻中毒者はタフだ。少しは役に立つ。

「休みながらゆっくり歩きましょう」

 良美に促されてミキも渋々同意した。ミキと良美が並んで前を歩き、中井が後からついて行く。中井の視線が良美の臀部に注がれている。中井も良美に取り憑かれたクチだ。毒花に呼び寄せられた愚かなハチ。

「このレリーフはデバターといいます。バイヨン寺院を建造した王様ジャヤバルマン七世の後妻が描かれています」

 バイヨンの前で立ち止まって説明をしてみた。

「この女性の体型は良美さんに似ていますね」

 中井がレリーフを指さしながら良美に話しかける。

「あら、わたしはこんなに縊れてはいないわ」

 中井がレリーフを眺める良美の腰に手を回す。

「いやいや、なかなかイケますよ。ねえ、岡本さん」

 中井がにやけた顔を向けてきた。

 ミキが中井を睨みつけている。

「上司へのコメントは避けることにしています」

 中井は良美と関係したことを披露している。良美はミキが中井を睨んでいるのに気づきながらも、尻を撫で回している中井を窘めようとはしない。嫉妬を煽り、王を傅かせたジャヤバルマン七世の後妻。実に巧みだ。


 四面観音とよばれている石像の前に着いた時、ミキが地面に座り込んだ。

「大丈夫?」

 良美が声をかけるがミキは俯いたままだ。

 しゃがみ込んでミキの顔を覗き込んでみる。顔面が白くなっていた。まさか。これは低血糖症の発作ではないのか。

 良美がショルダーバックからプラスチックの容器を取りだしてミキに手渡す。

「ミキちゃん。これを飲むのよ」

 ミキが容器に口をつける。飲み込めたようだ。

 中井が怪訝な顔つきでみている。ミキを薬物中毒者とでも誤解したのかもしれない。

「気持ち悪い……目が回る」

 ミキが再び俯いた。

「あああ」

 つい声をあげてしまった。ミキが飲んだのはミネラルウォーターだ。糖質ゼロで血糖値は上がらない。

 しかし、何故だ。朝食でトーストを三枚も平らげたミキの血糖値が一時間で下がるはずがない。もしかすると血糖降下剤が効き過ぎているのか。だとすれば危険だ。

「おかしい……ミキが回復しない」

 良美が容器のキャップに指をつけ、舐めた。甘さを感じないのか首を捻っている。ぞっとしてきた。すり替えが露見したのかもしれない。不味い。このままでは殺人犯になる。

 立ち上がってプリベイド携帯を取り出す。番号は日本と同じ一一九。応答してきた相手にアンコールトムで女性が倒れたと英語で伝えた。

 携帯をポケットに収めた時、良美と視線が合った。一瞬の違和感。良美が微笑んだように思えたからだ。

 やはり、露見したのか。でも、咎めている感じではない。判断に迷っていると後ろから話し声が聞こえてきた。

「このセキゾーは人々の罪を許し、ジョードに導く観音菩薩像で、クメールの微笑みとも呼ばれています」

 振り返ると、五人の若い日本人女性が現地人ガイドの説明を聞いていた。良美はガイドの下手な日本語を聞いて笑ったのだと解釈した。

「熱中症だよ。これを飲ませてみては……」

 中井が尻のポケットから取り出したペットボトルを良美に手渡す。ココナツジュースらしい。偽物だから糖分は少ない。

 良美がココナツジュースを飲み、ミキと唇を合わせる。

 良美の頬が窄まり、ミキの口元からココナツジュースがこぼれ落ちた。女性同士のキスにみえる。

「あの女性たち何をしているの?」

「男の人は中井広志じゃないの?」

 後ろからの声が聞こえてくる。

「はーい。中井広志です。小里ミキさんが熱中症なので、付き人の方が水分を補給しているところです」

 中井が的外れの説明をしている。状況を把握してないから口調は軽い。

 左端の女性が手にしているソフトクリームに視線が固定された。カンボジアの乳製品は植物油が原料で無駄に糖分が多い。使えると思った。

 女性に近づいていく。男が向かってくるのに逃げようとしない。小柄で可愛い系の容貌だが年下だ。そんなことを考えている場合ではないと、十ドル札を突き出す。

「すみません。連れ合いが低血糖の発作なのです。それをいただけませんでしょうか」

 女性は目を白黒させた。ミキの夫であることに驚いたようだ。

「お金は要りませんから、どうぞ」

 戻って良美に女性から受け取ったソフトクリームを手渡す。

 良美が指で掻き取ってミキの口に押し込む。良美が二度目にソフトクリームを指につけた時、ミキの瞼が開いた。

「も……いい。変に甘すぎ……」

 全身から力が抜け、汗が一挙に吹き出てきた。

 

 その日の夜、部屋を訪れてきた中井が、大麻を吸わないかと誘ってきた。中井の言動が予想どおりだったので、良美はシナリオを書くのが苦手だとわかる。

 大袈裟に驚いたふりをしながら、カンボジアで大麻を吸うと、拷問されて銃殺刑になると嘘をいった。

 震えだした中井をみて、笑いを堪えるのが辛かった。

 中井に缶ビールを渡し、トイレに入る。用を足すふりをして、ドアの隙間から覗いていた。スーツケースにカギがかかっていると知った中井がクローゼットに向かっていく。中井がクローゼットの扉を開けて、中にかけていたスーツの胸ポケットに小さなポリ袋を入れたのがわかった。

 寝ると告げながらも、良美の部屋に向かうはずの中井が去ってから、スーツから大麻らしい枯葉が入ったポリ袋を取り出し、破いて中味をトイレで流した。

 さらに万全を期すため、翌朝、ホテルを出る時に、ハウスキーパーに部屋の衣類を捨てるよう依頼し、市場で買った安物のポロシャツとジーパンに着替えた。

 全く手荷物なしで空港行きのリムジンバスに乗りこむと、先に座っていた良美が眉をひそめたのがわかった。

 空港の出発ロビーに向かう途中で、良美が尻を触ろうとした中井の脇腹を肘でついたのをみて、少しだけ笑えた。

 経費を節減するために、自分の航空券はバンコク経由の格安便に振り替えておいたので、良美たちとは別行動となった。

 帰国した翌朝、ネットニュースとみると、警察に拘束されてパトカーに押し込められる中井の動画が流れていた。週刊太陽の記者が撮影したらしい。SNSでは西本興行は大麻で汚染されているとのコメントに「いいね」が一万件を超えていた。

 黒川が謝罪をするシーンの動画も流れていたが、ミキについてはどのメディアも触れていない。警察が中井の同行者として取り調べをしたので、マスコミは名前を伏せざるを得なかったのだ。歯ぎしりをする良美を想像して一人で笑っていた。

 午後、署名捺印をした離婚届けと辞表を佐野企画あてに郵送した。良美との関わりを完全に断ち切った。ポストに投函した時、便秘をして三日目に排便があったような爽快感を得られた。


 翌週の月曜日は、再びハローワーク新宿西の相談コーナーで真澄と向き合っていた。

 受付で相談員を指名できると聞いたので、真澄にした。キャバクラ並みの公的サービスの質の向上は喜ばしい。

 佐野企画を辞めたと告げると真澄は眉間に皺を寄せた。

「芸能界での仕事は無理でしたか?」

「はい。難しくて、とても務まりませんでした」

 真澄が求職者名の変更を求めてこない。岡本という姓が小里に変わったことに気がつかないのだ。

 なんのことはない。ミキのマネージャーや夫だとしてもただの三十男だ。世間の注目など浴びてはいなかった。今後の求愛行動に影響はないとの意味だ。

「岡本さん。この際、地方に移住されては如何ですか?」

 真澄は印刷した求人票を差しだしてきた。

「地方とは?」

 受け取りながら、都内にマンションを所有していると告げるべきか迷った。

「今、茨城県のこの町で地域振興を担当する臨時職員を募集しているのです。地方公務員になり、住宅も提供されます。東京で暮らすよりも生活費がかかりませんし、田舎は純朴な人ばかりなので、のびのびと暮らせますよ」

 長野市も大都会とはいえないのでわかる。但し、純朴な人などこの世にはいない。田舎には競争相手の男性は少ないが、好みの女性も少ない。さらには不便である。

「その町にコンビニはありますか?」

 いくら職業相談員でもそこまでは知らないはずと思いつつも訊いていた。

「三つあります。国道沿いにあるのが一番流行っています」

「随分と詳しいですね」

「ああ、わたしの故郷です。月に一度は帰っていますよ」

 真澄が口角を引き上げた。この笑顔はいける。なるほど嗜好の範囲を広げれば、親密化をはかる対象者は増える。とはいえ、真澄に逢えますねと粉をかけるのは早い。バイト先はある。臨時の公務員なら副業ができるはずだ。マンションは賃貸にしてもいい。地方移住は蓄財に有利かもしれない。

「検討してみますので、紹介状をお願いします」

 真澄から紹介状を受け取った時、スマホが振動した。良美からの着信だった。無視しようかと迷いつつも応答していた。


     6


「ミキが今朝亡くなったの」

 良美の声を懐かしがる前に驚いてしまった。

「それでね。警察の人からあなたをこちらへ来させるようにといわれたのよ」

 変死扱いになるので警察官が来ているらしい。

「でも、わたしは離婚していますし、会社も辞めています。行く必要はないでしょう」

 瞬時とはいえ、ミキに殺意を抱いたのだ。警察とは関わりたくない。

「法律上ではあなたはまだミキの夫なの」

 一瞬、耳に鼻水が詰まったのかと思った。

「辞表と離婚届けは届いたはずです。何故ですか?」

 口調が苛ついているのはわかっていた。

 良美が声を抑えながら答えてきた。

「……まだ市役所に出していなかったの」

 怒鳴ろうとして、ミキの配偶者なら遺産を相続するのだと気づきやめていた。

 今度こそ棚からおはぎが落ちてきた。二億円どころか十億円が手に入る。薄笑いを浮かべてハローワークの廊下を歩いていたらしく、清掃のオバサンがモップで顔を覆いながらすれ違っていった。

 

 三年ぶりにタクシーを使って佐野企画に到着した。

 ミキはエントランスに置かれていたストレッチャーの上でファスナーがついた青いビニール袋に押し込まれていた。

 白い防護衣を着て検視官と書かれたホルダーを首から下げた男がファスナーを半分ほど開いて訊ねてきた。

「この方はあなたの奧さんですか?」

 その質問で呼び出されたのは、配偶者としてミキを特定するためだとわかった。

 ミキの死に顔は蒼白だった。アンコールトムでの出来事を思い出し、心拍数が速まる。血圧も上昇したかもしれない。

「……はい。妻です」

 声が上ずってしまった。中学生の頃に祖母の遺体をみたが、あの時は何も感じなかった。今は気味が悪い。夢にでるなよと心で呟きながら合掌をする。

「では、監察医の指示で遺体を解剖しますので、ここに署名をして下さい」

 検死官に促されて、遺体検案同意書なる用紙に署名をした。

「では、搬送します」

 検視官が一礼し、もう一人の防護服を着た男性警察官らしい男とストレッチャーを押して出て行った。


 事務室に入るとノーネクタイでジャケットを着た白髪頭の男性が近づいて来た。年齢は五十歳代の半ばぐらい。頬の毛穴が目立つ人なつっこい丸顔。でも、目つきには猛禽類を思わせる鋭さがある。

 男性は南と名乗り、三鷹東警察署で知能犯捜査を担当しているのだが、応援で来ていると長い自己紹介をしてきた。

 南が住所と電話番号を訊ねてきた。

「結婚しているのに都内で別居ですか?」

「はい。離婚することで合意していました」

 隠してもわかる。正直に告白した。

「ほう……もったいない」

 南が唇を歪めた。ミキが資産家と知っている。地元の警察官だから当然か。

 南に促されて三階に上がった。

 鑑識係らしい紺の制服を着た中年女性がキッチンの冷蔵庫を覗き込んでいた。小柄ながら胸が大きい。でも、厚手のカップで偽装した可能性がある。

 突然、そんな事を考えている場合ではないと、不安を覚えてきた。ミキに低血糖症の発作が起き、容器に入っていたブドウ糖液を飲んだ。だが、血糖値を上げる効果がなく、昏睡したまま心臓が停止した。アンコールトムで良美がミキに飲ませたものがブドウ糖液で、冷蔵庫の容器の中味がミネラルウォーターであれば、すり替えた人間がミキを殺したことになる。

「訊いていいですか?」

 後ろから声をかけられ、飛び上がりそうになった。振り向くと南がテーブルに置かれたピルケースを指さしていた。

「奥さんにはどんな持病があったのですか? いろいろな薬がこのピルケースありましたが……」

 落ち着け。怪しまれるぞと言い聞かせる。

「はい。糖尿病と心臓病の薬のほかに、サプリメントも飲んでいたようです。種類や名称とかは分かりません」

 南はふんふんと頷きながらメモを取っている。

「このピルケースの薬を調べたいのですがいいですか?」

 薬は問題ない。

「はい。どうぞ」

「解剖の結果は明後日にわかります。遺体もその日の午後には署に戻ります」

 南はそう告げると、鑑識係にピルケースを渡して出て行った。

 鑑識係が去ってから、冷蔵庫を開けてみた。

 扉のポケットにソフトドリンクやヨーグルトが並べられているが、ブドウ糖液の容器は見当たらない。居間のテーブルやカップボードにもなかった。

 警察が物を持って行くには家人の同意がいる。問われなかったのは、容器がなかったとの意味になる。安堵して思わず大きく息を吐いていた。


「死因は何ですか?」

 二階の事務室にいた良美に訊いてみた。

「わからない……俊子さんが今朝みた時は、既に冷たくなっていたらしいの」

 英子がいないことに今になって気がついた。

「人見さんには知らせたのですか」

「さっき電話をした。東北に旅行をしているらしいの。よかったわ……今駆けつけられてもおかしく騒がれるだけだし……」

 確かに想像しただけでも鬱陶しくなる。

「兼平さんは昨日ミキと一緒ではなかったのですか?」

 良美の瞳が激しく揺れ動いた。

「昨日、わたしは用があってここにいなかったの」

 変だ。誰かとやましいことでもしていたのか。今更嫉妬しても仕方がないと思いつつも気になる。

「そうですか。では」

 良美への未練が欲情に復活しそうになるので長居はしたくない。帰ろうとすると良美が「ちょっと待って」といいながら見覚えのある封筒を渡してきた。

「辞表と離婚届は返しておくわ。まだ事務員の募集をしていないの。しばらくは事務整理を手伝って頂戴。それにミキの葬儀の準備もある。あなたが喪主よ」

 良美が視線を合わせてきた。

 瞳孔に咎めるような鋭い光りを感じ、思わずたじろいでいた。


 南から連絡が来たのは水曜日の朝だった。

 南は解剖の結果を告げてきた。ミキの死因は心筋梗塞だった。低血糖症ではなかったので胸をなで下ろした。

 続けて南は、ミキが死亡した当日の居場所を訊ねてきた。自宅にいたが証明する人はいないと正直に告げた。南はインターフォンの記録で訪れていないことは知っているが、念のために、遺体を引取りに来た際にスマホを調べいいかと訊いてきた。

 GPSの記録とウェブの検索履歴を調べるためだ。低血糖症については検索をしていない。うろ覚えの医学知識でミキの死を想定したことが結果オーライとなった。

 かまわないと答えた。


 ミキの葬儀は金曜日に行った。

 参列者は麻衣を除いた結婚披露宴に招待したメンバーだった。

 親族席に英子と二人で並んで座っていた。不思議なことに英子から威圧感が漂ってこない。その英子が力のこもらない声で話しかけてきた。

「父親がケチだったのよ。お金があるのに親戚づきあいをしなかったから、自分達の葬儀もこんなもんだったわ」

「そうだったのですか」

 守銭奴は人の絆が限定される。よくわかる。

「車も動けばいいからと中古の軽四輪。大型トラックと正面衝突……酷かったみたい」

 場面を想像したくはない。ミキが高級車を買った理由がわかった。

「あの写真。女子大の卒業式で撮ったの……今みたいに太ってなかったから可愛いでしょう。母親が料理上手だったので、自分も将来は栄養士になるって……」

 祭壇の遺影は英子が手配した。眉毛が濃い丸顔。お世辞にも可愛いとはいえないが、普通の太め女性に見える。ミキが栄養士を目指していた。ミキの食に関する蘊蓄には背景があったのだ。妻のことを全く知らない夫だった。

「食べ物に拘ってから太りだして、同級生にからかわれて大食いコンテストに出たのよ。優勝したのが悪かったわ」

「え、どうしてですか?」

 賞金はあたったはずだ。

「あの女狐がミキの遺産に目をつけて、芸能界に引きずり込んだのよ」

 良美には聞こえていないらしいが、女性の同士の愛ですとはさすがにいいづらい。

「三年前よ。売れるためには会社を作ったほうがいいとかいって、ミキの全財産を出資させた。それから二億円もかけて実家を改修し、取材とかの名目で海外旅行や高級レストランに連れて行き、どんどん食べさせた。当然太るわよ」

 英子は俊子に監視させていたのだ。だが、良美がミキを太らせていた理由がわからない。

「太ったら今度は痩せなさいと、怪しげなやせ薬をのませていた……」

 思いだした。ピルケースにあった青いソフトカプセルは何年か前に問題になった中国製の痩身薬だ。副作用で死亡者がでた。良美は知っていてミキに勧めていたのか。

「あの女はミキを薬漬けにして早死にさせようとしていたのよ」

 一瞬、息を止めていた。英子はアンコールトムでの出来事を聞いているのかもしれない。内心で焦った。

「わたしは……」

 英子が眉をひそめたので、恐くなって口を閉じた。

「あなたもグルだとは思っていないわ。俊子さんに監視させていたし、念書をもらった時にわかったわ。エロ狐に誑かされて、話題づくりに使われただけのアホ狸ね」

 英子の目は無駄に飛び出ているのではない。夫に逃げられたことで、人間を識別する能力がついたのだ。見直していた。しかし、評価は低いともわかった。

 

 読経を終えた僧侶が立ち上がり、黒いパンツスーツの女性司会が一礼をする。

「では、ご親族からご焼香をお願いします」

 小里努様と告げられたが、しばらくは立てなかった。英子に小突かれてミキの夫だったことを思いだした。

 祭壇の前で一礼し、抹香を抓み、香炉に落とす。目をつむり項垂れて合掌した。顔をあげてミキの写真をみた。無理に笑うぎこちなさを感じた。ミキには近所のスーパーで買ったほうが安いのに、送料をかけて野菜を送ってくる母親がいなかった。

 十億円の遺産があっても喪失感は癒えない。だから喰いまくった。グルコースとアルコールの依存症。体重は加速度的に増加し、高脂血症、肝機能障害などの生活習慣病を発症。あの体重なら歩くことも辛かったはずだ。そんな哀れなミキの死を願った。今思えば酷いことをした。勝手な想像をして感情が失禁した。席に戻った時、涙腺が緩み、泣いていた。焼香を終えて悔やみを告げにきた尾崎が首を捻った。

「許せない!」

 突然、隣の英子が叫び声をあげた。立ち上がった英子が一般参列者席にいる良美に詰め寄っていく。

 制止を試みた女性の会場係を英子が突き飛ばす。怒号と悲鳴が充満する中、英子が逃げ出そうとした良美に追いつき、喪服の襟を掴んだ。駆けつけた警備員が英子を羽交い締めにし、会場の外へ連れ出した。

 喧噪が収まり、再開された焼香を終えた前田が、数珠を振りながら耳元で囁く。

「オカちゃんの逆玉。究極の成功だね」

「はい。お陰様で」

 つい、本音をいってしまった。

「怪我人が出ないと今の騒動を記事に出来ない。極めて残念」

 前田が聞こえるように呟き、参列者席に戻っていった。

 結果的に十億円の資産が手に入った。英子は法定相続人ではない。ミキは病気で死んだ。夢を実現できずに死んだミキには申し分けないが、二億円を貯める願望は、他力に依拠するというアンフェアな成り行きで実現した。でも、歓びはない。うしろめたさだけを感じていた。


 ミキの葬儀から三日を経過した日の午後だった。

 佐野企画の事務室で資産台帳を調べていた。みていくうちに暗澹たる気分になった。佐野企画の資産は十億円もなかった。それどころか会社所有のアパートのサブリース契約が終了、賃貸収入で管理費用を賄えず、五年間も連続赤字だった。ミキは不足した運転資金を銀行からの短期借入金で調達していた。負債は元本だけでも三億円を超えており、社屋を含めた不動産の全てが抵当に入っていた。過去の支出を調べていくと使途不明金が五千万円以上もあり、資産を負債と相殺すると、残余額は二億円二千万円程度しかないとわかった。資金調達なら川越の土地などの上物がない不動産の処分で十分な額を確保できたのに、金利が安いからと銀行が勧めるまま借金を重ねた。ミキは経営の知識に疎い典型的な世襲富裕層だった。

 ただ、現時点で佐野企画を清算し、債務を返還すると、二億円の蓄財目標を達成して、さらに一億円を得たことになる。

 ふと、考えて見た。では、これからどうする。

 遊んで暮らすという漠然とした計画だったが、失業をしてわかった。働いていないと時間の経過が無駄に感じ、落ち着かない。さらに、高齢者でもないのに昼間から街を彷徨いていれば、不審者扱いされる。時間を潰すとなれば、労働を継続するしかないので、生活のために蓄財を取り崩す必要はない。

 海外旅行をする。

 だが、旅行会社にいたのでわかるが、観光地は何処も画像や映像で見るほど綺麗ではない。天候が悪ければ日程は変更され、室内行事が多くなり気が滅入る。加えて観光が主要産業な国は治安や衛生環境が悪く、強盗や窃盗、感染などを常に警戒しなければならない。さらには多くの土産物はまがい物で、現地で提供されるスイーツや料理は日本で食べるほど美味しくはない。つまり、海外旅行とは無駄使いの骨頂としか思えず、とてもする気にはなれない。

 都心の高級マンションに住み、高級車を乗り回す。

 消費税のほかに固定資産税、修繕積立金、管理費、駐車場料金、自動車取得税、重量税、軽油取引税、点検整備費、保険料などで年間一千万円以上が必要となる。たかが居住と移動に多額な支出をする気にはとうていれない。

 株や外国為替のデイトレに資金を投入する。

 損をすれば、せっかく蓄財した資金が目減りする。利益が上がれば蓄財を続けていることになる。何よりも労働よりも精神的なストレスになる。

 どう考えても使い道が思いつかなかった。

 

 三階の片付けを終えた俊子が事務室に入ってきた。

「お世話になりました。今日で辞めさせていただきます」

 俊子が深々と頭を下げてきた。

 髪を染め直したのか生え際までが栗色で輝きがある。

「米倉さん。もう少しいていただけませんか?」

 資産を処分するまでは俊子を引き留めねばならない。俊子は夫を亡くして五年と聞いていた。遺族年金だけでの生活は楽ではない。応じてくれると思っていた。

 俊子がみつめてきた。考えて見れば、間近で俊子の顔を見るのは初めてだ。結構肌に張りがあると気づいた。

「岡本さんが、ここにお住まいになるのですか?」

「いいえ、今のところわたしは社員ですので、暫くは通います。空き家にはできないので、管理をお願いしたいのです」

 俊子は俯き加減になって黙り込んだ。欲情を表明し、返事が来るときまでの緊張感。どこまでも思考が女好き。

 俊子が意を決したように口を開いた。

「岡本さんが社長さんになってここに住まれるのなら、わたしも仕事を続けさせていただきますが、良美さんが社長さんになるのでしたら辞めさせていただきます」

 ミキがなくなったので、俊子は英子から頼まれた良美を監視する役割を終えたと考えているようだ。俊子は良美が嫌いなのはわかっていた。

「誰が会社の代表になるかはまだ決めていません。兼平さんや人見さんとも相談する必要があるので……」

「良美さんはとんでもないヒトです!」

 突然、俊子の声が大きくなった。

「岡本さんは知らないでしょうが、良美さんはミキさんを裏切って別の女性と交際していたのです。先々週の金曜日の午後に関東テレビの今村という人が訪ねてきて、ミキさんに良美さんはブスが嫌いだけど、ATMだから仕方なく抱かれている……オンナ同士で痴話げんか……なんていやらしい」

 良美は香桜里とも関係した。玲子の恋人を奪ったのだ。良美の虜になった香桜里が恋敵のミキを罵倒する。さながら一昔前の韓ドラのシーン。観ても面白くはない。

「それからミキさんが怒りだして、そのオンナの人と良美さんに出て行けと……それからは寝室に閉じこもりで、お酒を飲み続けて、食事もとっていなかったのです」

 良美に裏切られて自棄になったミキは、食事を取らずに酒を飲み続けた。それで心筋梗塞の起こしたのかもしれない。

「兼平さんは辞めると思います。米倉さんも考え直して下さい。それから今の話は人見さんには内緒にしてください」

 良美が香桜里と親密になったのなら、新たに会社を立ち上げればいい。赤字続きの佐野企画を清算することに同意をするはずだ。渡りに船だ。

「はい。そういうことでしたら……でも、岡本さんはどうなさるつもりですか?」

 今の段階で俊子に佐野企画を清算するとはいえない。

「今は何も……とりあえずはいろいろと整理をしなければと思っています」

 俊子が一旦は開きかけた唇を閉じた。


 俊子が帰ってまもなく良美が事務室に入ってきた。

 ソファに座った良美が手招きをしてきた。向かいに座る。薄地のシャツの襟から胸の谷間がみえ、視線の移動が辛くなる。

「あの関東テレビの受付にいた女の子を覚えている?」

 危うく俊子から聞いたと口にするところだった。

「はい。確か今村さんですね」

 胸が平坦な女性ですねとはつけ加えない。

「そう、今村香桜里。彼女をウチに入れて女子アナとして売り出そうと思うの。今、尾崎さんと関ラジのCMに出演させる話を進めているの……香桜里の父親は、大手広告代理店の重役。コネで仕事が回ってくるから売れるわ。あなたは香桜里を使って動画を制作する企画を考えて頂戴……」

 なるほど良美は香桜里を雇おうとした。だからミキは怒り狂ったのだ。しかし、何故良美は騒動になるのをわかっていながら香桜里を呼びつけたのだろう。

「わたしは用済みではなかったのですか?」

 良美は顔を強ばらせた。ミキとの睦言を聞かれたことに気づいたようだ。

「あら、いやーね。覗きは高いわよ」

 良美が上目づかいに見つめてくる。凄い媚態。

「あやうく犯罪者にされそうになりました」 

「ああ、あれは、ミキをなだめるためだったの。中井にも大麻は持って行かないでねとクギを刺しておいたのよ」

 感心していた。良美は嘘を思いつくのが上手くて早い。政治家か小説家になれる。

「では、取締役の一人として言わせていただきますが、佐野企画は芸能事業から撤退すべきです。あなたが裏金を支払ってミキの出演契約を取っても、それに見合ったギャランティーは得ていません。今村さんも同じでしょう。女性の同性愛者を芸能界で輝かせたいとのあなたの思い入れはわかりますが、タレントの養成に投資効果はないと思います」

 一気にぶちまけてみた。

 良美は口元を歪めた。笑ったのだ。何処かが的外れな指摘だったようだ。

「同性愛者を輝かせる……わたしにそんな高尚な思い入れはないわ。わたしとってのセックスは、人と繋がるための手段。出し惜しみしないだけのこと。元々オンナはオンナ同士でも感じ合えるものなのよ」

 唖然として言葉が出ない。でも、どこかで納得している。

「わたしの生き甲斐は金儲け……三百万円の慰謝料でビビルあなたにはわからないだろうけど、一億円を使ってもメジャーなタレントを売り出せば十億円は稼げるのよ」

 つまりは良美も守銭奴。但し、自助努力ではなく、ミキの資産を使って上前をかすめとる手法。

「それならミキを同性愛者であるとカミングアウトさせれば話題になったはずです。わざわざわたしを雇って入籍までさせる必要はなかったでしょう」

 良美はまた少し歯を見せた。

「まだ、わかっていないのね。今時は巨体や同性愛では飾りにもならないの……というか、才能とか個性もなくてもいいのよ。制作担当者に裏金を配って番組に起用してもらい、出演回数が増えれば知名度が上がる。売れなかったとしても香桜里にはコネがあるからテレビショピングに起用して貰える。中年になったら身体で稼いでもらえばいい。ミキは無理だけど、香桜里なら医者か政治家だったら一晩百万円は出すわ」

 良美の思考は倫理の欠如。でも、芸能界ではあたりまえなのかもしれない。

「あなたの目的がお金なら、売り出すタレントはミキでなくても良かったのですね。ミキに会社をつくらせたのは、あなたが好きなように裏金を使うためで、あのマンションの購入費も会社の資金を流用したのでしょう」

「よく出来ました。正解です」

 良美が小さく拍手をした。完全に舐められている。

「で、わたしを雇った理由は何ですか?」

 相性が良かったなどという言葉を信じてはいけないと心で身構えてはみた。

「アレをしてみてわかった。失業中なのにオンナには不自由していない。で、三十歳にして独身。交際相手とはワケアリ。引っかけると不倫関係とわかった。スキャンダルのネタになると思ったのよ……」

 情けないことに気落ちしている。

「でも、ミキの夫としての役割は終えたはずです。何故、あなたは離婚届を市役所に出さなかったですか?」

「ああ、カンボジアから戻ってから、ミキがね。もう少し置いておこうよといいだしたのよ」

「ミキが……」

 殺そうとしたのに頼られていた。

「そう……あ、でも、勘違いしないでね。あなたはカネの勘定に長けているから、使えると思ったからじゃない」

 ひょっとするとミキは、佐野企画の財務状態を案じて、良美の不正支出をけん制するつもりでいたのかもしれない。取締役であれば、良美にものがいえる。その解釈が最も納得できる。

 

 良美がスマホでメールを打ち始めた。授業中なら内申書に態度不良と書かれる。

「それなら、わたしはミキに感謝をしなければ……おかげで遺産を相続することができました。以後は、わたしが佐野企画の代表権を有する取締役になるのですね」

 メールを送信し終えた良美が視線を合わせてきた。カナトカゲがバッタに迫る鋭い目つき。思わずたじろぐ。

「それはだめよ。あくまであなたにはわたしの部下……これを覚えているわね?」

 良美がハンドバッグから取り出したプラスチック容器をみて、尿意がないのに失禁しそうになった。

「この容器に入っていたのはミネラルウォーター。低血糖の発作には効かない。舐めて甘くなかったので、カンボジアから持ち帰った容器を食品研究所に分析してもらったの。中味をすり替えたのはわたしがミキの寝室にいたあの夜ね。わたしがこの容器を警察に届ければあなたは逮捕される。わたしに従うしかないのよ」

 やはり良美は見抜いていた。だが、ここで怯んではいけない。

「でも、アンコールトムでミキは死ななかった。今回の死因も心筋梗塞です。わたしはなんの咎めも受けませんよ」

 良美が目を細めながら少しだけ唇を開いた。おそらくこれは嘲りの表情。

「そうだったの……では、ミキが死んだ日の朝、居間のテーブルにあった容器を捨てる必要はなかったのね」

 しばらくは意味がわからなかったので、口を半開きにしたまま考えていた。解答が得られた直後、ゾンビの頭から血が噴き出るシーンをみた時の気分に陥った。

「まさか……あなたも容器の中味をすり替えたのですか?」

 良美はわざとらしく首を傾げた。

「さあ、どうかしら……でも、アンコールトムでミキに低血糖症の発作が起き、ブドウ糖液を飲んだ。でも、中味がミネラルウォーターなので治まらなかった。一連の出来事は中井も証言する。あなたは殺人未遂の疑いで逮捕される」

 良美が得意とする多段論法だが、よく理解できた。

「殺そうとしたのはあなたも同じでしょう!」

 思わず叫んではみたが、声は小さかった。

 良美が唇をすぼめて視線を逸らせる。万引が露見して、認知症だと開き直るおばあさんと同じ。

「わたしがしたことをミキに告げなかったのは、あなたも真似をするつもりだったからですね」

 良美は口元を歪めた。アンコールトムでみたあの謎めいた微笑みだった。

「真似をしたのはあなたよ。でもね、中味をすり替えるのならミキに気づかれないように、人工甘味料を加えて甘くしないとダメなのよ」

 つまり、良美は以前から容器の中味を替えていたということだ。

 考えを及ばせていくと、シベリアの荒野で裸になったような寒気を感じてくる。

「あなたがただのスケベ兄ちゃんじゃないってわかり、見直したのよ。でも、途中で怖じ気づいたのでがっかり……あ、わたしいまコクってはみたけど証拠はないわよ」

 良美が両手で顎を支え、頭を左右に揺らす。余裕に満ちあふれた態度だ。確かに井目を置いてもかなわない。

「わたしはどうすればいいのですか」

 良美が容器をバックに入れて脚を組みかえた。タイトスカートのスリットが割れ、薄い黒地のパンストに包まれた太股が露わになった。つい視線が惹き付けられる。

「わかっていただけたのね。あなたはこれからもわたしに従ってくれればいいだけのこと……これからも頑張ってね」

 佐野企画は芸能事業を継続する。資産を処分できない以上、二億円の蓄財は実現しない。それどころか良美がミキの遺産を食い潰すのをただ眺めていなければならない。暗澹たる気分になりながらも、良美の膝をみている。その良美はまたスマホでメールを打ち始めた。送信を終えた良美が満足そうに微笑む。


「さて、話がついたところで手打ちの儀式をしましょう……しばらくしていなかったから、あなた溜まったでしょう」

 何でもないことのように言い放った良美が、ソファに仰臥し、スカートをたくし上げる。太股が完全に露出した。

 恥じらいを捨てると誰でも淫靡にみえる。選ばれた訳ではない。ミキ、前田、玲子、中井、香桜里など不特定多数の一人にすぎないのだ。わかってはいるが、性機能は反応してくる。

「ここで……ですか」

 理性が欲情に圧倒されている。

「ここは売るわ。互いに寝覚めが悪いし……最後に強烈なメモリーを作るのよ」

 良美がパンストを押し下げ、膝を曲げて脚から抜いた。

 この時点で抑制機能が完全に崩壊した。立ち上がってベルトを外した時、突然ドアが開いた音がした。

「やめろ!」

 振り向くと両手でナイフを握りしめた中井が突進してくるのがみえた。逃げようとしたが肩を掴まれしまった。

「チクリ野郎。死ね!」

 腹部に衝撃と鋭い痛みを感じ、息が止まった。ナイフを引き抜いた中井が、ぎらついた眼差しを向けている。

「何故……こんなことを……」

 苦しくなり途中で声が出なくなった。

「ヨッちゃん……大丈夫かい?」

 中井が良美に意味不明な問いかけをしている。

「ありがと……ヒロちゃん。早く逃げて、メールは消してね」

 嬌声を発して中井が走り出て行った。

 膝をついていた。シャツの下が血で染まっていく。大動脈が折損した可能性がある。直ちに縫合止血をしないと出血多量で死に至る。仰向けになり、両手で脇腹を圧迫する。指先に滑りを感じた。止血の効果はない。ひどく痛い。息も苦しい。

 しゃがみ込んできた良美が耳元で囁いた。

「保釈された中井が訪ねてきたの……あなたが大麻の所持を税関に通報したといったの……実のところはわたしだけど……さっきもね。あなたに仕返しをしても、強姦されかけていたわたしを助けたといえば、無罪になるとのメールを送信したの……バカだから信じたみたい」

 大麻が認知機能を低下させたのか、中井は愚かな上に凶暴にもなったらしい。

「救急車を呼んであげる。でも、あなたが死んでからね。あなたが従うといったので、ちょっとは迷ったのよ。でも、中井が纏わり付いてくるの……エッチは下手なくせに煩わしいったありやしない。で、大麻所持だとせいぜい執行猶予じゃない。確実に刑務所に送るとなれば、あなたに犠牲になってもらうしかないと……」

 死亡すると佐野企画の資産はすべて良美のものとなる。遅かれ早かれ殺す気でいたから同じく用済みの中井に始末させる。一挙両得というか一石二鳥。負けてばかりだ。

「あなたとのエッチはとっても良かったのよ……残念だわ」

 辺りが暗くなる、妖しく蠢く良美の唇しかみえない。出血性ショックが出現したのだ。女性の悲鳴が聞こえた気がした。覚えているのはそこまでだった。


     7


 病室に南が入ってきたのがみえた。

 ベッドの手すりに手をかけ、起き上がろうとした。

 南は「いや、そのままで」といって断りもせずに横の椅子に座った。

「どうですか? 具合は」

 上体だけを起こしていると、点滴パックをみながら南が訊いてきた。

「お陰様でよくなりました。でも、まだ傷が時々痛みます」

 鎮痛剤を打たれているのでそれほどは痛まない。麻酔から覚めた時、医師に誰に刺されたかを訊ねられ、中井の名を告げた。それで終わるはずがないと思っていた。南が訪れた用件は察しがつく。長話はしたくないので嘘をいった。

「そうでしょうね。ICUから出てまだ二日目だそうで……あと一センチほど刃が奧に届いていれば大動脈に達したらしいです。それでなくても出血が酷くて、家政婦さんが救急車を呼ばなければ、危ないところだったそうですね」

 意識を失いかけていたからわからないが、辞職の意思を再び告げに戻った俊子が惨事に遭遇した。良美は俊子に救急車を呼んだが、まだ来ないと答えたらしい。狼狽していない良美の態度に不審を抱いた俊子が一一九番通報をした。昨日、病室を訪れてきた俊子から聞かされた。

「中井は一昨日再逮捕されました。本人はあなたが兼平良美を強制性交しようとしていたので、助けようとしたと……」

「わたしは強姦など……」

 欲情はしていたと告白すべきか迷っていると、南が続けて語り出した。

「わたしの同僚が中井のスマホを調べてみました。削除メールを復活してみると、兼平良美からの玄関ドアを解錠する暗証番号を受診したメールがありました。それで昨日、兼平良美に出頭を求めて訊いたそうです。よくそんな余裕がありましたねと……すると、兼平良美は、あなたが性交を迫ってくると思っていたので、身の危険を感じ、玄関前に中井を待機させていたと答えたそうです」

 舌を巻いていた。良美は不利な状況をも想定して言い訳を用意している。

「それは嘘です」

 だが、半分は本当だ。

 南は二度も頷いた。

「話が出来すぎです。中井に、あなたに危害を加えても無罪になるとかのメール送っていながら、被害者だと言い張っています」

 良美はスマホを捨てろと中井に指示すべきだった。

「では、わたしは怪我が治れば、強姦未遂で逮捕されるということですか?」

 南は視線を上に放ち腕を組んだ。答えるべきかを迷っている仕草にみえる。

「どうですかね……関係者から話を聞くと、兼平良美の交遊関係は度が過ぎていますね。あなたが中井に刺された前夜は、関東ラジオ局に勤務する男性が、兼平良美のマンションを訪れていたらしいですし、関東テレビも経費の使い込みや上司との不倫が発覚したので辞めたようですよ」

 確かに良美は尾崎と話したといっていた。何をしていたかの想像はつく。良美の性癖に限度はない。関東テレビの上司とは玲子だ。玲子に夫がいたのは驚いた。

「ですから兼平良美が被害届けを出したとしても、いきなり逮捕されることはないと思います。ただ、本人は殺人教唆を認めてはいません。救急車もパニックになったので、呼ぶのを忘れていたと否定しています。あなたの奥さんの死亡に立ち会った時には、とても落ち着いていたのにちぐはぐですよね」

 南が視線を合わせてきた。同意を求めているとわかったが黙っていた。

「ああ、そういえば一昨日、人見さんという女性が署を訪れてきて、兼平良美が奥さんを毒殺したと訴えてきました」

 一瞬、息を吸うのを忘れていた。

「兼平さんがミキに毒を……」

「はい。人見さんは、兼平良美が奥さんの薬を青酸カリか覚せい剤にすり替えたのだと……解剖で心筋梗塞が原因と判明しているといっても、聞く耳をもたないのでホントに弱りました」

 良美が疑われている。呼吸が楽になってきた。

「人見さんが主張したのは、未必の故意の犯罪です……岡本さんはご存じですか?」

 心拍数が六十から九十に急上昇した。バイタルモニターは南の視界にないので気づかれてはいない。

「よくは知りません」

 南が視線を上に放ち、やや間を置いてから語り出した。

「警察官の昇任試験ではよく出題されるのです。要は必ずしも発生するわけではないが、発生を期待する行為です。重症患者が服用している薬を偽薬に替えておく。服用しても効果がないので、死に至らしめることができるという手法です」

 喉が渇いて痰が絡む。疑われているのは良美だ。落ち着けと心に言い聞かせる。

「か……兼平さんがそれを……」

 やっとのことで声を出せた。南が軽く頷いた。

「奥さんの直接の死因は心筋梗塞ですが、肺高血圧症で動脈に血栓ができたのが原因とのことです。奥さんはこれまで息苦しさを訴えたり、意識を失ったりすることはなかったですか?」

「はい。結婚披露宴で倒れたことが……」

 カンボジアでも同じ事が起きたとは言わなかった。

 南が「やはり」と小さく呟き、続けて語り出した。

「奥さんが服用していた痩身薬は甲状腺ホルモン剤で、肝臓や肺の血管に影響があるらしく、大量に服用すると危険なのだそうです。以前に死者が出て社会問題になった時、被害者の一人が女優志望者で、関東テレビのオーデションを受けていました。兼平良美が審査をしています。兼平良美は危険性を熟知していたはずですが、人見さんの話では、奥さんに積極的に服用を勧めていたらしいですね」

 思わず声上げるところだった。ミキの発作は低血糖症ではなく痩身薬の副作用だったのだ。良美はミキの発作が起きた都度、低血糖の発作と思いこませて、ソフトカプセルの痩身薬を人工甘味料で偽装し、飲ませていたのだ。

「あのピルケースにあった青いカプセルのことですか?」

 知らないふりをして確認してみた。

 南は頷いた。

「あなたは詳しくは知らないと……当然です。結婚して間もないし、別居をしていた。でも、家政婦さんから聴いたところでは、週末にいつも奥さんと一緒だった兼平良美が、あの夜に限って関東テレビの若い元同僚女性と自宅にいたのです。まるで発作を予想していたように思えますよね」

 保護者義務違反を逃れるためだ。良美は香桜里を呼びつけミキを愚弄させる。良美は意地になったミキが、痩身薬を多量に服用すると予見していた。息苦しさを覚えたミキが低血糖の発作と思い、冷蔵庫にあった容器の液体を飲む。だが、中味は痩身薬だから相乗効果となり、心筋梗塞を誘発したのだ。

「では、兼平さんが妻を殺したのですか?」

 結論をぶつけてみると南は首を振った。

「自供がないと無理です。物的証拠がありません」

 一瞬、目眩を感じた。容疑者は異なるが、手口が同じの物的証拠がある。良美がカンボジアから持ち帰った容器だ。発生はしなかったが殺意の証明になる。

 だが、良美は容器を警察に提出してはいない。わかりかけてきた。良美は暗に取引を持ちかけているのだ。

 黙ったままでいると南が口を開いた。

「今のところ、中井の傷害と殺人未遂は間違いなく成立するのですが、兼平良美の殺人教唆の証拠となるのは、中井宛のメールだけです。あなたは経理に詳しいからご存じでしょうが、わたしも経済犯罪を扱います。あなたが死ねば兼平良美が資産十億円の佐野企画を受け継ぐ。兼平良美が中井を唆し、あなたを殺害しようとする動機です」

 南は英子の主張にも根拠があると考えたのだ。良美を殺人教唆で逮捕し、ミキの殺害を自供させるつもりらしい。 

「それで、あなたが中井に襲われるまえまでの兼平良美とのやりとりを、わたしの同僚が知りたがっているのです。教えていただけませんか?」

 南の質問が核心に迫ってきた。事実を告げれば、良美は殺人教唆で逮捕される。だが、良美はあの容器を提出してアンコールトムでの出来事を供述する。中井の悪意が籠もった証言で殺人未遂で取調を受けることになる。

「佐野企画の決算書を調べてもらえばわかるのですが、わたしは兼平さんに、佐野企画は赤字続きで、経営を立て直す自信がないので役員を辞任したいと申し出たのです。ですから兼平さんが中井にわたしの殺害を依頼するとは思えません」

 ミキの遺産を放棄すれば、疑われることはない。罪悪感に苛まれることもなくなる。

 南が視線をあててきた。猫じゃらしの動きを見極めようとする三毛猫の眼差し。数秒の間があり、南が軽く頷いた。

「なるほど……わかりました。ところで岡本さんはこれからどうなさるのですか?」

 南が話題を変えてきた。碧から聞いたことがある。容疑者の気を緩ませて言動の矛盾を突く尋問の手法かもしれない。警戒心は解かないほうがよさそうだ。

「傷が治れば東京を出ようと考えています」

「長野に戻られるということですか?」

 南が出身地を知っている。身元を調査されていた。当然、両親にも知られた。ミキと入籍をした経緯を説明するのが面倒だ。何よりも目の前で母親に嘆かれると辛い。痛みで朦朧としているふりをしていよう。

「いいえ、茨城あたりで暮らそうかと……」

 真澄から紹介された茨城県の町役場が募集している臨時職員の採用試験が二週間後にある。受けてみる気でいた。

 ようやく南の頬がほころんだ。

「羨ましい……悠々自適の人生ですね」

 資産も調べられている。窮迫していれば容疑者だった。

「そうはなりません。それほどの余裕はないです」

 作った苦笑いを返してみる。

「そうですか……まあ、人生お金がすべてではありません。死んだら使えませんよ」

 お大事にとつけ加えた南が病室を去ってから考えていた。

 南と同じことを初体験の人妻が示唆した。金銭に執着するなとの意味だ。だが、自助努力での蓄財は本来的には人畜無害だったはずだ。享楽に溺れることもなく、好みの女性との出会いもあり、囲碁も上達した。何より失業しても狼狽えずに済んだ。しかし、いつのまにか金を貯める意義を見失っていた。理由はわかる。吝嗇を続けて支出に恐怖心を抱くに至ったからだ。三百万円の支出を惜しみ、良美の奸計に填まり、殺されかけた。蓄財が全てに優先する生き方は間違いだったのかもしれない。

 

 サイドテーブルに置いていたスマホが振動した。長野の母親からだと思い、メールアプリを開いた。

(具合はどう?)

 愕然となる。良美からのメールだった。殺害しようとした相手に堂々と容態を訊ねてくる。底がない良美の悪辣さには、驚きを超え、畏敬の念さえをも覚えてくる。

(大夫よくなりました)

 お陰で死にかけていると返すべきだったかもしれない。

(良かった。これから飲み物を持って見舞いに行きます)

 良美は例の容器を持参し、殺人未遂や強制性交を訴えない代わりにミキの遺産の相続放棄を求めてくるのだ。また得意の扇情的な仕草で、中井が刺すとは思わなかったとかの言い訳もつけ加えてくるはずだ。あの卑猥さ剥き出しで迫られると抗するのは辛いが、命と引き換えにはできない。目を閉じてでも耐えねばならない。

 それにしても良美は何故これほど傍若無人に振る舞えるのだ。何処が違うのだ。

 蓄財が生き甲斐という点では同じだ。だが、良美の場合は自助努力ではなく、他人の資産に依拠する収奪である。しかも手段に縛りや拘りがない。慕う相手でも金のためなら平然と殺害する度胸と冷酷さを備えている。つまり、良美こそが完璧な守銭奴なのだ。

(お気遣いありがとうございます)

 返信をした。良美の要求を飲んだふりでミキの遺産相続を放棄する。だが、死ぬほど痛い思いをした分は見返りを求めることした。

 狡猾ではあるが、金銭に関して大雑把な良美は、佐野企画の財務状況を把握していない。退職金として一億万円を求める。良美が渋れば、南から聞いた痩身薬と心筋梗塞の関連をさりげなく持ち出す。ミキを殺害した手口を知っていると仄めかせば、全額ではないにしろ良美は応じてくるはずだ。


 陳列棚で商品を並べ終えた時だった。

 窓から見覚えのある黒のミニバンが駐車場に入ってきたのがみえた。運転席からサングラスをかけた良美が降りて、自動ドアに向かってきた。紺地に水玉模様のワンピースを着ている。腰のあたりは相変わらず見事に縊れている。

「いらっしゃいませ」

 ドアから入ってきた良美に声をかける。

 サングラスを外した良美が近づいてくる。

「お金持ちなのにまだコンビニでバイトをしているの?」

 良美お言い回しに驚いたのか、レジにいたオーナーの奥さんが目を丸めた。

「ええ、貧乏性なので、働いてないと落ち着かないのです」

 良美がやや口元を歪める。

「少し、話せるかしら……」

 オーナーの奥さんをみる。軽く頷いたので、コーヒーカウンターに向かう。

「一昨日はミキの四十九日だったので、お墓に行き、人見さんとお会いしました」

「そう、わたしは用事があって……」

 資金繰りだろうと想像はつく。

 良美に自動マシンから抽出したコーヒーカップを手渡す。

「熱いので、気をつけてください」

「ありがとう」

 受け取った良美が上目遣いに視線を放ってくる。媚のある眼差しも変わらない。

「この間、香桜里さんのラジオ放送聞きましたが、軽快でいい感じですね」

 自分の分を抽出しながら良美に話しかけてみた。

 良美はコーヒーカップを手にしたまま答えてきた。

「アナウンサー養成校で習っていたから上手なのよ。ただ、香桜里だけじゃあ稼ぎが少なくて……事務所を移転してないし、まだ、事務員も雇えない。俊子さんに辞めてもらっても、毎月赤字なのよ」

 佐野企画に税務調査が入り、多額の追徴税を課せられたことは、英子から聞いて知っていた。追加の担保物権もなく、不正経理を続けてきた佐野企画は、銀行の融資を受けられない。良美が、八千万円に値切られた退職金の返還を求めてくるのは予想していた。税務署に通報した本人だからだ。

「戻ってくれる気はないかしら……」

 内心で安堵していた。いきなり退職金を返せと言うはずがない。やり直そうとか切り出してくるとの予想の範囲内だったからだ。

 首を捻ってみる。

「やはり、芸能界はわたしでは無理で、ここでの田舎暮らしがあっているみたいです」

「誰かいいヒトができたの?」

 この切り返しも想定内。

「いいえ、そういったわけでは……」

「わたしのこと、怒っているの?」

 来たぞ。声が甘だるくなってきた。

「それはないです。兼平さん。一緒に仕事はできませんが、運転資金が必要なら融通しますので、頑張ってください」

「いいのかしら?」

 良美は歯を見せてきた。籠絡に成功して満足したとの顔だ。

 融通とは融資のことで、良美を担保扱いとする意味だ。見いだした金の使い道はゲスの金貸し。守銭奴になりきるのだ。

(了)



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