1 ミリアージュの日常
目を開けると、晴れ渡った空。川の水音がすぐ側で聞こえる。
木立に囲まれた野花の花畑の中で、少女は身を起こし背伸びをした。フリルのついた袖口から伸びる腕が、夏の日差しを受けて白く染まった。
「うーん……よく寝た」
起きたばかりの彼女は、柔らかなクリーム色の髪が濡れて頬に張りついているのに気づいて、そっと耳へとかける。
空の色を移しとったかのような青い目をした少女だった。彼女はいつも身につけている、黄色の花を模したペンダントを手の中に握りこんだ。
「なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする……あれは、お母様?」
幼い頃に亡くなった母の顔を思い浮かべようとしたが、上手くいかない。
今と同じように花が咲き乱れる情景の中、楽しそうに笑う口元だけが頭の中に浮かぶ。
教えてほしいの? いいわよ。じゃあ、ミリアがいつか恋をしたら……
「ミリアージュお嬢様! こんなところにいらしたんですか!!」
メイドの大声に、今まで思い描いていた回想はたちどころに消えてしまう。
振り向くと、ミリアの専属メイド、カーツァが大きな体を揺らしながらこちらにやってきていた。
「あーあ、見つかっちゃった」
「見つかっちゃったじゃありません! こんなに御髪を濡らして、また川に入ったんですか!?」
「ダメ? 泳ぎたかったの」
「ダメに決まってるじゃありませんか! 誰も見ていないところで溺れたらどうするのです! しかもまた屋外で着替えましたね、こんなお転婆娘だから婚約者の一人も決まらないんですよ!?」
ミリアはカーツァの小言に耳を塞いだ。カーツァが心底心配してミリアに注意しているのはわかるが、この物言いには辟易していた。
たまには羽目を外したっていいじゃない、だってこんなにいい天気なのに。
ミリアは空を見上げた。夏の盛りの空はどこまでも青かったが、長くなりはじめた山影が花畑の端にかかりはじめていた。
もうこんな時間なんだ、そりゃカーツァも心配するよね。そろそろ帰らなきゃ……
「わかったわかった、カーツァ。帰るよ」
「わかればよろしいのです。まったく、あなたになにかあれば私の首が飛ぶんですからね、自重してくださいませ」
「はあーい」
ミリアは肩を竦めた。ミリアは職務に忠実で自分に正直なこのメイドを嫌いではなかったが、苦手ではあった。
まあ、私は兄様達や姉様のように優秀じゃないんだから、このくらい口煩いお目付役が必要ってお父様に思われてるのかもね。
川裾の小道を少し歩くと、山と山の中央、川の河口に広がる水上都市から堂々と聳えたつ白亜の塔が見える。
あれは灯台であり、水上都市ドレンセオの象徴でもあり、ミリアの住む屋敷の一部でもあった。
*
「ふう、ひい、お嬢様……お待ちを!」
「これくらいの階段で情けないよ、カーツァ。昔はもうちょっと楽に登れてたじゃない」
「私の、歳を、考えてっ、くださいませ!」
ミリアは塔の中央あたりである四階に自室を構えていた。
高いところの方が景色もいいし、カーツァも頻繁にお小言を言いにこれないところが気に入っている。
でもカーツァがこんなに登るの大変なんだったら、あと一階分くらい下に引っ越そうかな。
ミリアはカーツァの目尻と口元の皺、荒い息を目の当たりにして、ちらりとそんなことを思う。
「ねえカーツァ。エスメラルダお姉様の結婚式まであと一ヶ月だよね? 結婚式が終わったら、部屋も空くだろうし下にお引越しする?」
「ぜひに! 切に、ご検討、くださいませ! はあっ!」
息を切らしたカーツァはなんとかミリアを部屋に送り届けて、ミリアの服を整えた後退出する。
いつも通りチクチク小言を言われたミリアは、やっぱり引越しするのはやめようと思った。
一人になった部屋の主は窓際の椅子に腰かけて、しんとした部屋で物思いにふける。
ついに姉様もここを出ていくのね、寂しくなるなあ。
姉様がお嫁に行けば次は私の番……私の結婚相手はどんな人なんだろう……
ミリアは幼い頃、将来キルフェスお兄様と結婚する! と言うくらいお兄ちゃん子だったので、実のところ恋をしたことがない。
まあ、問題ないよね。きっとお父様かお兄様が、私にピッタリな人を見つけてくれるでしょうし。
キルフェスとその妻が政略結婚にも関わらず仲睦まじい様子を見て、ミリアもなんとなく自分もそうなるだろうと根拠もなく信じていた。
……できれば、背が高くて、顔もかっこよくて優しそうで、頼りがいのある人だったらいいなあ。
ミリアは理想の人物を思い描いてみたけれど、今のところミリアの知りあいで条件に当てはまる人は思い当たらなかった。
その時、一筋の風が吹いてミリアの長い髪を揺らした。
窓も空いていないのに、どこから? 扉を見るが誰もいない。
「こんにちは、君がミリア?」
若い男の人の声がして、サッと振り返る。窓と反対側の壁を背にして、見たことのない人が立っていた。
金茶色の髪と若草色の瞳、柔和だが整った顔立ち。突然部屋の中に現れたのでなければ、好みの顔立ちだとときめいたかもしれない。
「だ、誰!?」
「俺はアルトリオ。淡い金髪と青い瞳の十七歳の少女……うん、君がミリアでいいんだよね? きっと驚いているだろうけど、もう時間がないから手短に説明するよ」
な、なにを!? ミリアは訳もわからずアルトリオを凝視したまま固まってしまう。
独特な織模様の入った高級そうな緑の服を着ていて、まるで異国人のよう。人の背丈ほどもある杖を携えていて、こんな風態の人をミリアは今まで見たことがなかった。
「もうすぐここは君にとって安全な土地じゃなくなる。早くここから離れるんだ」
「待って、どういうこと!? そもそもどうやってここに入ってきたの?」
「それは……」
ふと、アルトリオが扉の方を向く。
「誰か来たね」
「ミリア! ここを開けてちょうだい!」
「お姉様!」
ミリアは扉にすっとんでいき開け放つ。お姉様ならきっと、この不審者を追いだしてくれる!
「ミリア、大変よ! お父様とキルフェスお兄様が王都に連行されたわ!!」
「お姉様助けて! 変な人が部屋にいるの!!」
『え?』
お姉様の綺麗なエメラルドの瞳と目を見合わせて、お互いに手を握りあう。今、なんて言ったの?