90話「薄ら寒い猿芝居」
サリクスの顔の右半分には、赤黒い傷跡が刻まれていた。
それは、瞼を巻き込むようにして頬に掛けてまで奔り、予想通り左目は機能していないみたい。
傷跡が被さった瞼は固く閉ざされたままだ。唯一残った右目は、霧の立ち込める湖面のような淡い青を湛えている。
私が特に驚かないのは、何らかの傷跡が残っているであろうことを予測していたこと、そして何より、サリクスに対して何の愛着もないことに起因する。
とは言うものの、さすがに無反応というわけにもいかないだろう。
私は息を呑むと同時に、両手で口元を覆った。
「まぁ……殿下……」
慄きながら、やっとの思いで声を絞り出した私を、サリクスは冷淡とも取れる目で見つめている。
口元に浮かんだ笑みが、その視線の鋭さを一層のこと際立てる。
そのまま彼は、身に纏う衣服のボタンへと指を掛け、片手だけで器用に外していく。
いったい何が起きようとしているのか、と私は油断なくその様子を見守る。
サリクスが上着を脱ぐと、少女の一人がそれを受け取った。
室内に設置された明かりが、露わになったサリクスの上半身を照らす。
彼の身体は少女のようにか細く、血管が透けそうなほど白い肌は無機物を思わせた。
それ故に、その傷跡をより鮮明に際立たせている。
顔の左半分と同様に、赤黒い傷跡が彼の左半身にも奔っている。
薄い胸部から腰にかけて、そして二の腕にまで刻まれたそれは、おそらく下肢にも及ぶのだろう。
これらの傷跡が、彼の不自由な半身と無関係とは思えない。
「ああ、そんな、何てお労しいのでしょう」
私自身は、その傷跡を見たところで特に感想らしい感想は抱かなかったけれど、眉根を寄せて精一杯「貴方の痛み、私にはわかります」という表情を作ってみせる。
演技を続けながら、内心で引っ掛かるのは先ほどのサリクスの言葉だ。
彼は確か、先代ブラギルフィア王の裏切りに遭ったと話していた。
だとすると、この傷跡はエレフザードの父君によってもたらされたものということになる。
ブラギルフィア王は、ブラギルフィアを統べる国王にしてティエリウス王家の臣下。
ティエリウス王太子を害したとなれば、確かに大罪だ。
王位剥奪の上、次王であるエレフザード自らの手で処したというのも頷ける。
にしても、サリクスは先王の「罪」を私に知らしめて何をしようというのか。
二人の少女の正体を明かしてみせたり、私の動揺を誘っているようにも思える。
けれども、私は自分の父親を手に掛けなければいけなかった陛下の心中を思って胸を痛めることはあっても、サリクスが臣下に裏切られたことに対しては特に何も感じない。
彼の意図が今いち読めないものの、ずっと主導権を握られたままというのも癪で、私は本格的に反撃に出ることにした。
意識的に瞬きすることを止めると、自然と目に涙が浮かび始める。
私は嗚咽にも似た声と共に目を伏せ、それから僅かに顔を上げ、潤んだ瞳をサリクスへと向けた。
花の顔に憂えた表情を浮かべた美少女、その様は、さながら雨にそぼ濡れる白百合のような儚さと清廉さを湛えている。
こんな目で見つめられて、胸が高鳴らない男などこの世に存在するだろうか?
答えは否、である。
サリクスとて、例外ではない。
絶対に。
彼は私を見て、低く笑ってからこう言った。
「太々しさは母親譲りと見ましたが、どうやら演技力までは受け継がれなかったようだ」
「え……?」
「とんだ大根役者ですな、王女殿下」
……は?
大根役者?
この私が?
彼に対して見せた思いやりを「下手な演技」と決め付けられた私は、苛立ちを覚えつつも心底ショックを受けたように息を呑んで彼を見つめる。
……確かに演技とは言え、もっと他に言い様があるというものだ。
私が眉尻を下げ、心底悲しそうな表情を作っても、サリクスはこちらを小馬鹿にするような冷笑を浮かべるばかりだ。
「殿下、そんな……酷い……」
「……つまらんな」
サリクスは吐き捨てるように言って、少女の手から服をひったくると、それを無造作に身に纏った。釦を止めながら、冷ややかな眼差しで私を一瞥する。
「いい加減、その薄ら寒い猿芝居を止めてもらえませんかな」
こ、この男……!
私は思わず舌打ちした。
さほど大きな音でもなかったにも関わらず、サリクスは耳聡く拾い上げて嗤った。
「ようやく本心を見せていただいた、と受け取ってよろしいか?」
「……ええ、お好きにどうぞ」
私は投げ遣りに言って、ソファに座り直す。
そして、不機嫌さを隠そうともせずに、テーブルの上に並べられたサンドイッチの一つを手に取ると、乱暴に齧り付いた。
毒が混入されている心配は依然として残っているものの、既にそれなりの量を食べた後だ。
今更、控えたところで効き目に大差はないだろう。
それに、今のところ身体に何の変化も現れていないようだし、考えすぎだったかもしれない。
サリクスのほうをちらりと伺うと、彼はどこか満足そうに私を眺めている。
「『それ』を行ったのが、先代ブラギルフィア国王……エレフザード陛下の父君なのですか?」
私は半ば居直り気味に、気になっていたことを尋ねた。
陛下に詳細を聞くのは気が引けたけれど、この男ならもう気を遣う必要もない。
しおらしく心優しい少女として振る舞っても、それを演技だと決め付けるような男なのだから。
サリクスは、私からの問いに頷く。
「ええ、如何にも。あの男は、忠臣として師として完璧に振る舞っておりましたよ。当時、子供だった私はまんまと騙された。何年にも渡って騙され続けていた。あの男の手の者に毒を盛られるまで、ずっとね」
そう言って仮面の奥で目を細めるサリクスは、まるで懐かしい思い出話を語っているようにも見える。
これは私の想像に過ぎないけれど、おそらく彼は、先王のことを慕っていたのではないだろうか。
敬愛していた相手に裏切られ、命を奪われそうになるというのは、まぁ、控えめに言っても彼の人生に昏い影を落としたに違いない。
それでも、例え一時のこととは言え、心を許せる相手がいたなら良かったのではないか。
それに、私は先王のしたことが間違いだとは思わない。
何しろ、本来ならこの地を……ブラギルフィア諸侯連合を統べるべきはミストルト王家だ。
盟主の座を奪還するためにクーデターを起こせば、人的にも物的にも多大な損害が出るけれど、サリクス一人を暗殺するだけなら穏便な手段と言える。
先王がサリクス暗殺に失敗したことを、心から残念に思わずにはいられない。
暗殺計画が成功し、表沙汰になることがなければ陛下が自分の父を処す必要もなかったし、諸侯連合の時期盟主にはきっと陛下が選ばれていた筈なのだから。
「……恐れ入ります。そろそろ、私を部屋に案内していただいてもよろしいでしょうか? あ、お風呂の準備もお願いしたいのですが。色々あって疲れたため、今日は早めに休もうと思います」
「いや、それには及びませんよ」
「は?」
半ば自棄になりながら、自分の要望を伝えた。
実際、私はそれ相応の待遇を受けて当然の存在なのだから、文句を言われる筋合いなどない。
ところが、サリクスは妙なことを言い出した。
訝し気な表情を向ける私に、彼は笑みを深める。
「何故なら、貴殿にはここで死んでいただくのですからな」
私はソファから立ち上がり、迷いも戸惑いも取り合えずは捨て置き、背凭れを飛び越えて出入口を目指して駆け出した。
予め、いざという時に逃げ出しやすい場所に座ったことが功を成した。
他に手段が思い付かなかったとは言え、サリクスと二人きりになったのはやはり失策だったようだ。
戸口までもう少し、というところで黒い塊が私の進路を塞ぐ形で飛び出して来た。
勢いを殺せぬまま、黒い塊とまともにぶつかる。
衝突した拍子に鳩尾に衝撃を受け、呼吸が一瞬止まった。
「にゃ、あ、あ~~~」
猫が威嚇するような声を出しながら、私に抱き着いているのは黒いドレスの少女だ。
一見すれば、子供が年嵩の少女に甘えて抱き着いているような光景だけど、その腕は信じられないほどに力強い。
子供の……否、人間とは思えないほどの怪力に身体を締め上げられ、骨が軋む音さえ聞こえそうだ。
「ちょっと……!」
顔を顰め、彼女の腕から自分の腕を抜き取ろうとした。
ところが、別の者が背後から私の腕を取った。
「にゃ、あ~あ~あ、あ、あ」
すぐ真後ろからも、全く同じ声が聞こえた。
振り向く間でもなく、白いドレスの少女がそこにいるのだとわかる。
彼女は縄と思しきもので、私の両腕を縛した。
乱暴に突き飛ばされた私は、床の上に倒れる。
「……っ」
痛がる間も与えられず、二人の少女は私を凄まじい力で押し付けながら、今度は両足を縛った。
縄は手首から肘、足首から膝までをしっかりと拘束し、解くどころか血流まで止まってしまいそうだ。
そんな私の耳に、悠然とした足音が聞こえた。
何とか顔だけを上げると、予想通りサリクスが近付いて来るのが見て取れた。
「私はミストレス王家の縁者よ」
ここに至り、死の恐怖が現実味を帯びたことで自ずと鼓動が速くなる。
努めて平静を装おうとしたものの、その声は上擦っていた。
「私を殺せば、ブラギルフィアを敵に回すことになるわね」
「貴殿がここにいることを、誰が知っていると言うのですか」
「……へぇ。貴方は、知らないと思っているんだ?」
サリクスの言葉は私を動揺させるに十分だったけれど、ここで怯むわけにはいかない。
大根役者と言われようとも、とにかく時間を稼ぐことが何よりだ。
「貴殿が、私には……余人には成し得ないことを成す能力を持っていることは間違いない。しかし、あんな場所に出てしまったのは、貴殿にとっても予想外のことだった。違いますかな」
「違うわよ。そんなの、貴方の勝手な妄想だわ」
「まぁ、そういうことにしておきましょう。何にせよ、さっさと息の根を止めておくに越したことはない。……お前たち、彼女を地下に運べ」
サリクスが二人の少女にそう免じると、白いドレスの少女が私の顔のすぐ近くに屈み込み、猿轡を噛ませた。




