89話「人面獣心の女狐」
その時、扉が開く音が聞こえた
視線を向ければ、黒いドレスの少女がティーワゴンを押して部屋へと入って来たところだった
彼女は私よりもずっと背が低く、ワゴンを押すのも一苦労かと思えたけれど、意外にも慣れた手付きで押し進める。
因みに白いドレスの少女は、先ほどからずっと私たちの側に控えている。
おそらくは、私のお目付け役兼牽制なのだと思う。
紅茶の香りが鼻孔を掠めると共に、お腹がぐぅと鳴った。
そういえば陛下が作ってくれたお粥を食べてから、色々ありすぎて食事を摂っていなかったことを思い出す。
黒の少女は小柄な体躯を物ともせずに、手慣れた様子でテーブルの上に運んで来たものを並べていく。
二種類のパン、果実を煮詰めたジャム、パウンドケーキ、干し肉、ピクルス、それにチーズが少々。
いずれも、作り立ての料理ではなく保存の利くものばかりだ。
がっかりとまでは言わない間でも、私をもてなすには不十分ではないだろうか?
「粗末な物しかお出しすることができず、申し訳ない限りですな」
「まぁ、そんな」
さして申し訳ないとも思っていなさそうなサリクスに、私は愛想笑いを浮かべてみせる。
私の胸中に気付いているのかいないのか、彼は黒いドレスの少女へと視線を向けた。
「何しろ、彼女たちは複雑な指示を受けることができないのでね。どうしても、簡単なものしか用意できないのですよ」
「彼女たちは……その、どういう存在なのですか?」
「死人ですよ」
「しびと?」
私が思い切って尋ねたところ、サリクスはさらりと答えた。
何事もないような口調だけど、とんでもないことを聞いた気がするのは気のせいか……いや、違う。
私の疑問に答える代わりに、彼はソファから立ち上がると傍らに立つ白いドレスの少女の側へと寄った。
それから、何の躊躇いもなく彼女の服を脱がせた。
驚いて目を見張った私だけど、ドレスの下にある少女の肌を見た瞬間、思わず言葉を失った。
肩から鳩尾の辺りまで露わになった肌は、どう見ても少女のそれではなかった。
明らかに顔部分とは質感も色も異なる肌……しかも、水分がなくかさかさした印象だ。
まるで、年老いた人間の肌を移植したみたい。
そこまで考えた時、肌に縫合痕があることに気付いた。
よくよく見ると、縫合痕はいくつもあり、しかもそに縫合痕を境目にして肌の質感が異なっている。
それこそ、複数の人間の肌を縫い合わせたかのようだ。
フランケンシュタイン、という言葉が脳裏を過った。
そういえば、サリクスはこの少女たちのことを死人と呼んだような……。
「驚かれましたか?」
「……ええ、びっくりしました」
私は平静を装って……言葉とは裏腹に、特に驚いていない振りをすながら頷く。
黒いドレスの少女が、紅茶を注いだカップを私の前に置いてくれたので、お礼を言ってから一口飲む。
本当は動揺して心臓が早鐘を打っているのだけど、それを悟られるようなことがあっては美少女が廃るというものだ。
「いただいてもよろしいでしょうか?」
「……ええ、どうぞ」
「それでは、いただきます」
サリクスは、明らかに私の反応を不服に感じているようだ。彼とは裏腹に、俄かに満足感を得た私は目の前のパンを手に取る。
ジャムを付けても味を感じなかったけれど、そんなことは億尾にも出さない。
興が削がれたとでも言うように、少女の衣服を整えたサリクスが席へと戻る。
「お口に合えば幸いですが。まぁ、ブラギルフィアでの食事に比べれば不満もあるでしょうが」
「……こちらのお屋敷には、他に侍女や料理長はいないのですか?」
「ええ。何しろ、生者はうるさくて敵わないのでね。なるべく近くに置きたくないのですよ」
そう言って彼は苦笑を浮かべった。
二人の少女へと視線を向けた後、再び私に向き直る。
「その点、彼女たちは実に良い。余計なお喋りはせず、こちらが命じたことだけを淡々とこなす。くだらぬ質問を投げかけることもない」
先ほどから彼に問いを繰り返している当て擦りだ、と感じながら「全くですね」と笑顔で同意を示す。
とは言え、サリクスの言わんとすることも理解できる。
確かに、生きている人間は何かと煩わしいものだ。
こちらの世界に来てから、生まれて初めて侍女というものを付けてもらったけれど、遠回しな嫌がらせを受けたこともある。
「殿下は、普段からこちらにお住まいなのですか?」
「王宮があまりに息苦しいため、逃げて来たも同然ですな。それに、ある時期からは臭いことこの上ない」
「臭い?」
皮肉めいたその物言いに、私は違和感を覚えた。
何となくだけど、それは単なる悪臭を示しているようには思えなかった。
私の視線を受けたサリクスは、何も答えようとせず口の端を吊り上げた。
そして、そのまま私から目を話そうとしない。
居心地の悪さを感じた私は、彼の視線などまるで気にしていないという素振りで、テーブルに並んだ食べ物を口に運ぶ。
曲がりなりにも高貴な身分の者を前に、一人でぱくぱく食べるのはお行儀が良いとは言えないけれど、この際だから構うものか。
もちろん、途中で「あら、美味しい」と言葉を挟むことも忘れない。
「臭いというのは、いったい何が原因なのですか?」
「狐ですよ」
「狐?」
「ええ。我が国に、人面獣心の女狐が居座っておりましてね。その狐の臭いで、鼻が曲がりそうだ。とてもいられたものではない」
「まぁ……」
サリクスは訥々と語りながら、喉を低く鳴らして嗤った。
口元は笑みを形作っているものの、仮面に空いた穴から覗く目は全く笑っていない。
なるほどね、と私は内心で呟いた。
女狐というのはおそらく比喩で、女性に対する蔑称だろう。
ティエリウスの要人を誑し込み、国の中枢部に上手く取り入った女がいる、ということか。もしかしたら、サリクスの父の愛人か何かかもしれない。
そう話している間も、彼の目は小動もなく私を捉えている。
その射貫くような視線に晒されていると、どうにも居心地が悪く落ち着かない。
何だか、言外に私こそがその「女狐」だと言っているかのように見える。
でも、生憎と私がティエリウス国に足を踏み入れたのは今日が初めてだ。
「ああ、そうだ」
サリクスが言った。
不意に思い出したという口調だけど、どこかわざとらしさを感じる。
「エレフザードから、先王……あやつの父親について、何かお聞きになりましたかな?」
「え?」
私は食事をする手を止め、逡巡しつつも視線を持ち上げた。
自分へと向けられた視線を直視したくなくて、襟元を見るに留めておく。
質問の意図が掴めぬまま、首を左右に振った。
大罪を犯して、エレフザード自らの手で処さなければならなかった……とは聞いたけれど、彼の罪が何だったかまでは知らない。
だから、あながち嘘とも言えない。
「そうですか。何とまぁ、それはそれは」
サリクスは、蔑むような口調でそう言うと、乾いた笑い声を立て始めた。
可笑しくて、というよりは馬鹿馬鹿しくてたまらないとでも言うような笑い方だ。
それは、聞く者の不安感を煽る。
先ほどまで何とか気丈さを保ち続けていた私だけど、急激に心細さを覚えた。
以前、この男が陛下の顔を杖で殴打する場面を目撃した。
か細い見た目に反して、随分と凶暴な男である。
人の顔を固い杖で殴るなど、普通の人間ならそう簡単にはできないけれど、彼は何の躊躇もなかった。
……ああ、思い出すと腹が立って来た。
でも、このことが劫を成した。
腹立たしさを思い出したことで、不安や心細さを緩和してくれて、冷静さを取り戻すことができた。
私はきょとんとした表情を浮かべ、それから相手の笑い声に同調するように小さく笑ってみせた。
血の巡りの悪い、相手の感情を正確に読み取ることができない子のように映ればいいのだけど。
「ところで、殿下は召し上がらないのですか?」
相手の話を理解できないまま、話題を変える。
これも、頭の悪く空気の読めない女の常套手段だ。
サリクスは、「はははっ」と吐き捨てるような笑い声を立ててから、唐突に笑うのを止めた。
口元に笑みを浮かべ、細めた目を相変わらず私に向けてはいるものの、そこには温もりや親しみといった感情は一片も見られない。
代わりにあるのは……憎悪?
そんな考えが脳裏を過ったけれど、まさか、とすぐに思い直す。
私と彼との間に、接点らしい接点は殆どない。
確かに、不敬と受け取られかねない発言をしたことはあったとは言え、それだけでは憎まれる理由としては不十分だ。
やはり、私自身がどうこうというより、エレフザード陛下の大事な存在という理由が大きいのかもしれない。
ならば、サリクスは私をどうする気だろう?
もしかして、私が置かれている状況は自分で考えていたよりずっと不味いのではないか。
だとしたら、「時間稼ぎ」なんて悠長なことを言っていられる場合ではない。
その時、サリクスが先ほど何も口にしていないことに気付いた。
ここに至り、暢気にぱくぱくと食べていた自分の迂闊さに舌打ちしたくなった。
心臓が常より速い鼓動を刻むのを感じながら、それでも無理矢理に笑顔を作ってみせた。
「私ばかりいただいてしまい、申し訳ありません。殿下は何も召し上がらないのですか?」
「ええ。私は生まれ付き、食が細いほうでね。……特に、先代ブラギルフィア国王の裏切りに遭ってからは」
「まぁ……」
私はきょとんとした表情で首を傾げる。
毒を盛られたかもしれないというのに、それは非常に興を惹かれる話題だ。
そして、そんな内心を無理矢理押さえ込みつつ「難しい話はわからない」という風を装わなければいけない。
「先代ブラギルフィア王ということは……」
エレフザード陛下の父君ですね、そう言おうとして口を噤んだ。
私が陛下の名を口にすることを予測してか、サリクスが口の端を吊り上げた。
その目には剣呑な輝きが宿っていて、思わず背筋がぞくりとした。
「さすが親子だけあって、よく似ておられますな」
「え……?」
いったい誰と……いや、この場合は母しかいない。
彼がアルヴィースと面識を持っている筈がないのだから。
サリクスはそれ以上何も言おうとせず、顔の半分を覆い隠す仮面に手を掛けた。
仮面を横へと移動させたことで、その下にある素顔が露わになる。
驚くべき場面なのかもしれないけれど、私は特に何の反応することもなく、素顔の彼と対峙した。
「驚かれましたかな。貴殿のような女性には、少々刺激が強すぎましたか」
揶揄するような、あるいはどこかわざとらしい口調だった。




